39
微かな物音で目が覚めてしまった。病室は暗い。薬品の匂いがした。
「セルさん」
誰もいないものだと思っていた。アルスの躯体が跳ねる。
「びっくりした……いるなら言ってください」
「申し訳ございません。います」
「はあ。それで、どうされたんです」
枕元の明かりを点ける。人工クリスタルが動力源だが、魔凪が流出しないよう細工されている照明器具であった。
視界が機能し、煌々とした壁にセルーティア氏の姿が浮かびあがる。
「フラッド夫人の姿が見えませんが、ご存知ですか」
「え? この病院に泊まってると思うんですけど、いないんですか」
「はい」
アルスはリスティとの会話を思い返した。一体どこへ行ってしまったのだろう。どこかへ行くと言っていただろうか。
「オレは何も聞いてないです」
「そうですか」
「探しに行きましょうか」
掛布団を捲る。
「いいえ」
「でも、セルーティア先生なら、探せるんでしょう? 金魚を探し当てたみたいに」
「可能・不可能では可能ですが、法的にいえば許可がない場合、違法です」
「リスティに何か用があるんですか」
「ありませんが、閉院時間を過ぎても姿が見えませんでしたので探していました」
「オレも一緒に探しますよ。心配ですし」
彼は寝台に腰掛け、室内履きに足を入れた途端、閃いた。
リスティは小島のことを気にしていた。
「あ、思い出した。リスティ、ここから舟に乗って行ける島にいるかもしれません」
そして彼の脳裏には集落の焼け跡が甦った。
「南東に島がありますが、そちらですか」
アルスは焦った。リスティは非常に危ない状況にいるのではあるまいか。
「どうされました」
「賊が――」
しかし彼は小島に行ったことを言えなかった。
「賊がいるかもしれないと聞いていて、その、危ないと思うので、オレも行きます!」
勢いのまま立ちあがった。急いでリスティを見つけなければならない。
「セルさんは入院患者です。安静にしていてください」
アルスは目を見開いた。自分よりも小振りな掌が眼前に広げられ、穏やかな光が集まっていく。
眠気を感じる間もなかった。彼の身体は寝台に横たわる。
自然に目が覚めたのではなかった。作為的な力が働き、アルスは目蓋を持ちあげる。真っ先に視界に入る天井は就寝時に見たものと同じであった。肩が凝り、背中と首には汗が吹いている。病衣はすでに湿気を帯びている。倦怠感を覚えながら、彼は寝台の傍へ目をやる。
そこには昨日、ベラム教授と行動していた若い学生が立っていた。只事ではない様子に、内心に湧き起こった悪態も消え失せてしまう。
「どうかしたんですか」
ベラム教授が帰ってきていないのだという。何か知らないかと問われるが、アルスも知らない。
「教授、帰ってきてないんですか。オレも南東の島で別れたきりで……」
その島に昨日の夕暮れと夜、そして今朝、迎えを出したというのだが連絡がつかないそうだ。あの島には賊がいる。そしてビーデルくんもいる。賊とか、或いはビーデルくんとか。どちらかと何かあったに違いない。
繋がれた管を取り外したとき、眩暈にも似た既視感によって彼は一瞬、行動を停止した。昨晩もこういうことがあった。セルーティア氏がやってきて、リスティについて訊ねていたような気がしていた。夢か現実か、曖昧であった。
室内には若い学生と2人きりであった。リスティはまだ寝ているか、所用を済ませているに違いない。セルーティア氏は本来の目的を放り投げて回診に勤しんでいる。まさかあの島にいるはずはあるまい。
だがしかし――
「島に行ってみましょう」
舟を出してもらい、アルスは小島へ向かった。
昨日の案内のとおりに行くと、焼け焦げた集落の北東に確かに洞窟があった。入口に学生を立たせ、アルスは中へと入っていく。この洞窟の誕生が自然のものか人為的なものか、彼には分からなかったが、多少なりとも内部には人の手が加わっている。壁には明かりが掛かっている。
風の通りはよかった。程良く湿気もある。採光も悪くなかった。しかしそのうち、外の光は届かなくなり、燈火に頼ることになる。
低い笑い声が奥のほうから聞こえた。ひとつではなかった。たいそう愉快げで、洞窟の壁を 刮ぐかのようだ。アルスには、幼少期に観た劇「苦獄島冒険譚」と重なってみえた。
そして哄笑に、叫び声が混ざった。怒号にも似ていた。谺する。
アルスは立ち止まってしまった。昨日の、ほんのわずか耳にした程度のビーデルくんの声質をそこに聞き出してしまったからだ。
ビーデルくんは誰か複数人と共にいて、しかし聴覚で得た情報ではとても友好的な状態にあるとは思えない。
進むか、一旦退くか。もし明確に敵対関係にある者が現われたら、果たして口論で終結することができるのだろうか。おそらく相手は賊である。暴力によって決着することを生業としている連中だ。
一旦退く……だが、一旦退いてどうするつもりなのか。そう悠長なことを言っていられる現状であろうか。ビーデルくんは、役人の不手際の尻拭いをしているのだ。
アルスは進むことにした。正面から誰か来る。松明で照らされた人影は、背丈があまりにも低く、下半身が横に広く見えた。歩き方も覚束ない。
「誰だ」
相手もアルスに気付いたらしい。距離が縮まるにつれ、人型の影が剥がれ、詳細が明らかになった。四つ這いの女性の背に、男が脚を組んで座っている。異様な光景であった。馬や熊に乗るのとはわけが違う。乗られている女性のほうが明らかに、乗っている男よりも華奢で小柄なように見えた。
アルスは硬直した。思考も停止していた。
「あのガキのお仲間かい」
「仲間?」
「恍けようたって、そうはいけねェぜ」
手にした棒で、男は自身の乗っている女性を叩いた。悲鳴と怯えに、叩かれてもいないアルスが呆然とする。
「や、やめろよ……」
それは制止ではなかった。独り言に等しかった。喉が痞え、声は震える。王都では見ることのない残虐な光景だった。以前の仕事仲間で、王都の土木作業員たちの大喧嘩のように流血も青痣もないが、アルスには恐ろしいものに見えた。
「あ? なんだと?」
「降りろよ。何してんだよ……」
男は幅の広い剣を背負っていた。アルスは勝算を計っていた。ランタナ師匠からは剣術ばかり教わっていたのではない。しかし女性の背に座る男の対処を学んだことはない。男は毛皮の胴衣を身に纏っていた。掴んで投げることはできるだろう。だが、下にいる女性を巻き込みかねない。
「オ、オレも仲間に入れてほしいな……って思って。略奪、一度はしてみたかったんです!」
敵意はない。服従する。抵抗もしない。凶器も持っていない。探っても良い。彼は両腕を上げた。
「ばかにしてんのか」
「逆です、逆です! 憧れているんです! 略奪生活に!」
男は眉間に深い皺を寄せ、女性から降りた。降りた瞬間を見逃さない。毛皮の胴衣を鷲掴み、硬い地面へ叩き落す。
「逃げるよ」
しかし女性はまだ四つ這いで、自ら立とうとはしなかった。腕を掴んで、アルスは気付いた。女性は裸に近く、何よりも脇腹に縫合の痕があった。まだ新しく、閉じ合わされた肌と肌の間には乾いた血がこびりついている。
彼は病衣の上に羽織っていた平服の上着を貸すと、女性を抱き上げた。洞窟入口に待機している学生へ預ける。
「何か、剣か棒、持ってる?」
けれども学園都市テュンバロの善良で健全な学生が武器になりそうなものなど持っているはずがなかった。アルスは結局丸腰で再度洞窟で引き返す。
投げ倒した男はすでにいなくなっていた。奥から声がする。不穏な風が頬を撫でた。油臭く生温い。
正面から足音が近付いてきている。男が数人、武器を担いで反対側からやってきた。対峙する。膝が戦慄いていた。1対1であれば、まだ活路を見出せたかもしれなかった。しかし期待は持てない。逃げることも考えた。だが、入口には品行方正なテュンバロの学生と、手術後間もない女性がいる。
「こいつです!」
先程投げた男がアルスを指す。最も背の高く、肩幅のある男が親玉らしい。
「捕まえろ」
アルスはまたもや両腕を上げた。鼻で嗤われ、罵倒の言葉が飛ぶ。上げた腕は左右で押さえられてしまった。
この洞窟は一本道かと思われたが、奥へ連行されると2つに分岐していた。明かりの点いていない暗い道ではなく、松明の煌々とした道へ引かれていく。
そこは居間らしい。広く掘られ、土と砂で煤けた絨毯が敷かれている。壁にも小部屋が掘られているようで、しかし扉ではなく格子で仕切られている。檻だ。中に人がいる。
「金魚や闘魚みたいに人を飼っているんですね。大胆だなぁ。素敵な趣味をしていますね。痺れちまいますよ!」
心にもない感想を述べると、肘が顎へと飛んでくる。
「アルスくん?」
檻に入っている人物が明かりの差す場所へやって来る。アルスは目を丸くした。リスティが様子を窺っていた。ある程度、予期していた。しかしこの場で会うとも思っていなかった。
「やっぱり知り合いじゃねェか! どうします、オヤジ」
親玉と思しき禿頭の髭面の大男はアルスを一瞥すると、表情のひとつも変えず、手の甲で彼を殴る。彼は何歩か後退るが、均衡を保てず地面へ転がる。
「その人に手を出さないでください」
セルーティア氏もいた。暗がりが現われる。
アルスは蹌踉と立つ。子分たちの暴力の影にも気付かずにいた。そして最後まで知らずにいた。すぐ傍で起こる爆発に気を取られていた。氏が格子を破壊したのだ。
抉れた地面と格子の残骸から砂煙があがる。鼻と、閉じられなくなった口から垂れ流される血がアルスの粘膜を守る。
「アルスくん、大丈夫?」
リスティは口元を押さえてアルスのもとまで一跳びにやってきた。
「なんでここに来ちゃったのさ」
「あとで話すわ。今は、あたしの後ろに隠れていなさい」
彼女の靴底が地面を擦る。柔らかな風を残してアルスの傍を去った。次々と子分を蹴り倒していく。宛ら舞踊歌劇のようだった。
「セルさん」
格子を失い、小部屋と化した檻を振り返れば、セルーティア氏は呑気な様子で佇んでいた。
「こちらを護身用に使ってください」
氏は杖を差し出す。砂埃に咳を催すでも、目を痒がるでもなく、橙色の片眼を屡瞬かせている。
「ありがとうございます」
アルスは杖を受け取る。剣とは勝手が違うが、扱いきれないわけではなかった。加勢に入ると、親玉が姿を消している。
「リスティ、親玉がいない」
子分を宙で捻りあげ、地面に伸したリスティに投げかける。彼女が振り向いた。そして室内を見回す。やはり親玉の姿がない。




