十一.ウイスキー
重い。暑い。汗が出る。喉が渇いた。苦しさを感じて目を覚ませば、そこは月明かりの差し込む自室だった。体の上と頭の下に腕が一本ずつ。さらに上にはなぜか冬用の羽根布団がかかっていた。目だけを動かせば、左には叔母さん、右にはコチョウさんが寝息を立てている。どうやら頭の下のが叔母さんの腕で、体の上のはコチョウさんの腕らしい。
「(コチョウさんの仕業かな)」
布団を膝のあたりまでおろすと冷たい夜の空気に身震いした。服がしっとりとまとわりつく。一度着替えよう。二人を起こしたり動かしたりはきついから、せめて別の部屋から夏用の布団を取ってこよう。水も飲みたい。やりたいことを頭の中で全てまとめてから、ゆっくりと手探りでベッドの上に立ち、そろそろと片足を伸ばしてコチョウさんの上をまたいだ。コチョウさんはシーツを柔らかく握ったまま、乙女のようにむにゃむにゃ言っていた。
適当な着替えを抱えて廊下に出れば、どこかの部屋のボンボン時計が三回鳴った。壁伝いにキッチンへ入り、電気をパチリと点ける。暗闇の中、一か所だけ電気が灯っていると、どうしてこうもわびしい景色に見えるのだろう。昼間見たそこが何十年も前のことのように思われる。グラスに水を汲んで一気に飲み干せば、なぜだか涙が一滴零れた。まだ残っていたようだ。
「……あ」
明るくなったそこで改めて着替えを見て、しまった、という声が出た。一応パジャマであることは確かなのだが、母親がバーゲンで買った蛍光色のもので、あまり好きなデザインではなかったのだ。特に脱力するのが、胸の真ん中で微笑む子供向けのキャラクター。小さい頃大好きだったらしいけれど、そんなことは覚えていないし、第一今更買ってもらっても困る。柄の無いシンプルなものがいい、と言ってあったのに。
――親から見た子供はいつまでもランドセルしょってるんだ。
叔母さんの言葉がしみじみ思い出される。そう言えば、あのランドセルはどこへ行ったのだろう。違う色がいいと言ったのに、結局祖父母のわがままを通された、あの古臭くて重いランドセル。本当は緑色が欲しかったんだ。黒でも赤でもない、深い緑色のものが。
「えらく可愛いじゃないか」
いつからいたのか、叔母さんが隣に立っていた。
「すいません、起こしましたか」
「そんなことない、と言いたいところだけどね。あんまり暑くて喉が乾いた。ナッちゃんもそんなとこだろう」
「やっぱり暑いですよね、あれ」
「あれで寝られるコチョウの神経を疑うよ。まったくあの子ときたら……」
ぶつぶつ言いながら、叔母さんは棚から茶色い瓶を取り出した。ジャック・ダニエル、と英語の得意でない自分にも読むことができた。
「喉の乾いている時にお酒飲んじゃいけないんですよ」
「言うねえ。これは大人の水だからノーカウントです。それにほら、ソーダで割ってるし」
叔母さんは氷のたっぷり入ったグラスにちょっとだけ酒を注ぎ、上から炭酸水をじゃぼじゃぼかけた。黄金色になった水がしゃわしゃわと泡をはじけさせる。見た目がなんとなくジンジャーエールに似ているせいか、未成年のくせに唾が口にあふれた。
「何があったか、聞いた方がいいかね」
そう言ってからガブリと一口あおり、きゅうっと顔中皺だらけにして眉を寄せる。父さんもお酒の一口目を飲むときは同じ顔をする。やっぱり兄妹だ。
「ええと……大したことじゃないんです。友達関係、っていうか」
「なるほど。じゃあいいや」
「えっ?」
てっきり突っ込んでくると思ったのに。叔母さんは一口飲んだ分、手酌でウイスキーを追加した。黄色かったお酒が徐々にオレンジがかっていく。
「自分で『大したことじゃない』って言えるってことは、それが些細なことだって自覚してるってことだろ。些細じゃない、本当につらいんだ、なんで他人はわかってくれないんだって、そういうレベルじゃないうちは、自分の中で消化できる部分がまだあると思う。我々が手を貸すのは、自分で片付けられる果肉の部分を取り除いて、固い種に達した時だ」
「固い種……というと」
「問題の根幹、個人で解決できない部分。それが林檎の種ほど小さいのか、アボカドほど大きいのか、それは計り知れないけれどね」
もう一口、ガブリ。そしてまた手酌。カラカラと試験管を振るように混ぜて、またガブリ。思ったよりハイペースだ。
「叔母さんも、誰かに種を取ってもらったんですか」
「うん……種、ね。取ってもらったよ。うん」
「自分で、悩んで、悩みぬいて?」
「その末に苦しくなって、ボロボロになった。みーんな捨てちまった……」
叔母さんはヒヤヒヤヒヤ、と変な声をあげ、不意にゴトンと机に突っ伏した。慌てて駆け寄ると、ほんのり赤らんだ顔ですうすうと息を立てているのがわかった。
「叔母さん、ここで寝ちゃだめだよ。布団に入りましょう?」
「起きてるよぉ……けど、肩貸してくれい。バランスが取れん」
これじゃ着替えどころじゃない。とりあえず服はそのままに、叔母さんの腕を肩に乗せた。思ったより軽い体だった。叔母さんはうわごとのようにしきりに誰かの名前を呼びながら、それでもずり足でゆっくり歩いてくれた。
叔母さんの部屋は自室の斜め向かいにあった。えっちらおっちら扉を開けると、そこは本棚で壁が埋め尽くされていて、中央にパソコンとデスクが置いてあった。周囲を囲むように今朝備蓄した食料の残骸が撒いてある。隅の方にはなぜか洗濯物の山があり、叔母さんは肩を離れると迷いなくそこに倒れ込んだ。あれが布団なのだろう。コチョウさんに負けず劣らず、こちらもかなり不思議な人のようだ。笑いや面白さを越えて、なんだか眩暈がした。
ハイボールが大好きです。
特に安い居酒屋の薄いのが好きです。




