7 クレイジーサイコヤンデレ女の夢
夜の帳が降りた秋葉原には、人っ子一人見えない。薄暗いオレンジを放つ街灯が、ぽつりぽつりとアスファルトを照らしているだけだ。
軒を連ねる店――アニメイトやゲームセンター、電気屋――は全てシャッターが降ろされていて、喧騒の1つも聞こえてこない。
そこに昼間のような活気は無く、ただ、どこまでも続くような静寂だけが佇んでいる。
「……っ」
右足、左足、右足、左、右、左右左――――。
足の裏が擦り切れるんじゃないかと思う程の全力疾走。俺の動きをなぞるビル群が、激流のように前から後ろへと流れ去る。
目測だが、時速40kmは超えているはず。にもかかわらず、追っ手の足音を振り切ることが出来ないでいた。
もっと速く、もっと速く動け、俺の足!
心の焦りは大きくなる一方だが、走るペースは反比例している。じわじわと――毒が蝕むように、速度が下がっていくのを感じる。
5分もそうしていれば、ついさっきまで激流のように見えていた景色はスローフィルムに変わってしまっていた。依然として、追っ手は俺に追従しているようだ。
焦燥感がチクチクと脳を刺し、その度に足がもつれそうになる。
軍隊で鍛えたとはいえ、無尽蔵に体力がある訳ではない。掛け値なしの全力疾走を続ければ、必然的に体力は消耗する。
――このままだとジリ貧だ。
ふと、視界に写り込むコンビニ。
半ば転がり込むような形で、ビルに併設されたそこに入店する。
不思議なことに、店員は不在。客の姿も見えない。単調な店内BGMだけが、そこがコンビニであることを証明していた。
「どうなってるんだ……」
おかしい状況なのは、誰の目から見ても明らかだろう。ただ、そんなことを気にかける余裕、今の俺には無い。
追っ手から身を隠す為、俺はそのままバックヤードに繋がる扉目掛けて一目散に駆け込んだ。
ギィィィ……。
年代物の鉄扉が、鳴き声を上げて閉じられる。
バックヤードに染み込んだカビ臭い空気は、俺にレジスタンスのアジトを思い出させた。すると、否が応でも心が戦闘状態に変化する。
全身に張り巡らされた神経が、針のような鋭さを持って周囲を知覚し始めた。僅かな物音でも、何倍もの反響を伴って脳を刺激する。
たまに漏れる衣擦れの音すらも、騒がしくってしょうがない程だ。
「っ……はぁっ……」
物陰に座り込み、呼吸を整える。
荒く呼吸を繰り返した肺は、息を吸い込む度にじくじくと痛み、余計に体力が消耗する。
薄暗いバックヤードには、静寂だけが満ちていた。
――ギィィィィ。
「っ……!」
背後から、扉の開く音。
誰かが、ここに入ってきた。
肺を押さえつけるようにして呼吸を抑制する。気配を消すんだ。決して、俺の存在を気取られてはいけない。
――カツ、カツ。
バックヤードに、甲高い足音が反響する。
それが鼓膜を伝って、俺の脳に何度も響き渡る。まるで、レジスタンスの持っていた、粗悪品の音響爆弾のようだ。
鋭敏化された神経が、何度も逆撫でされる。
――カツン、カツン。
足音は、ゆっくりと迫る寿命のように、俺の元へと近づいてくる。それは決して遠ざかることは無く、鈍重に、しかし確実に俺との距離を詰めてくる。
――カツン。
足音が、止まった。
音からするに、間は1mもない。超至近距離だ。
相手の荒い息遣いが、ダンボール越しに脳へ響く。
「………」
気づいているのか。
なぁ、どうなんだ。教えてくれよ。
バックヤードには、薄明かりすらもない。完全なる暗黒。目が慣れてきたとは言っても、一寸先ですら暗闇に支配されている。
相手の状態は掴めない。ただ一つ、分かっていることは――ソイツが、目の前にいるということ。それだけだ。
どれぐらいそうしていただろうか。
1分。10分。それとも、1時間? 鋭敏化された神経は、普段よりも時間感覚を緩慢にする。
依然として、相手の姿は見えない。
「……」
――カツ、カツ、カツ。ギィィィ――バタン。
再び足音。
遠ざかっていくそれの後、鉄扉の閉まる音。
バックヤードに、失われた静寂が戻ってきた。
助かった、のか……?
どうやら暗闇ということもあって、俺を見つけることは叶わなかったようだ。
「っはぁ、はぁ……ふぅ」
緊張の糸が切れ、我慢していた呼吸が溢れ出る。鋭敏化していた神経は弛緩し、体がリラックスするのを感じた。
ただ、いつまでも休んでいる訳にはいかない。アパートに戻りさえすれば、追っ手は俺を見つけられないはずだ。
呼吸を整える、外に繋がる鉄扉へと向かう。
そして、扉の取っ手に手を伸ばした―――その時。
――ギィィィィィィ……。
勝手に、鉄扉が開いた。
何故――と思う暇も無く。
「みーつけた」
そこに立っていたのは、忘れもしない少女。
戦友であり、同僚であり、トラウマであり――ここにいてはけない、未来にいるはずの人間。
吸い込まれそうな新緑の瞳。芸術品のような輝きを持つブロンドヘアーは、二つ結びにまとめられている。
満面の笑みで俺を迎えた彼女は、大層上機嫌に見えた。
やめろ、やめてくれ。なんでお前がここにいるんだ。おかしいだろ。
「また会えるって、信じてたよ……ふふっ」
俺は信じてない。信じるのはお前だけでいい。だから今すぐお引き取り願う。頼むから。
「これでまた、一緒に暮らせるねっ」
「あ、あぁ……」
――それは、俺にとっての死刑宣告だった。
――――――
「ぅうっ……」
背中には、柔らかい感触。カビ臭さは一切無い、真新しい畳の香りが鼻腔を突く。
バックヤードじゃ、ない……?
ごそごそと、何かが体に擦れる。寝起きで回らない頭が、ここが布団の上であることを思い出させた。
ゆ、夢か。
心臓は機関銃のように脈打ち、額にはべったりと脂汗が流れている。
どうやら、今のは夢――それも、とびっきりの悪夢だったらしい。
過剰に動く心臓をたしなめるように、胸を撫で下ろす。
……それにしても、嫌な夢だった。寿命がゴリゴリと削られた感覚がする。
もしもあれが現実になったとしたら、俺は未来行きのタイムマシンを開発しなければいけない。
それ程までに、あの女はトラウマなのだ。
うぅっ、思い出しただけで身震いがしてきた。ストレスで脳が溶ける感覚。もう考えるのはやめよう。
そんなことより、今は何時だ?
カーテンを締め切っているせいか、部屋は暗闇に包まれている。時計を確認しようにも、明かりが無ければどうしようもない。
ライトのリモコンを探すため、枕元に手をやる――が。
――ふにゅん
手のひらを包む、柔らかい感触。
――ふにゅふにゅっ
力を入れると、飲み込まれるようにして俺の指が沈み込む。
これは、なんだ? 周りは薄暗く、寝起きの目では確かめることが出来ない。
ふと、最近読んだ小説を思い出した。
男子高校生が主人公の、軽いテイストのラブコメディー。涙あり笑いありで、とても愉快な内容だった。現代では、ライトノベルというジャンルにカテゴライズされているらしい。さり気なく横文字を3つも使ってしまった。現代に順応し始めている良い兆候だ。って、そんなことはどうでもよくて。
その冒頭で、今と似たようなシチュエーションがあった気がする。確か――寝起きの主人公に、ヒロインがアタック(攻撃戦ではない。性的な方)を仕掛けるシーンだ。
そこから推察すると―――。
なるほど。―――今、俺が揉んでいるのは、誰かの胸か。
気になったので、目を擦ってそれを注視する。
投げ出された枕だった。素材は低反発。amazonで1980円。
……疲れてるのかな、俺。