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リヴァイアトラウトの背の上で  作者: .六条河原おにび
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 王都フェメスタリアのなかでも自然公園と呼ばれる(ひな)びた区画にある水辺で、腰まで届く赤い髪の彼は釣りをしているのが好きだった。退屈な毎日であるが、不幸せではなかった。飽いた穏やかさであるが、悪くはなかった。

 アルス・セル―は暇を潰していた。釣果(ちょうか)はいまいち。暗赤色の髪に局所的に混ざる黒毛を束ねたこの少年は、王都の今風の若者みたいな身形(みなり)をしていた。しかし市井(しせい)の今風の若者ならば()うに飽きていてもいいようなことばかりやっていた。

 所在なく水面を凝らしていると、やがて釣り竿が(しな)る。釣り上げると、金色を帯びた朱の小魚が引っ掛かっていた。飼育下にしか存在しない種であることを彼は知っていた。野に放たれたのだろう。

 アルスはそれを、市場で安く手に入れた鉢に入れた。妙に愛らしいその魚をまた川に放っておくことができなかった。

 この大したことのない釣果で満足してしまった。果ては飽きてしまった。城へと帰ることにした。その途中で小振りな観賞魚を売った。それで得た小銭で王都産の萎びた感じのするりんごを買った。王都の名所ともいえる長い市場通りで、今日もたいへん賑わっている。威勢よく売り文句が飛び交う。ここは確かに王都で、王都を象徴する場所ではあったけれども、王都的ではなかった。彼等は外部から来た者たちであったし、王都に移り住みはしているかもしれないが、王都の生まれの王都の育ちではないのだろう。つまりは王都的ではなかった。

 アルスは青果店の若い従業員と顔馴染みだった。何かを釣ってはどこかで売り、得た小銭でこの店の果物を買い、王都民としてはあるまじき食い歩きをして帰途に就くのである。彼はこの市場通りで店員たちとくだらない、何の役にも立ちそうにない話をするのが好きだった。何が売れていて、何が新しく入ったのか。興味はないがつまらなくもない。

 実にならない雑談を終え、別れ際の二言三言を交わしていると城のある北側から警笛が聞こえた。そしてまるで呼応するかのように、空には暗雲が立ちこめた。日課のとおりりんごに齧りつこうとしたが、それを諦めた。彼は少し離れて聳え立つ城郭、特に尖塔を仰いでいた。鼻からは雨天へと移りゆく匂いがする。大気が徐々に霞んでいた。

「嵐でもくるのでしょうか」

 青果店の従業員は折り畳み式の派手な(ひさし)から空を覗いていた。

「嵐であんな警笛吹くかな」

 それは独り言のようだった。彼は店員へ横面を晒したまま、暗くなっていく空に佇む城の影を凝らしていた。王子の暮らす部屋の窓が、燈火にしては眩い気がした。

 至急帰らなければならない、不穏な予感がした。アルスはりんごを衣嚢に入れて、城へと続く階段を急いだ。

 王都は土地の高低差が大きい造りになっている。城のある北に向かうにつれ、土地が高くなり、王都内はどこでも緩やかな階段や傾斜が設けられている。

 意図不明な警笛によって、行き交う人々は戸惑っていた。できるだけ城から遠ざかろうとしているようにも見えた。城へと行きたいアルスは、そういう人々の流れとは逆行するかたちになる。

 城前広場まで辿り着くと、都の警備兵たちが城へ続く道を封鎖していた。そして警笛を鳴らす。アルスは兵士の1人に事情を訊ねようとした。だがそのとき、城の一部が吹き飛んだ。爆発音が今にも雨の降りそうな空へと轟いた。城の一部から現れた砂煙が、曇天へ冪々(べきべき)と膨らんでいく。これは異常な事態だった。彼は話をしている場合ではないことを悟る。城で育った彼にとっては庭ひいては自宅が荒らされているも同然だった。

 彼は封鎖されている道を飛び越え、突き進んだ。そこは王都の建てた小さな宗教施設―唱名堂がある。信仰の対象は王族であったはずだ。信心深い者たちは、その場所で「王族拝跪」と恍惚と歓喜に満ち満ちた声を上げる様を何度か見たことがある。そしてそこは一般の王都民たちが唯一城内に立ち入ることを許された場所でもあった。

 アルスはそこから城に入ることにした。しかし長かった。彼のよく知る大広間へ行くにはここから入ると大分複雑な経路を辿ることになる。

 家が壊されている!それが彼を焦らせ、冷静な判断を奪い、部外者の城内への侵入を防ぐための厄介な構造へ(いざな)ってしまった。

 このフェメスタリア城は確かに彼の家だ。生まれ故郷だ。しかし城といっても規模はおそろしく大きい。彼はこの宗教施設経由での城への経路についてあまり詳しくなかったのだ。

 この国絡みの迷路を攻略し、彼は大広間へようやく到着した。調度品は倒れて砕け散り、壁には穴が開いていた。王や王妃は無事だろうか。彼はそこから謁見の間に移った。そして見知った人物を発見した。金糸の織り込まれた赤絨毯の上に座り込んでいる。(うずくま)っているようでもあった。

 明日、国の行事がある。そのために城を訪れていたのだろう。長い金髪の彼女はアルスの幼馴染のセレンであった。彼は幼馴染なのだから、当然のこととして彼女を知っていた。ところがアルスの知らない姿がそこにあるのである。彼女の背には赤い翼が生えていた。そして片方のみだった。いいや、両方あったのだろう。しかし皮膚ごと抉られている。彼は二重の驚きに言葉を失う。彼女は片方の翼を()がれ、傷口を真っ赤に濡らしていた。床へ腰を下ろしているのはその痛みのためか……

 アルスは呆然としていたが、そう呑気にもしていられなかった。セレンは怪我を負っているのだ。

「セレン!一体何があったの?」

 痛みのためか、向けられた表情は険しかった。

「リーザなの……リーザなの……城を襲ったの、リーザなの……」

 傍へ駆け寄り、屈んだアルスへ彼女は縋りついた。彼は出されたその名に目を瞠る。リーザという人物は彼女の元婚約者であり、幼い頃によく遊んだ友人である。しかし、その者は……

「嘘……」

 傷付き、痛みに汗ばむ彼女の言を真っ向から否定したいわけではない。だが、有り得ないのである。リーザが姿を現すということは不可能なのである。何故なら、その者は故人だった。生きている者ではないのである。

「本当なの。お願い、信じて……リーザはレーラを狙っているみたいだった」

 唐突な故人の登場に狼狽えている間はない。真偽を判断している余裕もない。ただ城の襲撃者がいることは確定している。そして王子が今、危機の中にいるという。彼は咄嗟に立ち上がった。ところが事態はそう簡単に割り切れるものではない。王子のもとへ行ったとして、彼女はどうなるのだろう。背中の傷の範囲は広い。出血量からみても浅くはないようだった。だが周りに人がいないのだ。あるには在る。人の形をし、実際それは人だった肉の塊である。

「セレン、ひとりで逃げられる?」

 彼女は周囲に転がる警備兵や侍女たちの遺骸を見渡していた。その横面には怒りがかぎろう。

「わたしも一緒に行く」

「いいや、君は脱出するんだ。オレ一人で行くよ」

「でも、」

「いいから。守れる自信、ないよ」

 聡明な幼馴染だった。自身の言葉が彼を突き動かさざるを得ないことを理解していたのだろう。そして彼が一人で帰すことに不安を抱いていることも分かっているのだろう。だが彼女もまたそうするほかなかったことを十分承知しているようだった。ゆえに譲歩するしかなかったのであろう。その悔しさが見て取れるのだった。

「ごめんなさい、アルス。でも、どうか無事で」

「それはセレンも」

 この状況で負傷している彼女を一人にすることに対してまだ躊躇いはあった。だが行くしかなかった。アルスは上階を目指して走り出す。所々、階段や廊下が崩落し、迂回する必要があった。王子の部屋というのが遠いのだった。警備兵や官吏、下回りの死体を乗り越え駆け抜けていく。残酷なことだったのかも知れない。だがそれらひとつひとつに感情的資源を割く余裕もまた彼にはなかったのだ。

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