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アルスは集団に呑まれていた。砂浜に近付こうという発想もなかった。しかし集団心理、同調圧力の作用しない人物もいる。青色の巻き毛を馬の尾よろしく横に揺らし、小柄な身体が砂を踏みしめていった。眼帯とローブ姿は顔見知りというほかない。セルーティア氏だ。氏の登場が、町に紛れようとするアルスに発破をかける。
「セルーティア先生、何してるんですか」
隻眼が横に流れ、彼を捉える。
「船内で異常事態が発生したそうです」
緋鮒に化けた王子は回収できたのだ。あとは王都に買えるだけなのだ。しかしそのためには船が早い。だが馬車の選択もある。船が通常運航に戻るのを待つよりも、馬車で帰るべきではなかろうか。
「じゃあ、リスティの意見も……」
彼女の意見も聞こうとした。周囲を見渡す。姿は見当たらない。
「セルさん。フラッド夫人と待機していてください」
「な、何故ですか……」
聞きたくはなかった。だが訊かずにはいられなかった。
「僕はこれから件の船に向かいます」
予想はしていた。だが断言されるまで、嫌な妄想で済んでいた。彼は頭を抱えた。肩が重い。頭を支えていられない。息が苦しい。
「ちょっと待ってくださいよ」
あとは王都へ真っ直ぐ帰るだけなのだ。大至急、帰るだけなのだ。
「セルーティア先生、本気ですか……」
しかし本気かどうか怪しいのはアルスのほうだった。この市長が、この医者が、今まで冗談を言ったことがあっただろうか。
「もうすぐなんですよ……もうすぐなんですよ! 王都まで! 王都まで、もうすぐで……」
だが彼の語尾は奪いとられた。浜に駆けつけてきた婦人の嘆きに被さった。
婦人は氏と対峙する、小舟を漕いできた人物に縋りついた。夫が乗っているのだと叫んでいる。この町の者らしい。婦人に近付こうとする者たちがいた。しかしセルーティア氏はどこからか杖を手にすると、彼等につきつけた。
「被害が拡大する虞があります。船頭さんに近付かないでください」
浜に集まった連中に一瞬の静寂が走る。だが所詮は一瞬のことだった。直後、潮騒は掻き消えた。
アルスは騒ぎを一瞥すると、氏に向き直る。
「近付くと被害が拡大するってどういうことですか」
氏はアルスを遠ざけようとはしなかった。船頭とその足元で泣き崩れる婦人の4人だけ波打ち際で隔絶されているようだった。
「ご婦人、貴方も今、接触者になりました。隔離されなければなりません。セルさん、彼女を頼みます」
アルスは返事をしかけた。
「オレはいいんですか」
氏は、王子の身代わりのためならば人さえ殺すような勢いではなかったか。
「原因は乱波導にあります。セルさんには干渉しません」
浜の来訪者が後退る。しかし足取りは浮いているようで、軸は不安定だった。氏は回りこみ、倒れていく体躯を受けとめる。
周囲から悲鳴があがった。
「船頭さんの保護も頼みます」
「ちょっと待ってくださいって……」
氏に話を聞くつもりはないようだった。隻眼に侮蔑の色を見出してしまう。
目の前に困っている人々がいる。しかしそれ等を見捨てても、王都に帰ることが先決なのだ。王子は1人だけなのだ。王子でないならば、代わりはたくさんいるのだ。社会の歯車は取り替え、引き替え、代用が利き、上手く回るものなのだ。
「あの人を助けてください!」
婦人は立ちあがれないまま、セルーティア氏のローブの裾を摘んだ。婦人の夫の代わりは誰が担うのだろう。
立ち竦んでいると、隣の砂が爆ぜた。人影が飛んでくる。リスティだった。人垣を一跳びしてやってきたらしい。しかし今は、彼女の強靭な身体能力に感心していられる場合ではなかった。
「あの船にはフラッド妻人も乗っているそうですね」
氏の眼差しがリスティを向く。
「ヴィオロンチェロ発の便でしたから、そうみたいです」
アルスは思わず彼女の横顔を睨んでしまった。彼女もアルスに視線を返す。
「ごめんなさい、アルスくん。急いでいるところに……」
彼は首を振っていた。
「セルさん、2人を頼みます。隔離し、安静に。医者の指示に従ってください」
アルスの心の内はすでに決まっていた。決まってはいたが、浜を囲う民衆の顔を見た途端、怯んだ。並んでいるのは病人に対する慈悲の目ではなかった。不安と敵意、拒絶だった。
佇んでいることしかできない彼の肩に手が乗った。
「先生。3人とも連れて行きます」
リスティはしかつめらしい表情をしていた。
ローブが濡れるのも厭わず、小船に向かっていたセルーティア氏が振り向いた。
「混乱や暴動が予想されます。それはつまり、アルスくんの身を危険に曝すことにもなります」
「分かりました」
氏は浜に戻ってきた。ローブの裾は色を変え、砂に覆われていた。そして婦人に抱えられている船頭を小さな肩に担ぎあげる。自身よりも大きな身体だが、易々と持ちあげている。
「リスティ、ごめん。大変なときに、気を遣わせて……」
リスティは婦人を助け起こす。
「何言っているの。あたしのほうこそ"家庭"の問題を持ってきて悪かったわ」
アルスは一足遅れた。けれども彼女たちの後を追った。
王都の北西に位置するヴェオロンチェロ発の巨大貨客船は傾いていた。
セルーティア氏の口振りからすると、感染症の類いが発生しているという話ではなかったのか。座礁したという話は聞いていない。
氏は舳先で腰を曲げ、掌を船床に当てていた。
アルスはその後ろ姿を眺めながら、揺れの不快感を押し殺し、婦人と小船を漕いできた連絡員を看ていた。船旅草とかいう酔いに効く青菜は捨ててしまっていた。船を乗る予定など、王都に戻ったときにはなかった。
吐きそうになり、海面へ身を乗り出す。大きな船の窓から乗客が見えた。身振り手振りで何か伝えようとしているが、アルスには咳が出ていることと、熱か頭痛があることしか分からなかった。
セルーティア氏が上体を起こす。
「フラッド夫人も残ってください」
「あたしも、ですか」
「大気中の魔凪が乱波導によって病毒と結合しています。フラッド夫人にも感染の可能性があります。それから、こちらの原因はまだ特定できておりませんが、強い魔凪を感じます。新たな病毒であれば、予防法も治療法も確立されていないでしょう。僕の治癒術で対応できるかどうか分かりません」
アルスはリスティを瞥見する。一点に目を留めると、腹の辺りを内側から押し上げられるようだった。
「オレが行きます。オレなら問題ないのでしょう」
「危険です」
橙色の目は海面よりも冷ややかに見える。
「危険なことくらいさっきの説明を聞いていれば分かります。でも、オレは問題ないんでしょう。
「セルさんは今、国の存続に関わる人物です。誰を犠牲にしようとも、失ってはならないのです」
片目を覆う布が海風に靡く。
「連れが危険なことに巻き込まれに行くのなら、放っておけないでしょうが。リスティが行きたくて、でも行けないなら、行けるオレが行く。それが人情ってものでしょうよ。首を突っ込みに行ったのはセルーティア先生のほうです。オレがそんなにこのお国にとって利用価値のある大切な人間なら、今後はその点も考慮して行動してください」
「ご教示ありがとうございます。責任を持って、セルさんをお護りします」
彼は気持ちが悪くなった。
「でも、あたしも行きます」
しかしアルスは彼女を制した。
「リスティの大事な人ならオレにも遠回りだけど、大事ってことだから。危ないって分かってるのに行かせられないよ。逆だってそうしただろ、リスティは」
自身の情けなさを彼はよくよく承知していた。不安を抱かせてしまうのは当然のことだった。拗ねてばかりで、何の実績もない。
「アルスくん……」
「利子付きで借金、出世払いしないとだから……借りはちゃんと返したい気質だから、オレ……」
「無理はしないでよ」
リスティは険しい表情だった。
「市長のことは何も心配することはないのでしょうが、"何よりも"アルスくんをよろしくお願いします」
「そのつもりでいます」
強くないからだ。そのために彼女は、夫のことも言えず、年下の他人を案じるしかなかったのだ。弱いことに甘んじた他人を優先しろと、氏に頼むしかなかったのだ。強ければ、彼女は真っ先に頼みたい事柄があったはずなのだ。夫のことを氏に託せたはずなのだ。
「オレは平気だよ」
小船はさらに貨客船へ近付いた。甲板から下りていた綱を渡って露台に上がった。辺りを見回す。人気はまるでなかった。静まり返っている。ロレンツァへ行ったときの連絡船は活気に満ちていた。
「僕から離れないでください」
「そうします」
「ご協力感謝します」
氏は船室の扉を開いた。果ての見えない廊下と無数に並ぶ廊下が見えた。アルスは眩暈を覚えた。天井と壁が視界を塞ぐだけで、足元も安定せず、下方を向いた壁に吸い寄せられるようだった。
テュンバロの病院と同様、氏は一室一室、診て回るつもりなのだろうか。また別の眩暈に襲われそうだった。
「具合が悪いですか」
「船酔いです」
氏はローブを懐に手を入れる。
「酔い止めの薬です。セルさんが今飲んでいる薬と飲み合わせも問題ありません」
薬包紙を受け取る。
「ありがとうございます。水が手に入ったら飲みます」
氏は歩きはじめた。まるで手摺りを使っても躓くアルスが歩行困難者かのようだった。
「どうするんですか」
廊下の果てまで歩けそうにはなかった。
「船医がいるはずです。まずは船医を探します」




