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リヴァイアトラウトの背の上で  作者: .六条河原おにび


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 急に泣きたくなってしまった。だがその理由は分からない。どういう感情を持っているのかも、彼は自身が分からなくなっていた。薄気味悪いのか、嬉しいのか、悔しいのか、何も分からない。ただ眼球が熱く沁みる。目頭から滲むものをすべて出し尽くしたくなった。

 城前広場にはすぐに着いてしまう。彼は少しだけ寄り道することにした。目的地の脇にある、街道に繋がる前の小規模な休憩所だった。王都の夜景は乾燥している。ロレンツァや港町を経て、知ったことだった。花壇の(へり)に腰を掛けて脚を投げ出す。 

 ガーゴン大臣の前で卑屈になりすぎたのだろうか。彼は己の言動を反芻した。だからあのようなことを言ったのだろうか。いいや、励ますつもりであったのだとしたら、あの(こわ)い男のもとに養子としていくことが一体何の励ましになるのか。

 彼は混乱してきてしまった。闇禿鷹だの八つ又蛇だの冷評されている老獪な親仁が、意味もなくあの時機にあのような話をするだろうか。否、気心の知れるほど長くいたし、親子ほども歳が離れている。あの一言を放つことによって驚きを与えるなど、考えてもいなかったのかもしれない。

「大丈夫?」

 声がかかった。突っ立っている彼女は話しかけるのを躊躇っていた様子だ。

「リスティ……どうしたの」

 コーヒーマグを差し出される。苦味のある芳しい香りがした。人工クリスタルを使った無人販売機のマグである。受け取ると、中身は熱かった。

「暇だから散歩していたら、泣きそうなアルスくんにばったり……ね」

「オレ、泣きそうだった……?だとしたら、故郷が懐かしくなっちゃってだね」

「ああ、そういえば例の"カノジョ"に会ったわよ。かわいい子ね、清楚で」

「えっ、会ったの?」

 それを聞いて肝を潰した。何に落ち込んでここまで来たのか忘れてしまった。

 リスティは内向的で陰気な女ではない。むしろ社交的な性質の女である。初対面であろうと古い友人を思わせるようなところがある。あることないことを喋ることができるような……

「会った、は語弊があるわね。見かけたわ。アルスくんの知り合いだって言ったら、看護師のお偉いさんが教えてくれた」

 彼女はアルスの隣に腰を下ろし、自分のマグを握る。

「あの人も誤解してるからな……」

 看護師長のことだろう。揶揄われているのだ。

「そういえば、セルーティア先生はどこに?」

 彼は訊ねた。

「広場で怪我人の手当てしてるわ。アルスくんも手、怪我してるみたいね」

 傷を負っていることを思い出す。巻かれた包帯が赤く染まっている。痛みはなかった。

「うん、ちょっと……」

「大きな鳥が飛んでたからアルスくんのこと探そうと思ったんだけど、今度はあたしが迷子になるなって思って。でも無事でよかったわ。傷、セルーティア先生に看てもらいましょう」

「うん。ああ、そうだ、泊まるところ、決まってる?オレは野宿でも構わないし、どこでも寝られるから、決まらなかったらオレの家使って。立ち入り禁止にはなってるけど、普通に使えるし」

 彼女は軽やかに笑う。嫌な予感がする。

「あらあら」

 おどけた含みのある笑みだった。

「あまり2人きりでいちゃ悪いわね。そろそろ行くわ」

 そしてコーヒーを飲み干し、回収箱にマグを置いて去っていった。アルスは帯魔計を返しそびれていたことに気付く。使い方が分からないのであれば、持っていても仕方がない。賃貸料と利子が発生しているのだ。出世払いに加算されてしまう。

 アルスは生温くなっている液体が冷めるまでちびちびと飲んでいた。持ち上げた腰が重く感じられた。広場へ行くと相変わらず天幕が点綴(てんてい)と張られている。数日前に幼馴染を預けた天幕へ顔を出すが、そこに知った顔はない。服装からして看護師見習いの学生と思しき人物がいるのみだった。ひとつひとつ覗いていく。天幕に置かれている負傷者を目にするにつれ、王城襲撃の事の大きさが見えてきた。見ないようにしてきたのか、見ていなかったのか、見えなかったのか。災難に見舞われたのは王子だけではない。

 セルーティア氏は予防着を身に纏い、天幕から天幕を駆けずり回っていた。アルスのいるところにもやって来る。装着しづらそうな膜手袋をすばやく嵌める所作は手馴れている。

「セルさんも怪我をされたようですね」

 この天幕を充てられた負傷者には意識がなかった。点滴台の林に囲まれ、全身に包帯が巻いてある。血が滲んでいた。口や鼻には管が挿してあり、人工クリスタルで動く装置によって生き長らえているようだった。生々しい匂いと不安な吐息があの日の出来事の詳細を物語る。

 手の甲の傷など、あまりにも呆気ないものだった。

「大した傷では……」

「この数日間は忙しかったでしょう。身体が弱っている可能性があります。薬草の塗布剤を作りますから、少々お待ちいただけますか」

 氏は負傷者から包帯を剥いでいた。傷口を見てしまう。生々しく濡れた患部に、異様な紋が浮かぶ。

「これが重度の魔熱傷です。さらに魔凪(マナ)に触れることで、やがて結晶化します。こうなると治癒術は却って毒です」

 とても名医や市長とは思えない人形のような少年の隻眼が、突如患者からアルスへ向いた。不可解なものを見つけた猫みたいな眼差しだった。

「フラッド夫人とセルさんは、僕の助手ということになりました。優先的に学園の寮がとれるかと思います」

 汚れた包帯は屑籠に捨てられ、セルーティア氏は器を抱いた。なかには青臭い泥のような質感の液体が入っている。それを掻き混ぜ、刷毛で傷に塗りたくる。

「王子の埋められている場所が分かりました。すぐに掘り起こしてもらえるよう頼みましたから、そのあとの治療については、よろしくお願いします」

「承知しました」

 生傷が覆い尽くされていく。雑草を磨り潰した匂いと、傷の匂いが混ざっていた。そして上から、この天幕に常駐しているらしき看護師と新しい包帯を巻くのだった。

「また少ししたら様子をみにきます―セルさん、薬を作りますから一緒に来てください」

 手早く膜手袋を脱ぎ捨て、セルーティア氏は次の負傷者のもとへ向かった。だがその天幕に患者はなかった。診察台と机、椅子が置かれているのみだった。そして観葉植物よろしく看護師見習いみたいなのが控えている。

「その手の傷はどうされましたか」 

「薬が勿体ないでしょう。大した傷ではありませんし、オレは平気です」

「すでに医者に診せているのですか」

「いいえ……」

「ではセルさんは僕の患者ということになります。もう一度お訊きします。傷はどのように創りましたか」

 氏は机の上の板に紙を貼り付け、筆を走らせた。

「鳥に突かれまして……」

 筆が紙の上を這う。

「鳥ですか。大きさは」

「人間よりずっと大きいですよ。怪物です」

 (たお)やかな冷たい手が膜手袋を嵌め、アルスの手に結ばれた包帯を解く。

「この手当てはどなたがなさったのです」

「王囲親衛隊の将星だと……」

 セルーティア氏は隅に控えていた看護師見習いみたいなのに小難しい単語を並べていた。暗号のようだった。そして鑷子(せっし)を用いて、酒臭い綿を抓む。

「痛い?」

「はい。沁みるかと思います」

 アルスは目を瞑った。手の甲に消毒綿が触れたらしき感覚はあったが、痛みはなかった。

「魔凪を帯びています。解きます。痛みますのでご了承ください」

 「ご了承ください」に拒否権はなかった。氏の華奢な掌が翳された途端、ばちん、と音がして、皮膚の破れた鋭い痛みが訪れる。

「魔物の爪や牙は、人の魔凪と相性が悪いですから、魔熱傷を起こしやすくなります。よりいっそうの消圧が必要です」

 看護師見習いみたいなのが泥のような薬を調合し、掻き回しながらセルーティア氏へと渡す。

 手の甲の傷は血は止まっていたが、(おぞ)ましい襞を作り、周辺は腫れている。そこに汚泥じみた薬液が乗る。温かかった。刷毛は思っていたよりも柔らかい。これが名医の技量なのか、はたまたそういうものなのかは分からなかったが、刷毛も泥薬も肌理(きめ)に染み渡るようだった。

「背中を怪我した金髪の女の子を見ませんでしたか。オレと同じ年頃の……」

 セルーティア氏は薬の入った器を避け、包帯を受け取り、泥の乗ったような患部に巻いていく。

「診ました。こちらでの治療は不要と判断したので、かかりつけの診療所のほうへ移ってもらうことにしました」

「彼女の怪我も治してほしいのです」

「僕の言う"治す"という概念と、セルさんのおっしゃる"治す"には乖離があるようです」

 アルスはその言葉の意味を、包帯が留められるのを所在なく凝らして考える。

「その人は、すぐに傷を塞いではくれませんよ」

 残った泥薬の処理をしていた看護看護師見習いが容喙(ようかい)した。その物言いには棘がある。反射的にその者を見遣った。王立学園の学生にありがちなローブに、詰襟のジレ、その詰襟の留具らしき木製のチョーカー。どこの王立学園かは分からないが、ありきたりな王立学園生的な身形であった。そこに口覆と予防着、衛生帽、膜手袋が付属している。看護科や医学科の学生が駆り出されているのだろう。(はなだ)色の髪は腰の辺りの毛先で束ねてある。

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