8 鏡の中の鬼
ギシギシと不安な音を立てる古びた扉に鍵を閉め、アパートを後にする。
腕時計に目をやる。7時きっかり。駅までの通学時間を考慮しても、遅刻の心配は無さそうだ。俺の通う高校――聖星高校――は、大宮に校舎を構えている。俺の住む神田から、電車1本という利便性。おまけに成績優秀者は学費軽減。なんて素晴らしい高校なんだろうか。
惜しむべきは防犯性の薄さ。対空レーダーの装備は早めるべきだ。でなければ制空権を取られ、敵兵の落下傘降下を許すことになる。
そんな訳で、アパートから徒歩で秋葉原駅に向かう。
平日の早朝――俺はこの時間が好きだ。空気が澄んでいるのもそうだし、何より陽光が心地よい。
薄暗い高架下を抜けると、ビル群の隙間から、朝日が顔を覗かせる。キラキラと光るそれは、まるで宝石のようだ。
心地よい陽光が、俺を優しく照らす。ぽかぽかとして温かい。
―――あぁ、幸福だ。
政府によって作り出された偽りの「幸福」とは違う、心の底から湧き上がる温かい感情。一歩一歩を噛みしめるようにして、道を歩く。
5分ほど歩いたところで、アニメイト沿いの路地を抜け、UDXの前に差し掛かる。路地裏に連なるラーメン屋から、香ばしい香りが立ち込めている。
あぁ、腹減ったなぁ……。今日の夕飯はラーメンにしよう。
そんな決意をした時だった。
ダークブラウンの生地に、葡萄酒を垂らしたように、紅いラインがあしらわれたブレザー。白を基調としたスカートが、なんとも上品な雰囲気を演出している。
間違いない、聖星学院の制服だ。
俺の位置からだと、後ろ姿しか見えない。腰まで伸びた黒髪からして、女子であることは間違いないだろう。
表情は見えないが、何やら探し物をしているようだ。同じ道を行ったり来たりして、キョロキョロと索敵している。
一体誰だ?
聖星学院の校舎は埼玉県にある。といっても私立なので、少し離れた地域から通っている人間も多い。俺もその一人だ。
しかし、神田から通っている人間はそう多くない。俺以外だと、夕凪ぐらいしか思い浮かばない。
目の前の彼女――その高身長と、艶のある黒髪を見るに、夕凪で無いのは明らかだった。あと胸。
偶然もあったもんだな。
さて、どうする……?
向こうはこちらの存在には気付いていない。俺が背後を取っている状態だ。ターゲットとの距離は5m程度。飛びかかれば一瞬で喉をカッ切れる。
よし、殺れる―――いけない、軍属時代の悪癖が出た。ナイフホルダーに手を伸ばしかけた所で、そんな物を着けていないことに気づく。 ここは現代だ。相手は年端も行かない少女で、ましてレジスタンスなんかじゃない。
普通に挨拶を交わして、会話をする。This is 平凡。これが正解だ。そこに刃物やら銃やらが絡む必要は全くと言っていいほど無いはず。
挨拶をしようと、彼女に近づく――そんな時、昨日、夕凪に押し付けられた「人間関係を円滑にする50のメソッド」という本の内容を思い出し、俺は立ち止まった。
人間の情報は、視覚からが90%を占めている。ので、対面する時は笑顔で、明るめな声音で挨拶するのが好ましい――だっけな。
まいったな。
俺は笑うのが苦手だ。これは軍属時代からの弱点で、よく同僚にもネタにされていた。そのせいで潜入任務からは外されるし、散々だった思い出だ。
だが、これも平凡な生活を送る為。逃げる訳にはいかない。
……よし。
口角を上げ、表情筋に力を入れる。
――ミシミシミシッ
……調整が難しいな。
――ミシッ、ビキビキビキッ
よし、これぐらいでいいか。
鏡は見ていないが、聖母のような笑顔になっているだろう。間違いない。
たった今すれ違ったサラリーマンが、「ひぃっ!」と声を上げて走っていくのが見えたが、何故だろう。
まぁ、そんなことはどうでもいい。
表情の調整も済んだところで、次は声の調整だ。当の彼女は、依然として何かを探しているようにキョロキョロとしている。
そんな彼女に気付かれないよう、小声でボイストレーニングをする。
「――オハヨウッ!」
まるで生まれたての赤ん坊の上げる鳴き声のように尊い声音。音声データだけで、相当な収入を得られるのではないだろうか。声優デビューも夢じゃない。
「自分の才能が恐ろしい……」
「恐ろしいよっ! 違う意味でっ!」
「なっ!?」
突如、首根っこに衝撃。危うくバランスを崩しかけるが、すんでのところで踏みとどまった。
「っと……なんだ、夕凪か」
振り返ってみれば、同じく聖星学園の制服に見を包んだ夕凪がそこにいた。
毎回のことだが、首根っこに掴まるのはやめてほしい。心臓に悪い。
「驚かせるなよ」
「それはこっちのセリフだよっ」
「何を言ってる」
そもほも、こいつがここにいる事自体謎だ。こいつの家は、神田川を跨いだ逆方面のハズなのに。
「ほら、見てっ!」
そんな俺の疑問は露知らず、ポケットから取り出した手鏡をこちらに向ける夕凪。ピンクを基調としたそれは、ラメ加工が施されていて女子っぽい。戦場だと目立って仕方ないだろう。
俺がそれを覗き込むと――
「どれどれ――なっ!?」
そこには、鬼がいた。いや、比喩じゃない。狼のように鋭い瞳。口の端からは、鋭い犬歯が覗いている。乾いた大地のような皺があちらこちらに走っていて、なんともグロテスクな形相だ。
これが、俺だと?
「まて、手鏡が細工されている可能性がある。よこせ」
「加工なんて便利な機能、手鏡にはないよっ。snowなんかじゃあるまいしっ」
「なっ……それじゃあ、この究極生命体Xが俺だって言うのか!?」
「さっきからそう言ってるじゃん!」
「ぐっ……」
鏡で現実を見せられた以上、反論出来ない。
沈黙する俺を尻目に、夕凪は呆れた様子で問を投げかけてきた。
「なんで君は、街の往来でこんなことをしてたの? 儀式? 鬼を呼ぶ儀式なの? 君はイタコさんなのっ?」
「そんな訳あるか――って」
夕凪に意識を払っていたから忘れていたが、俺の目的は同級生に声を掛けることだった。
慌てて視線を正面に持っていく。
が――
「あっ」
どうやら、こちらの騒ぎに気がついたらしい。彼女がこちらに振り向く。
目が合う。艶のある黒髪に、吸い込まれるような黒い瞳。
――柳田 莉奈。俺のクラスメイトで、昨日、夕凪と決めた友人候補だ。
「あっ、柳田さん! おはよっ」
彼女の存在に気がついた夕凪が、さも当然のように挨拶をする。明るい声音に向日葵のような笑み。なんだこいつ。コミュニケーション能力高すぎだろう。外交官かよ。
しかし、柳田は面食らった様子で戸惑っている様子だ。
……だよな、いきなり挨拶されても『あっ……オ、オハヨウ』みたいなことしか返せないよな。それが申し訳なくて会話を続けようとするけど、また言葉に詰まって余計に縮こまってしまう。そんなジレンマ。思い出しただけで背中がピリピリしてきたぜ。くそう。
「気にするな柳田、お前は正常だ。夕凪が外交官過ぎるだけだ」
「ちょっ、意味わかんないんだけどっ! というか、外交官は動詞じゃないよっ」
「そらそうだろ……」
形容詞と動詞の違いが分からない残念な女子高生、夕凪神奈。職業は外交官。
当の柳田は、そんな俺達を交互に見つめている。
ちらっちらっ。
俺、夕凪、俺、夕凪、俺、夕凪俺夕凪――
そして、何かに気がついた様に手を叩く。困惑していた表情が、次第に悲しげな物へと変わっていき――
「あのっ―――ご、ごめんなさいっ。お邪魔しましたーーー!」
「えっ……」「おいっ――」
走り去っていった。
……なんで?




