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リヴァイアトラウトの背の上で  作者: .六条河原おにび
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 島に着く。舟から降りようとすると、後ろから襟首を掴まれた。

「わっ」

「お待ちくだされ、セル少年。最近……」

 話している途中だというのに、ベラムとかいった聖石地質学科の教授はアルスから視線を投げた。アルスもその同じ方向へ目をやる。襤褸布でできたような獣が数頭、彷徨っている。

「最近、何ですか」

「治安がよくないのです」

「あれですか」

 アルスは大型犬とも狼とも判じられない獣を指す。

「はあ」

「その原因というのはやはり――」

「そのとおりです」

 王子がいない。それは王都を離れ、海もわずかに隔てた小島にも影響している。

「こんな田舎では、王族の結界も行き届きませんで。都会の人に話すには、情けない話ですが」

 ベラム教授は親指と示指を擦り合わせる。そして胸元の衣嚢(ポケット)から尖端筆を抜き取った。流れるような所作で筆先を襤褸布めいた獣に向ける。(たちま)ち地面から荊が生える。棘を携えた緑色の鞭は獣を叩く。

「他人様の土地の、素敵な飼犬ですから」

 アルスはベラム教授の顔色を窺った。灰色のに近い空色と、褪せた琥珀色に見返される。

「いずれ、人を襲うのでしょう」

 襤褸布じみた獣は不自然な草木の暴力に遭い、散り散りに去っていく。

「可愛い愛玩動物でもなければ、檻や柵を張り巡らせた実験動物でもありません。家畜でもなく、肉食の魔怪であれば、いずれは」

「襲われるのは、この島の人たちですね?」

「王族の結界もなく、あの魔怪が海を越えるでもなければ、襲われるのはこの島の住人でしょうね」

 ベラム教授の音吐(おんと)は先程よりも低くなっている。

「何故、倒さないのです」

「これがテュンバロ式現地調査のやり方です。余所者(よそもの)余所様(よそさま)の土地を荒らすわけにはいきませんので」

 穏和だった表情はどこへやら、教授の温容は淡白であった。

「ですが危険な目に遭う人がいるのかもしれないのでしょう」

「我々は余所者です。それは紛うことなき事実。余所者の価値観による余所者の勝手な判断で、そこに住まう人々の環境を壊していいはずがないのです。我々は異物。本来は干渉していいはずがない"不自然"なのです」

 アルスは口を開いたまま止まっていた。

「セル少年の言いたいことは分かります。しかしご理解いただけないのであれば、舟でお待ちください。連れてきてしまって、申し訳なく思っております」

 アルスは、開けたままの口を閉じることを思い出す。

「見損ないましたか」

「見損なうのはベラム教授のほうではないですか」

 都会から来た世間知らずの若輩者だと、鼻で嗤っているに違いない。これが王都の若役人であるのかと、嘘偽りない王都の役人たちも侮られてしまう。

「セル少年に、私は現地調査の掟を教えたことはございませんからな。私の開講しているテュンバロ式現地調査学をとっていたのなら、おっしゃるとおりの落胆があったのかもしれませんが、しかしそうではない。ゆえに見損なうことはありません」

 ベラム教授の言う現地調査のやり方に納得できたわけではない。しかし教授の一個人の意見ではないことも分かっていた。だがやはり、危険だと予測しておきながら手を講じないやり口には不満が残る。知識がないからだ。経験がないからだ。教養が。

「オレは何も知らない若僧ですね」

「何か知ったからこそそう思うのです」

 アルスの笑みは曖昧だった。慰め方も年長者である。

「オレも一緒に行きます。王都の役人として、王都の役人の怠慢をこの目で見ますよ」

 嘘を吐き続けるのは大変なのであった。

「怠慢ではないでしょう。この世は手拭い落としの椅子奪り遊び。1人座れば1人あぶれる。座れたのが精霊司定都市と王都圏の住人だったのです。それだけのこと」

「そういう人たちも助けるのが、王都の務めなんですよね」

「本来は」

 ベラム教授に案内され、村へ辿り着く。城下西南にある田園風景よりも見通しがよく、簡素であった。簡素であったどころではない。か細い黒煙を吹きあげている。焦げた瓦礫の山は、とても人の住まいではない。きな臭さは焚火でも炊事でもなく、家々の焼ける匂いであったか。

 ベラム教授は手巾を鼻に当てた。そしてアルスを振り向く。

「魔火ですね。吸わないことですな。焦げた直後の魔凪(マナ)は身体によくありません」

 アルスは袖を伸ばして鼻に当てた。その一瞬の教授は温容をとり戻していたが、向き直った途端、その後姿に張り詰めた空気を纏った。

 来るのが遅かったのだ。炎上の盛りは一昨日の夜か昨日の朝か。現在は焼くものを失い、火力は衰え、地面を黒くしている。

 教授は焦げ臭さのなかに佇んでいた。無表情で辺りを見回している。

 アルスには教授の空を映す双眸がかぎろっているように見えた。

「ビーデルくんを探します」

 独り言のようだった。黒煙の林、焼け崩れた集落を通り抜けていく。

 追う。

 教授の足取りは速い。距離ができてくる。

 集落の奥には四阿(あずまや)があった。四面に数段の階段がある。上りきる。これは焼けずに残っていたが中心にある籐でできた大きな椅子は斜めに斬られていた。血痕が飛んでいる。そして、椅子の傍にはベラム教授の他に人がいた。テュンバロの街で散々見た制服らしき形、色合いの身形(みなり)をしている。側頭部を刈り込んださっぱりとした出で立ちの、歳はアルスとそう変わらない少年は、アルスに気付く。疲れた果てた顔が、教授からアルスを向く。

「ベラム先生……」

 気難しげな面構えに困惑が浮かんでいた。この者がビーデルくんのようだ。

「経過を教えてください」

 アルスが辿り着くまで、2人は睨み合っていたようである。嗄れた声は絞り出すようだった。先程の態度とは大きく違い、教授の語気は突き放すようだった。

「ぼくは……」

「経過を、教えてください」

 ビーデルくんと思しき人物の弱った面持ちが切り替わる。

「ここから北東にある洞窟に、賊がいます。村人たちはそこに連行されました。理由は、ぼくが賊たちの住処から盗品を奪い返したためです」

 教授は不精髭を撫で、遠くを臨んでいた。

「困りましたな」

「ぼくは――」

「君はどうするべきだと考えますか」

「ぼくは村人を助けにいきます」

 アルスは眉を顰め、教授と学生のやりとりを眺めていた。

「役場に一報を入れ、現場から身を引くべきだと思います。ですが……」

「学問に”ですが”は要りません。そうしましたか」

「ぼくは村人を助けに行きます」

「そうしたのかしていないのか、訊いています」

「していません。なのでぼくが自分で、村人を助けに行きます」

「ではそうした場合、その先、どうなると予想しますか」

 ビーデルくんと思われる学生の目が泳ぐ。彼は答えを分かっている。彼が答えを分かっていることを、ベラム教授も察しているはずだ。それを態々、言わそうとしている。

 アルスは半歩、踏み出してしまった。教授がそれを制す。

「わずかな期待にすべてを賭けるつもりですか」

 ビーデルくんは否定も肯定もしない。均衡が彼を縛りつけている。

「ぼくは助けに行きます」

 ベラム教授の問に答えはなかった。回答者は一礼すると、北東に向かって走っていった。

 教授はその後姿を見ようともしない。

「ちなみに、ベラム教授の予想は?」

 静寂を打ち破る。

「村人を人質にテュンバロまでやってくるんじゃないでしょうか。そういう輩は往々にして歪みきり、捻くれた矜持を持っています。やられたままではいないでしょう。この惨状がその証左です。王都圏という場所は、多数のためには少数を蔑ろにすることが許されています。2人助かるのなら1人死ぬことになってもいいのです。1人助かるのなら、より文化的で文明的な社会に生きているほうを生かすのです。その風潮について私が申すことはありません。ただ、それを学生が見てしまう、分かってしまう、理解してしまう影響について、私は危懼(きく)しているのです。学問の答えはときに残酷です。それが答えであり摂理であるからと、それで終わらせたくない。もしその"答え"というものが、自身の思想、主義と相容れなかったとき、どう折り合いをつけるのか。そこまで考えてほしいのです。この島で起こったことは、どうかこの島で留めておきたい……」

「ちなみに教授のご出身は」

王都圏(ここ)ではない、とだけ」

 愛想笑いは船酔いしていたときよりも不健康に見えた。

「どうするんですか」

 萎れた眉がさらに萎む。

「こんなときセルーティア助教授なら何と教え諭したのでしょう?」

「追うんじゃないですか。巻き込まれる人間なんて(かえり)みもしないで。目の前に助けられる人がいるのなら、助けずにいられないんですよ。後先考えず」

 溜息を吐かずにいられなかった。そのためにどれだけの道草を食っているのだろう。

「あの御人は巻き込んだ人を救えるだけの力がありますからね」

 アルスはビーデルくんの向かっていった北東を見遣る。

「セル少年。ご同行ありがとうございました。ここから先は私と元教え子の領分。道は覚えておりますかな」

「1人で行くんですか。じゃあ、オレはなんで……」

「所詮、私は時代に取り残された古臭い人間です。私事でも子育てにも失敗し、実の息子に嫌われているだめな父親。セル少年といることで安堵したかったのやもしれませんな。協力、感謝いたしまする」

「1人で帰れと言われましても、またさっきのような可愛い飼犬がいたら……」

「セル少年は現地調査に来たわけではありませんから、あの可愛い飼犬を打ちのめしたところで私は何も言いはしませんが……」

「そうではなく、武器を持ってきていないんです」

 何よりアルスは入院患者である。 

「魔術を使えばよろしい」

「その魔術が使えません」

 ベラム教授は衣嚢から帯魔計(たいまけい)を取り出す。リスティから借り、腹に埋め込まれたものと同じ規格のものであった。手術跡が疼く。

「使い方が分かりません」

 教授は珍しげな眼差しをくれた。そして今度は自身の耳に触れる。片方ずつ触る。手には耳飾りがあった。留め具の針を手巾で拭う。

「歯を食い縛ってください」

 だがそうする暇は与えられなかった。耳殻を摘まれたかと思うと、耳朶を引っ張られ、鋭い痛みが走る。

「痛っ!」

「あの可愛い飼犬に噛まれるより軽傷のはずです。魔除けのピアスです。今日のお礼としてそちらは差し上げます」

 人魚の鱗の耳飾りのときのようにあ長広舌がはじまるのかと思いきや、ベラム教授はアルスに背を向けてしまった。

「小舟の学生にもよろしく伝えておいてください」

「大丈夫なんですね? 1人で」

「元教え子の尻を拭いに行くだけですから」

 耳飾りの影響か、はたまた取り越し苦労だったのか、舟へは何事もなく戻ることができた。番をしていた学生には躊躇の色が見られたが。アルスはテュンバロへと帰される。

 病院に着く頃には空は暗くなっていた。

 病室の椅子にはリスティが座っていた。雑誌を捲っているが、大した関心はないようである。

「どこ行ってたのかしら。随分と元気な入院患者さんがいたもんね。看護師さん、怒ってたわよ」

 朝、リスティを冷たくあしらったことを思い出す。

「ごめん、ごめん。ちょっと色々あったんだよ」

 今日の出来事を大まかに語った。個人名は伏せた。

「賊が小島で宝を隠しているのね?」

 そうは説明していない。

「賊が小島の村人たちから、物品を奪い取ってるんだよ」

「だからつまり、賊が小島に、島民秘伝のお宝を貯めているということよね」

連絡船で知り合った船酔いの学者との再会について、彼女には何の感慨もないようであった。しかし賊の話になると、彼女の夕焼けを思わせる双眸の輝きが変わる。

「寝なさい、アルス。怪我人は寝る時間よ」

 しかし病院の消灯時間にはまだ早い。

「どうしたんだよ、リスティ」

 セルーティア氏の連れということで、付添い人用の宿泊施設を借りられることになったのだ。面接時間に於いてもまだ帰らずともよいはずだ。  

「セルーティア先生もまだ回診でご多忙のようだし」

「う、うん」

「だから寝なさい。ちゃんとごはんを食べるのよ。おやすみなさい、アルスくん」

「うん……? うん……」

 リスティは慌しく病室を出ていった。

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