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リヴァイアトラウトの背の上で  作者: .六条河原おにび


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 セルーティア氏が壁の船内案内図を眺めている間、アルスは吐き気に耐えていた。外にいたときはただの斜面だった。けれども壁と床を認識した途端、耳は閉塞感を覚え、足は下方へ吸い寄せられていく。彼の平衡感覚は狂ってしまった。

 地図から片目を離した氏はアルスを一瞥することもなく、船の奥へ行ってしまう。

「セルさん」

「はあ」

 アルスの口腔は乾いていた。斜面と船の揺れが彼の足を引っ張る。

 手摺りを頼りに、吊り橋を渡るような足取りで氏を追う。

「上に医務室があります。僕はそこへ向かいます」

「オレも追いつきます……」

 しかしそれは果たせなかった。彼が医務室に着いたとき、ちょうどセルーティア氏が出てきたところだった。

「船医さん、いました?」

「はい」

「それじゃ、安心ですね」

「発熱があるようです。冥肝の炎症の際に顕れることの多い花状の発疹も認められます」

「それはつまり、船医さんは病気ってことですか」 

「病気かどうかはまだ定かではありません。しかし発疹からすると冥肝に重篤な障害を来しているようです」

 氏は軽やかに歩きだす。

「僕は船長室に向かいます」

 アルスはまた同じ返事をして後を追う。まるで腿に鉛を括りつけたように重い。山道では味わえない気持ち悪さが()しかかる。

 セルーティア氏はすぐに戻ってきた。船長も発熱と発疹が認められるのだという。先程と違うのは、氏の手には帳簿が握られていた。甲板に出て広げたそれは、乗船者目録だという。ロレンツァの市長で医者という肩書きは強いようだ。

 屋内の気持ち悪さがいくらか薄らぎ、アルスは尻をついて座った。空は青く、潮風が脂汗を乾かしていく。

「セルさん」

「はい」

 氏は学衣の懐から薄い包みを取り出してアルスに渡した。中には船旅草だとかいう青菜が塩漬けになって横たわっている。

「テュンバロに戻っていただけますか」

「テュンバロに……」

 葉に絡みついた塩粒を振り落としながら、アルスはこの草をどう口に入れるか惑っていた。

「船長ならびに船医いずれの指示も仰げないのでは、この場で僕にできることは診察以外何もありません」

「分かりました。でも、どうやってですか。泳いで?」

 しかし泳いで戻れる距離ではなかった。

「船倉に潮走馬(タイダルホース)がいます。浜辺には近付けないでください。晶獣といえども感染源になりかねません」

「船倉にいるってことは、所有物ですよね?」

 やっと草を()み、訊ねる。

「持主には僕から話をつけます」

「分かりました。でも、その前に、リスティの連れ合いは?」

 強い苦味が口腔を痺れさせた。喉が通過を拒否している。 

「503号室です」

「何をしている人なんです」

 セルーティア氏の隻眼が草を齧り、渋さに顔を歪ませたアルスに転ぶ。視線を交わした途端に、橙色の瞳は紙面に帰っていった。

「…………――看護師です」

 黒い革表紙が照った。

「看護師なんですか」

「乗客簿にはそうあります」

 職業欄に医者と書かれた乗客をあたってみたが、彼等彼女等も例外なく発熱と発疹が認められた。

 503号室に向かう。口の中に船旅草に(まぶ)されていた塩の辛さと青臭さが残っているが、酔いは消えた。

「ロレンツァ在住で仕事が看護師ってことは、セルーティア先生は顔見知りじゃないんですか」

「顔見知りではないです」

 船が大きく揺れた。アルスは手摺りを掴む。氏は自らの脚で均衡を保っている。

「セルさん」

「大丈夫ですか」

「セルさんは、フラッド夫人とどのような関係なんですか」

 彼は傾いた足場に気を取られていた。まるで脈絡のない話を切り出された心地になっていた。

「友達ですけど?」

「どこで出会ったんですか」

「王都の近くの港町です。なんでそんなことを、今更?」

 上の階から下の階から轟音が聞こえる。船体が傾いたことで、装飾品や調度品も無事ではないのだろう。

「僕は市長として、ロレンツァの全市民の住民票を記憶しています。ですが、フラッド夫妻の住民票には覚えがありません」

「え……?」

「もしフラッド夫妻が善良な市民ではない場合、王族の友人として相応しくありません。そのことをよく心得ておいてください」

「は……?」

 また取り残される。先に行ってしまったセルーティア氏は503号室の扉を開いていた。無言だった。室内の者と、つまりリスティの夫と会話をしている様子はない。アルスも遅れて中を覗く。無人だった。誰の姿もなかった。寝台と机が傾斜に従っているだけだった。

「他のところで休んでいるんですかね?」

 媚びた声が出た。氏の機嫌を窺っていた。氏が機嫌に左右される人物ではないことは分かっていた。しかしアルスは氏の横顔を見詰めてしまった。答えるように、細い首が振り向く。

「セルーティア先生。オレは王族ではないです」

「今は、まだ、そうです」

「どう転んでも、リスティは友達で、恩人ですよ。それは変わりませんよ。もし彼女が殺人鬼だったとしても、大泥棒だったとしても」

「今はまだそれで構いません」

 セルーティア氏に案内され、船倉へ向かうと、そこは薄暗く、503号室同様に乗客の荷物を入れた箱が片側に集中していた。奥へ進むと、簡易的な(うまや)が設けられていた。

 潮走馬は一見、馬に近い。しかし馬のような被毛はなかった。甲羅を生やし、長い口吻の先端には鰭のついた髭が伸びていた。尾には緋鮒にも見られる膜がある。

 この晶獣は暴れることもなく、アルスたちに怯えることもなく、傾斜に従って座っていた。足先の鰭が照っている。

 柵を開けると、飼われいてるだけある。人馴れしていた。彼が手を伸ばした途端、自ら撫でられにやってきた。鼻を鳴らし、円らな目を細める。

 近くに掛けられていた縄を(くつわ)に繋げることにも苦労は要らなかった。セルーティア氏よりも協力的だ。

「よしよし、いい子だ」

 滑らかな皮膚を撫でる。犬や猫とは違う質感は微細な体毛に絡む油分だろう。

 アルスが厩から潮走馬を出していると、セルーティア氏は彼の後ろを通り抜け、船倉の奥へ向かおうとしていた。

「先生、どこへ行くんですか」

「熱源生産室へ行きます」

「どうして」

「強い魔力を感じます」

 氏は足も止めず、目的地への扉を開けた。その瞬間、アルスの身体が動く。潮走馬の手綱(たづな)を放し、咄嗟に走りだしていた。そのときばかりは傾斜が彼のなかから消えていた。氏の真後ろに回るやいなや、この非協力的な同行者の後頭部にぶら下がる髪束を鷲掴み、引き寄せた。

 氏の目の前にあるはずの壁と扉が砂埃に消えた。(ひし)げた扉を携えた巨大な爪が見えた。獣がいるようだ。ただの獣ではない。

 アルスは氏の髪を掴んだままでいることも忘れていた。塵臭い煙の奥で、禍々しい四足に影が踵を返す。去ったようだ。追って正体を確かめようとは、アルスは思わなかった。

「助けてくださりありがとうございます」

「いいえ……」

 セルーティア氏ならば、あのような獣の接近に気付けるのではないのか。

「強い魔凪って、あれのことじゃないんですか」

「分かりません」

「分からない?」

「あちらから感じます。それだけです」

「でも、奥に行くのは危険です」

 爪を見たのだ。そしてアルスは緋狒羆に引っ掻かれ、顔面を損失したセルーティア氏の有様を見ているのだ。今し方見た爪は、それよりも大きかった。

「運輸目録にタンバールから運ばれた人工魔分子重油があります。海へ流れ出すといずれは海洋生物や海風を通して近隣住民や消費者に影響が出る可能性があります」

 氏は証拠だとばかりに先程の革表紙の帳簿を開いた。しかしアルスは見もしない。

「だから確認しに行こうって? 危ないですよ。それはオレがテュンバロに行ってからです。先生は安全なところにいるべきです」

 けれどもアルスは言った直後に疑った。あの怪物が闊歩している船内に、安全な場所などあるのだろうか。

「テュンバロにタンバールの駐在員がいます。セルさんにはテュンバロ市長への救援要請と、駐在員への報告をお願いしたいのです」

「船を降りてください」

「いいえ。船に残ります。僕は医者でもあります。治療ができなくとも診察はできます」

 アルスは唇を噛んだ。床を蹴りつけたくなった。だが打算が働く。耐えるのだ。通したい要求があるのは、氏だけではない。

「分かりました。先生、無事で頼みます」

 王族に成り代わろうと成り代わらなかろうとも、リスティとは友人なのだ。

 彼は潮走馬を率いて海へ降りると、テュンバロを目指した。馬の乗り方は心得ていた。馬は王族の嗜みだ。乗馬以外にも彼は王子に成り代わるための授業を、当時は他人事として、無駄なこととして、やり過ごしていた。それが今、実生活に迫ってきている。

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