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「理屈は要らねェ。オレ様がそうと言えばそうなんだ。逆らうやつは許さねェ!」
首魁は人質を放ると、大剣を地面に突き刺した。そして柄頭の真上で両手を組む。重なった掌に、松明の燈火とは異質の光が集まっていく。
セルーティア氏は片腕を横に突き出し、アルスを後ろへ下げるた。その鼻先は首魁を向いてはいなかった。氏はよそ見をしている。氏はビーデルくんの囚われた牢を見ていた。氏は別のことに気を取られている。
「セルーティア先生」
どうするつもりか。アルスの背は蒸れていく。首魁の掌の集まる光は強く、そして大きくなっていた。魔力というものを、彼は散々セルーティア氏に見せつけられている。そしてかけられてもいる。ぶつけられては無事は済まないだろう。
氏は返事をするでもなく、ローブの胸元から尖筆を抜いた。先程、小規模な松明代わりにされた哀れな筆記具を牢へ向けて振る。
悲鳴があった。途端に首魁の掌に集められた光は薄くなり、縮んでいく。間もなく消えた。
アルスは肝を潰した。狼狽えたのは彼だけではなかった。魔術を途中で諦めた首魁もであった。
「やめてくれ!」
ビーデルくんを押しのけ、格子を掴む者がいた。小柄な男だった。白衣を着ているが、黄ばんでいる。猫背がさらに卑屈そうな雰囲気を助長していた。格子を伝って滑り落ち、やがて膝をつく。首魁がその男を振り返り、大剣を薙いだ。柵が斜めに斬られる。
「どういうことだ!」
咆哮が谺する。白衣の小男は縮みあがり、凍えていた。
「さ、先程の冥肝では具合がわ、悪かったのでしょう」
アルスは筋骨隆々とした首魁の肩甲骨を凝らしていた。
「そ、その若者から冥肝を取りましょう! やはり若さ! 提供者の健康状態も関係があるもんですから、きっと……」
彼等はすっかり侵入者の存在など忘れているようだった。白衣の男は慄く指でビーデルくんを差す。
「冥肝を取ってどうするのですか。冥肝を取ることと王になることに何の関係があるのでしょうか」
セルーティア氏の疑問は大した余韻を残すこともなく虚空へ消える。
「若僧、前へ出ろ」
首魁は大剣を鳴らす。鋒はビーデルくん本人ではなく、隅で腰を抜かしている人質に構えられていた。
「待って、待って! その前に!」
アルスは手を挙げた。一斉に視線を浴びる。
「島民は解放してくれるんでしょ。その人質、島の人でしょ。オレと交換しない?」
「なりません」
反応したのはセルーティア氏だった。しかし彼は聞かなかった。
「ほら、オレ、人質としての価値は高くて……」
「セルさん、なりません」
「アルスくん、何考えてるの」
「実は名家の生まれだから、脅せば金銀財宝ざくざく出てきたりして。王様になるには資金が要るでしょ。王の成り方、分からないけど」
首魁の口元に笑みが浮かぶ。
「いいだろう」
アルスは木杖を置くと、人質交換のために歩きだした。人質は頻りに首魁を振り向き、身を縮め、蹣跚とした足取りでやって来る。すれ違う。そのとき、ビーデルくんが斜めに撫で斬りにされた格子を跨いだ。魔凪を携え、首魁に躍りかかる。
「やめなさい、ビーデルくん!」
アルスは何が起きたのか見ていなかった。しかし覚えのある声で立ち止まる。ベラム教授の叫びだった。
首魁は大剣を一振りし、ビーデルくんを薙ぎ払う。彼は避けられはしたようだが、無防備な姿勢で落ちたようだった。追撃に備えられる様子ではない。
とても人質交換をしている事態ではなかった。アルスは島民を背に隠す。
「ちょうどいい。ここ貴様の腹を搔っ捌いてやる」
ビーデルくんに白刃が下ろされる。血飛沫があがり、断ち切られた腹から臓腑が広がるはずであった。実際そうであった。しかし刃が捉えたのはビーデルくんではなかった。ベラム教授であった。一瞬の間、血の腹鰭を生やして、地面を滑っていく。
アルスは眦の千切れんばかりに目を見開く。
セルーティア氏は尖筆の先を光らせる。しかし飛んできた火の球によって弾かれた。手下どもが目を覚ましたのだった。尖筆は親玉の足元まで転がり、踏み砕かれる。地面に筆墨が染みていく。
「ベラム教授!」
ビーデルくんは他の連中のことなど忘れたらしく、横たわるベラム教授を揺すり続ける。アルスは眼が乾くほどその様を凝らしていた。彼は自身も人質の一人であることを失念していた。頭になかった。彼もベラム教授に駆けていった。
「そのジジイの冥肝も取っておけ」
首魁が白衣の男に言った。尖筆を抜け落としたままの姿勢でセルーティア氏は白衣男に問う。
「冥肝の摘出手術をしているのはあなたですか」
2人に話しかけられ、白衣の男は悲鳴をあげた。
「だったらなんだ」
代わりに首魁が応答し、大剣を構える。しかし氏は平然としていた。除けようとする素振りもなければ、媚び諂う気もないようである。
「もしあなたであるならば、摘出手術のできる技量ではありません。そして相応しい環境でもありません」
「おっさんと同じになりてェか!」
緋色に染まる大剣が閃く。刎ねられるはずだった氏の襟首を掴む者がいた。リスティだった。氏を地面に転がし投げると、首魁の懐に忍びこみ、蹴りを食らわせる。巨体を足場に宙返りし、追撃が入る。
セルーティア氏は土埃を払うことなく立ちあがる。確かにその橙色の瞳に、喘ぎ苦しむ怪我人が映っているはずだった。しかし何故、氏は目もくれないのだろう。氏の眼差しは地面に置かれた杖に注がれている。
「セルーティア先生。この人を治してください」
アルスの声を聞いているのかいないのか、これという反応はなかった。氏の関心は杖から、手下たちへ移っている。
手下のひとりはセルーティア氏の杖に気付くと、蹴り転がした。持主から離れていく。
「先生!」
アルスがふたたび叫ぶ。
「セルーティア先生、治してください」
今度はビーデルくんが言った。彼の治癒術では出血量を抑えることしかできないようだ。
「この洞窟で僕が魔術を使うのは危険です」
「どうしてですか!」
「素手では魔凪の加減がしにくいからです」
首魁は口角を吊りあげた。そして片腕でリスティを張り倒した。その瞬間をアルスは見逃していなかった。
「殺せ」
手下たちは弓を構える。矢を番えていた。アルスは気付かず、リスティへ走る。
弦音が聞こえた。しかし粘着質な音と爆発音も混ざっていた。前後関係は彼には分からなくなっていた。転倒するリスティを抱えたとき、すべては終わっていた。彼は幸い、真っ赤な霧を見ずに済んだ。ただセルーティア氏の手から煙が吹きのぼっているのを見ただけであった。
洞窟の天井と床が抉れている。砂煙と生臭い匂いが王都での惨劇を甦らせる。
「フラッド夫人」
アルスの腕のなかで前後不覚に陥っていたリスティはすぐさま正気に戻る。
「囚われいた方たちをお願いします」
砂煙の雨音と静寂が洞窟内を支配していた。
リスティの匂いを乗せた風だけ分かった。そして我に返った。アルスはやっと、忽如として現われた大きな塊を認めた。全体的に赤く、わずかな光源を敏く捉えている。濡れているのだ。
軽快な物音を聞いた。自身から発生していた。歯を打ち鳴らしていたのだ。その濡れた赤い塊の正体を理解してしまった。
通路を塞ぐように立っていた下っ端たちの姿が消えている。そこには地面が大きく抉れ、壁には穴が空き、隣の島民たちの囹圄にまで達していた。
首魁も口を半開きにしたまま黙っていた。血の海が広がっている。セルーティア氏は人を殺めたかもしれない。
「せ、先生……」
セルーティア氏は杖を顧みる。一歩、二歩で届く場所ではない。
「彼等の治療は後に回します。動ける者は避難してください。落盤します。まずはセルさん。先に避難してください」
歯を鳴らすのは治まった。しかしまだ顎は震えている。氏の言っていることの理解ができなかった。意味は分かる。だが意図が分からない。
「何言ってるんですか……」
「落盤すると言っています。セルさんは先に避難してください。命がなくては治療もできません」
「みんなを置いていけって言うんですか……」
「はい。誰よりもまず優先されるべき命です」