七.堤防にて
コチョウさんに一礼してから道路に出ると、刺すような日差しとは裏腹に涼しい風が吹き抜けた。グレーがかったアスファルトは照り返しも柔らかい。とりあえず叔母さんに教えてもらった通り、海を右手にしてのろのろと歩いてみた。試験前の通学路だってこんなにゆっくりは歩かなかったと思う。
駄菓子屋に行くのは後にするにしても、今はどうしよう。遊べそうなところのない場所なのは来た時に知っている。海水浴しようにも一人では危ないし、そもそも水着がない。いつもなら友達と遊びに行くと嘘をついて、駅前の本屋で立ち読みして、少ないお小遣いでコーヒーを飲んで、二時間三時間と暇をつぶしている頃なのに。都会っ子が田舎を監獄のように思うのも無理はない、とついつい思ってしまう。
そのままだらだら歩き続けていると、ふと眼下に堤防が見えた。海に突き出すように作られたコンクリート。そこに大きな麦わら帽子が落ちていた。何事かと思って覗き込めば、なんのことはない、釣り人の被っているものだった。
「キュウベエ、くん?」
イヤホンを外しながら声をかけると、キューちゃんはすぐに顔をあげた。相変わらず目鼻立ちのはっきりした、ギリシャ神話に出てきそうな顔だ。
「ナッちゃん!」
キューちゃんは例の、人の好さそうな笑顔で応えてくれた。
「釣れてる?」
「いいや。けど面白いよ」
「そんなに?」
「うん。一緒にどう?暇してるでしょ」
「やったことないんだ。竿も無い」
「貸すよ」
「乗った」
「乗られたぁ」
にしし、と歯を見せて笑う。その顔があまりに幼くて可愛らしくて、少しだけ気持ちがほっこりした。
堤防までは石段を下りてすぐだった。その間にキューちゃんはラジオを切り、ナイロンのバッグからぽいぽいと何かを放りだしていた。銀色のペンにハンドルのようなもの、折り畳み式の椅子と三脚。キューちゃんはまずペンを掲げると二、三度咳ばらいをした。
「さて、手前ここに取り出したるこれなるこのなつめ」
「なつめ……?」
「あ、そうだった。取り出したるこれなるこのペン、この中には一寸八分、唐子ゼンマイの人形……じゃない、ロッドが仕掛けてある!」
少し頬を赤らめながらキャップを取る。そこにはマトリョーシカのように銀色のパイプが何本も仕掛けてあった。キューちゃんは先端をつまんで伸ばすとハンドルや糸を取り付け、あっという間に釣り竿に早変わりさせた。色あせた浮きがかえっておしゃれに見える。
「……ナッちゃんが来るかもしれないと思って、用意しといたんだ」
バツが悪そうにしているのを見て、ついついプッとふき出してしまった。
「なんだっけ今の、外郎売?」
「ううん、ガマの油の売口上。ラジオでやってるの聞いて……」
「渋いね」
「うん。でも外郎売も渋いよ」
「およそ高校生の覚えるもんじゃないよね」
「ううん、まだ中学」
「へえ?」
うっかり間の抜けた声を出してしまう。今度はキューちゃんの方が笑い出した。
「よく間違えられるんだ。背の順だって一番後ろから動いたことない」
「いいなあ、こっちは前の五人を行ったり来たり」
「え……ってことは、ナッちゃんも中学?」
「失敬なやつだな!」
そう怒ってから、すぐに笑ってしまった。キューちゃんもお腹を抱えてしゃがみ込む。失敬。失敬だって。中学生が、失敬。およそ若者の使う言葉じゃない。
「二年?」
ひとしきり笑ってから、涙をぬぐって聞いた。
「うん」
「じゃあ同じだね。キューちゃんって呼んでも失敬じゃない?」
「じゃない、じゃない。全然失敬じゃないよ。こっちこそ、ナッちゃんなんて失敬?」
「ぜーんぜん。むしろ敬意が有るくらい」
「有る敬?」
「アルケーってどっかで聞いたね。何だっけ」
「何だったかなあ。とりあえず、ここ座って」
キューちゃんの出してくれた椅子は錆が浮いていて、体重をかけるとギシギシ音がした。きっと海風でできた錆なのだろう。釣り人の勲章とも言えるかもしれない。
「すっかり小学生だと思ってたからさ。小さい頃使ってたの引っ張り出してきたんだ」
「失敬だってば。でもそんな歳から釣りしてたの」
「あたぼうよ。僕は海の男だからね」
「その割には迫力ないなあ。海の男というより田舎小僧……」
「君こそ失敬ではあるまいかね。エヘンエヘン」
もう無駄に笑うまい。そう思ったのに口をわざとらしくへの字にしたキューちゃんが可笑しくて、またも大口を開けてゲラゲラ笑い合った。こんなに笑ったら後であちこちの筋が痛くなるかもしれない。けれど今は、それでもかまわないと思えた。
釣りは幼い頃に、ブラックバスを釣って以来していません。
いつか海釣りに行きたい。