五.お嬢さん
「ちわぁ、お魚でーす」
「はァーい……わ、アジ!アタシこれ好きィ」
「先生に頼まれましてね。ほんと、今とって来たとこ!小さいからその場でね、シメちゃったの」
「キャーッすごい!おじさんやるゥ」
玄関先からわいわいと声がする。パンを切る手が止まっているのに気づいて、叔母さんがこっそり耳打ちをしてきた。
「あれはキューちゃんのパパさん。漁師さんでね。コチョウが好きな魚を教えると、次の日にはああやって持ってくるわけさ」
「お好きなんですね、コチョウさんが」
「まあ嫌ってたらやんないわな」
そういうことじゃない。そう言いかけたけれど、ふと叔母さんが詮索嫌いなのを思い出して口を閉じた。自分のことだろうと他人のことだろうと、あれやこれやと深く聞くのは好かない人なのだ。だから親戚一同は誰も叔母さんのことを深くは知らないし、叔母さんも我々のことを知ろうとしない。
叔母さんは火を止めると台所を離れ、コチョウさんたちの方へと合流した。
「やあ、すごいもんだ。跳ねそうじゃないか」
「あっ先生、おはようございます。いやあ、小さいうえにそんなに数はないんですが……」
「アジはアジですよ。えーとこれだけの数なら……二枚で足りる?」
「いやいやいや!小さくて傷もあるし、お代は結構ですよ。もう持ってっちゃって」
「あのね、仮にもそれで食ってる人間がタダでさばいちゃいかんでしょ。ちょっとでもいいからもらいなさい。ほら」
「あ、エヘヘ……じゃあサービスでお台所まで運びます。重いですから」
誰か来る。そう思っただけで急に手が慌てだした。さっきまでのてこずりようからは想像もできない速さでパンを切り、皿に並べ、コンロのつまみをガチャガチャ回す。やっと火が着いたと思えば、卵のじわじわ焼ける音が良いBGMになってくれた。
「あれ?えーと、あの子は……」
怪訝そうな中年の声。フライ返しを意味もなくせかせか動かしながら振り返ると、案外筋肉質な男性がトロ箱を抱えて立っていた。彼がキューちゃんのパパさんらしい。
「ええと……タツキ叔母さんの、親戚です。夏休みで遊びに来てて」
「ああ!」
少し説明をしただけで、パパさんはパアッと顔色を変えた。
「ええ、ええ、聞いてますよ。せがれが昨日ご挨拶したそうで……いやあ、可愛らしいお嬢さんで……」
お嬢さん。かあっと全身の血が沸騰した。
「お嬢さんじゃ、ないです」
絞り出すようにそう言うと、パパさんは明らかに慌てだした。
「えっ!あ、ああ、こりゃ失敬!そうだよなあ、女の子にしちゃ凛々しいと思ったんだ」
「おやおやまあまあ……ごめんね、ややこしいエプロン渡しちゃって」
「いえ、間違えたのはこちらの落ち度で……いやはやなんとお詫びすれば……」
パパさんはどんどん縮こまっていく。時々すがるようにコチョウさんの方を見ているけれど、そちらはそちらで厳しい目つきをしているから、三対一でパパさんの負けといった感じだ。こうなると怒る気も失せてしまう。
「あの、大丈夫です。よく言われるんで」
「そ、そうかい?」
パパさんは活路を見つけた、とでも言いたげに顔色を明るくした。
「ありがとう!いやあ、優しいお坊ちゃんだ」
「……ナツキです。ナツって呼んでください」
「ナツくんか。短い間かもしれないが、うちの九兵衛と仲良くしてやってくれよ」
キュウベエ。きっとキューちゃんの本名だろう。今時古風な名前だ。
「あのォ、朝ごはん食べていかれます?アタシたちこれからなの」
「あっいえそんな!俺たちこれから帰るとこだから。せがれがね、外で待ってるんだ」
「アラ、だったらキューちゃんも一緒に……」
「平気、平気!それにほら、まだやることがあってね。また今度ぜひ、それじゃ!」
パパさんはそう早口にまくしたて、ドタバタと戸口の方まで走っていった。後ろ姿が耳まで赤い。アプローチするのは得意でも、アプローチされるのは苦手なようだ。おい行くぞ。まってよう。窓越しに父子の短い会話が聞こえてくる。きっとキューちゃんは庭の花々を見ていたのだろう。ああいう明るい笑顔の人には、色とりどりの花がよく似合う。
「いやあ、人に見られちゃったね」
叔母さんは申し訳なさそうな声色でそう言うと、青いふちのきれいな皿を差し出してきた。白身が少々こんがりした目玉焼きを一つずつ、丁寧に移す。新鮮な卵なのか黄身がぷりっとしていて何とも食欲をそそった。
「美味しそーォ!ナッちゃん料理うまいのね」
「おいおい。それはほとんど先生が焼いたんですよ」
「アラ、だったらうまいはずだワ。いつものなんだもン」
いつもの、という言葉に、ふと素朴な疑問が沸き上がった。
「あのー、父は美人が……コチョウさんが、朝ごはんを作ってくれると」
「あ、それね。センセェが作ったのを、アタシが持ってっただけ」
「先入観というやつだね。炊事洗濯フリルのエプロンは髪の長い女のものという、昔気質の思想を捨てきれないかわいそうな大人なのだ。そしてそれを理解できてしまう我々もね。さあ哲学はおしまいだ、朝ごはんが冷めちまう」
いつの間にかダイニングには完璧な朝ごはんと、もくもく湯気を立てるコーヒーが並んでいた。イギリス系のホームドラマにありそうな光景。自分がその中にいるということに少々心がときめいてしまう。日常にしてしまうには惜しいくらいの食卓を囲み、静かに手を合わせた。
「いただきます」
そう言うが早いか、叔母さんは目玉焼きをフォークですくいあげて無造作にパンに乗せ、パッパと塩胡椒を振った。
「あーっいけないんだァ。お行儀悪いわよセンセ」
「よいではないか、よいではないか。目玉焼きはこうして食べるのが一番なのだよ」
叔母さんは涼しい顔で目玉焼きパンにかぶりつく。はふ、と時々息を漏らすのがどことなく可愛らしい。そう思っているのはコチョウさんも同じようで、もう、と一言怒ってからは微笑みすらたたえながら叔母さんの方を見ていた。そんな視線に気づいているのかいないのか、叔母さんは黙々と食べ進めると指についたパン粉を舐め、コーヒーをブラックのままゴクゴク飲んだ。見えるはずのない喉仏が見えるようだった。
「ん……この食べ方はうまいんだがね。サイドメニューを単体で食べなければならなくなるのが難点なんだよ」
「じゃあやめればいいのに。センセェって変なところバカよねェ」
「やめられんのだよ、これが。あ、ナッちゃんは塩胡椒?それとも醤油かね」
声をかけられて、初めてハッと我に返った。
「あ……いつもは、醤油です。うち、朝は和食なんで」
「にゃるほど。じゃあうちも明日は和食にしようか」
「え、そんな気を遣っていただかなくても」
「さにあらず」
叔母さんはサラダを小皿に取り分けて、ドレッシングもかけずにムシャムシャ咀嚼した。
「我々の朝ごはんは特にこれと決まっていないのだよ。時間があればちゃんと作るし、無いときはヨーグルト一個なんて時もある。今日は時間があったから、海外のホームドラマみたいな朝ごはんにしてみたに過ぎないのさ」
「アタシたちのモットーは人生を楽しむってこと。だからこだわらなくていいとこはこだわらない。朝ごはんはその最たる例よネ」
コチョウさんはコチョウさんで、自分のサラダに胡麻ドレッシングとシーザードレッシングを同時にかけていた。色の淡い混沌が新鮮な葉を覆い隠す。なるほど、あんなサンドイッチを作るだけのことはある。
「だから我々が自分に合わせることに気遣いとか申し訳なさとか、そういうのを感じるこたあないのさ。こちらとしては新鮮な素材を持ってきてくれて、嬉しいくらいなんだから」
わかりました。ありがとうございます。そう言いたかったけれどなんとなく照れくさくて、ただこくりと頷くだけになってしまった。それでもこちらの気持ちは伝わったらしく、叔母さんもコチョウさんも満足そうな笑みを浮かべ、各々のサラダを頬張り続けた。
時々ジ〇リ映画を見返したくなります。
いつかオームライスを食べてみたい。