ハロー、孤独
「お先に失礼します!」
「修一くん、お疲れさま。今日もデートかい?」
「あっ、はい!」
「おっ、いいね。楽しんできて!」
「ありがとうございます! お疲れさまです!」
杉山修一、三十六歳。派遣社員。
社員の人たちは、良くしてくれている。
田舎町から、東京へ憧れて上京してきた。
いまだかつて、社員で働いたことはない。
この歳まで派遣社員をしてきたことには、理由がある。
高校生の時から、音楽で成功して有名になるという夢があったからだ。
同級生や友達は、皆、ごく当たり前に結婚していった。子供が生まれたと、喜びの声も聞こえてきた。足早に人生が進んでいく中、周囲の修一を見る目は「まだ、そんなことを続けているのか、現実をみろよ」まるでそう言っているかのように、冷たいものになっていった。
そんな疎外感の中、ひたすら走り続けてきた修一だったが、年齢的にも限界だと感じて、ついに数年前、夢を諦めた。
給料で買うものと言えば、音楽関係のものばかりだった。
自分が作曲をするにあたり、幅広く曲を作れるようになるために、好き嫌い関係なく音楽を聴くことに夢中になっていた。
ポップスはもちろん、フォーク、ロック、パンク、ブルース、カントリー、ジャズ、ボサノバ、ラテン、サンバ、レゲエ、ハワイアン、アニソン、オーケストラ、ギターやピアノのインストゥルメンタル。あらゆるジャンルのCDを毎月、片っ端から買い漁っていた。
時にローンを組んで、ギターや電子ピアノを買ったりなど、音楽に情熱の全てを注いできた。
今でこそ普通に暮らせてはいるが、昔は、それこそ貧乏の極地だった。
実家の借金発覚により、青春と呼ばれる時期の殆どを借金返済の為に費やしてきた。
怒りや憂鬱をノートに書き殴って、ギターを弾いて歌にすることによって浄化させてきた。
その時々の感情を詩にして、吐き出すことで何とか生きてこれたと言ってもいい。
毎日のようにギターを弾き、歌い、叫び、作詞作曲をしてきた。
だから、音楽をやめると言うことには、相当な未練があったし覚悟がいた。
夢を諦めてから、しばらくの間は、生きる目的もない空虚な毎日が続いた。
しかし、そんなことは、今ではすっかり忘れて暮らしている。
新宿東口で、彼女と待ち合わせをしていたので、修一は、急いで向かっていた。
待ち合わせ場所には、すでに愛しい姿があった。
「真由美!」
と修一が手を振る。
「修一くん!」
彼女は、微笑みながら手を振りかえしている。
これが、二人のいつものパターンになっている。
「待った?」
「今、来たとこだよ」
「今日は、どこにいこうか」
「いつもどおり、軽く飲んで帰ろう。それだけで充分だよ」
「分かった」
真由美とは、前の職場で一緒だった。同じ派遣社員で働いていた。
修一は、前職を退職したが、真由美は現在も働いている。
今の修一にとって、真由美だけが唯一の心の支え、そして生き甲斐になっていた。
一般的に言えば、飛び抜けて美人な訳ではないだろう。
だけど修一からすれば、大きな目に優しい声。
そして、田舎から出てきてような、都会に染まっていないほんわりした雰囲気が、たまらなく好きだった。
「就活どう?」
「いやぁ、厳しいね。年齢もあるし、今まで音楽ばっかりやってきてたから、職も転々としてきたからね。とりあえず契約社員とか、紹介予定派遣とかで社員に繋がるような仕事で探してみるよ」
「うん。焦らず、頑張ってね」
週末には、余程の用事がない限りは毎週会っていた。
特別なことをする訳でもなく、カフェに行ったり、飲みに行ったり、服を見に街をブラブラしたり、カラオケや映画、ごく当たり前の過ごし方だが、修一は幸せだった。
就職を決めて、落ち着いたら結婚して、真由美と一緒に暮らしていく。
それが、現在の修一の夢になっていた。
いつも通りの会話、いつも通りの仕草。
そんな当たり前の日々が、いつまでも続くと修一は思っていた。
ある日、前の職場の先輩から電話があった。
「修一くん、久しぶり。元気にしてる?」
「お久しぶりです、元気にしてますよ。中井さんも、お元気ですか?」
「元気だよ」
中井は、修一の前の職場の先輩で、感じの良い人だ。
「今日は、どうされました?」
「んん……」
中井は、ちょっと言いにくそうな感じで続けた。
「修一くん、真由美ちゃんとは上手くいってる?」
「はい、特に問題はないです。どうしてですか?」
「いや、上手くいってるならいいんだ」
――何だろう?
修一は、少し気になったが、特に触れなかった。
その後は、お互いの近況を話したり雑談をした。
「また、就職決まったら連絡してよ。飲みに行こう」
そう言って、中井は電話を切った。
それから、数週間後の週末。
中井が言っていたこともすっかり忘れた頃。
真由美が、友達と用事があると言って出かけていたので、暇を持て余していた修一は、街をブラブラと徘徊していた。
「おーい、修一くん」
ふと声がする方へ振り返ると、見覚えのある顔があった。
真由美の友達の景子だった。
景子も前の職場で知り合った。
前職で働いていた頃は、真由美と景子と三人で、よく飲みに行ったりしたこともあったから、仲は良かった。
「おお、久しぶり」
「一人で、何やってるの?」
「真由美が、今日は用事があるって言うから、ブラブラしてたんだ」
「そっかそっか。その後、真由美とは順調?」
「んん、まぁ、ぼちぼちだよ。景子さんは、まだ前の職場なの?」
「そうだよ」
そう言って、少し落ち着かない感じで景子が続けて言った。
「修一くん、今、少し時間ある? 時間あるなら、ちょっと話さない?」
「いいよ」
――二人の時に、声をかけてくるなんて、めずらしいな。
そう修一は思ったが、何か話したそうな気がしたので行くことした。
修一と景子は、近くのカフェに入ることにした。
とりあえず、アイスコーヒーを二つ頼んだ。
「急にごめんね」
「いや、全然大丈夫だよ」
「話なんだけどさ。さっき、真由美とは順調? って聞いたじゃん」
「うん」
「何でかっていうとさ、最近、真由美、山田さんと妙に仲が良いんだよ」
山田とは、前職の社員の男性である。
あんまり話したことはなかったが、修一も顔は知っていた。
修一は、中井が言っていたことを思い出した。
「中井さんから、この前、電話があったんだ。何か言いたそうだったんだけど、ひょっとしたらそのことを言いたかったのかな」
「中井さんも、やっぱり気になってたんだ」
「何か話を聞いてあげてるんじゃない?」
「でもさ、昨日も一緒に帰ってたしさ。なんか親し気なんだよね」
ドクンと修一の心臓が大きく脈を打つ。
「え? 昨日、一緒じゃなかったの? 景子さんと飲みに行くって聞いてたけど……」
「まじで……。山田さん、あんまり良い評判聞かないし、仲良くするの止めときなよって言ったんだけどね。社員さんだから、邪険には出来ないって言ってた。女の勘だけど、何となくね、怪しいなって思ったんだよ。言うべきか迷ったんだけど、一応言っておいた方がいいかなと思ってさ」
少し申し訳なさそうに景子は言った。
――真由美が、俺に嘘をついた……。
「ありがとう、教えてくれて。とりあえずは、少し様子をみてみるよ」
修一は平静を装っていたが、心臓は激しく脈を打っていた。
その次の週末。
修一は、いつも通り新宿東口で、真由美と待ち合わせをしていた。
景子から話を聞いてから、真由美と会うのは初めてだった。
聞いた話を顔や態度に出さないようにしようと、修一は決めていた。
待ち合わせの場所には、すでに、真由美がいた。
いつもなら、その姿は愛しく映っているが、今の修一の目には、その姿は少し嘘くさく見えていた。
「修一くん!」
修一が声をかける前に、先に真由美が声をかけてきた。
いつも通り、優しい笑顔で手を振っている。
今日は、真由美が買いたい服がいっぱいあると言っていたので、お目当ての店を歩いてまわった。
買い物がひと通り終わり、並んで歩いていたら、ふと、真由美が呟いた。
「なんか今日、修一くん、元気ないね」
真由美は、首を傾げながら、修一を覗き込んでいる。
「そ、そう? 疲れてるのかな? それより、他にどこか行きたいところある?」
修一は、少し焦ったが、何事もないように話を逸らした。
「んとね、今日はね、珍しくちょっと行ってみたいカフェがあるんだ!」
「お、いいね。それじゃ、そこに行って、いつものところで軽く飲んで帰ろうか」
あんまりテンションの上がらない修一だったが、とりあえず合わせることにした。
真由美は、普段と変わらない様子だった。
むしろ、あまりにもいつも通りだった。
景子から話を聞いてから、かなり不安になっていたが、真由美の普段通りの姿を見ていると、まぁ、いいかという気持ちになって、安心しきっていた。
それから、一ヶ月程過ぎた週末。
修一はいつも通り新宿東口で、真由美と待ち合わせをしようとした。
しかし、真由美から「その日は用事があるから無理」と断られた。
何の用事か気になったが、男らしくないかなと思い聞かなかった。
修一は、少し嫌な予感がしていたが、来週会った時にまた詳しく話を聞こうと、さほど気にはしていなかった。
だが、それ以降、真由美と直接会うことはなかった。
電話やLINEでのやり取りはあるが、直接会うことがなくなった。
平日の連絡も、返って来なかったり素っ気ないものが多くなっていった。
週末は、何かと用事があると断られていた。
修一の心は、ザワザワとざわついていた。
心は、かなり限界に近づいていた。
それから数日後の朝。
事件は起こった。
「別れてください」
真由美からの電話に出たら、唐突にそう切り出された。
「何、それ? 舞台の練習?」
まぁ、冗談だろうと修一は、笑いながら軽く返した。
「冗談じゃないよ。マジで言ってるの」
「何? どういうこと?」
真由美の真剣な声色に、修一の心臓がドクンと震えた。
「……好きな人がいるの」
「えっ?」
心臓が激しく鼓動を打ち始める。
「一緒の会社の人で、前から交際を申し込まれてたの」
「……」
あまりの出来事に、修一は言葉を失った。
――頭が回らない。これは夢か?
「どういうこと? 俺、何かした?」
「ううん、そうじゃないよ」
「……相手って、誰?」
「……山田さん」
その瞬間、景子から聞いていた話が頭によぎったが、必死に抑えた。
「ずっと二股してたってこと?」
「……ごめんね」
真由美の衝撃の告白に、修一は愕然としていたが、何とか振り絞って声を出した。
「今日で、終わりってこと?」
「……うん」
修一は、心の奥底で、ふつふつと湧き上がってきたものを抑えられなかった。
「ふざけるな……。ふざけるなよ!」
堪えていたものが、爆発した。
「ずっと遊びだったってことかよ! ずっと今まで品定めしてたってことかよ! 何だよ……、何だよ、それ!」
「ごめん」
「ごめんで済むかよ!」
「もっと、早く言おうと思ったんだけど……」
「はっ? 違うだろ? 山田さんと上手くいかなかった場合の保険として、俺を利用してたってことだろ?」
修一は、もっと罵声を浴びせるくらいの怒りを抱えていたが、頭がパニックになっていたから、何を言っていいか分からず言葉が出てこなかった。
何を言ったら引き止められるのか、やり直せるのかという気持ち。二股をかけられていたという、真由美への怒り。色んなものが頭の中でこんがらがっていた。
そして、しばらくの沈黙の後。
真由美がボソリと呟いた。
「……しつこいなぁ、面倒くさいんだよ」
今まで聞いたことのないような、低い声が聞こえてきた。
「……えっ」
修一は、絶句した。
「ほんとに女々しいよね。彼女の幸せを考えるなら、分かった、幸せにね! くらい言えないの? せっかく良い女で終わらせてやろうって思ったのに」
――何を言ってるんだ? こいつは、ほんとに真由美か?
まるで別人のような、真由美の態度に修一は呆然としていた。
「ねぇ、聞いてるの? この際だからはっきり言ってあげる。代わり映えのない、あんたとの付き合いが退屈になったんだよ。何の刺激もない、いつもいつも同じようなデートコース。もうウンザリなんだよ。少しは、彼女を喜ばせようと努力できないの? 山田さんは、色んな場所を知ってるし、色んな店に連れて行ってくれたよ。あんたとは大違い。まぁ、でもいいわ。暇つぶしにはなったから。そんな訳で今日で終わりだから。もう連絡して来ないでね」
修一は、何が起きているのか混乱して思考が定まっていない。
次の言葉が出てこないまま、携帯を強く握り締めている。
「聞き分けの良い優しい女を演じてやってたんだから、感謝してよね。じゃあね」
「ちょっ……、待っ……て……」
修一は、今にも消えそうな、声にならない声を出した。……が。
うっとおしいものを切り捨てるように、電話はプツリと途絶えた。
何が起きているのか、理解できないまま修一は、しばらく立ち尽くしていた。
やがて、胸が苦しくなって息が出来なくなった。
修一は、胸を押さえながら膝をついた。
まるで誰かが、心臓を握りつぶそうとしているような感覚だった。
――今のは、真由美なのか。違う誰かじゃないのか。
修一は震える手で、勇気を振り絞って、もう一度真由美に電話をしてみた。
――嘘だ、嘘だと言ってくれ。冗談だと言ってくれ。
そんな願いを込めて、電話をしてみたが、いつまでたっても繋がらない。
ピロン。LINEの通知音が鳴った。
真由美からだった。
『電話してくんじゃねぇよ、タコ。しつこいんだよ』
修一は、訳が分からなくなり、その場で携帯を投げつけた。
――ああ、夢じゃなかったんだ……。
修一の中で、真由美との日々が音を立てて崩れていった。
あの日々は何だったのか。あの笑顔は何だったのか。あの言葉は何だったのか。自分は何だったのか。
そんな答えが出ない問いを、延々と繰り返していた。
頬にあたたかいものを感じた。気がつかない間に、涙が流れていた。それは止めどなく、永遠に止まることがないかのような勢いで溢れていた。
怒りなのか、悔しさなのか、寂しさなのか、それが何なのかさえも分からなかった。
二度と立ち直れないんじゃないかと思うほどの禍々しく乱れた感情に、心が飲み込まれていく。
そして、苛立ちと愛しさの狭間でもがいている間に、いつの間にか朝がきていた。
それから数日後。
仕事も手がつかないまま、抜け殻のような日々を過ごしていた修一に、追い打ちをかけるようなことを会社から告げられる。
修一は、職場のチームリーダーから呼び出された。
「修一くん、すまない。今まで、よく仕事をやってくれてたから、非常に言いにくいんだが、今月で今の部署がなくなるんだ」
「えっ」
「だから、次回、派遣の更新はなしになると思う。申し訳ない」
「そうですか、分かりました」
修一は、詳細は聞かなかった。
修一が所属していた部署は、売上が下降していく一方で全く上昇する気配がなかったからだ。いつかはこうなると、ある程度、予想はついていた。しかし、それ以上に真由美に振られて、就職活動をする気力もなくした修一は、仕事が終わると言うことにも、どこか現実味がなく全てが無気力だった。
時々、景子から連絡があった。
真由美から別れたことを聞いたらしく、心配になって連絡をくれたみたいだった。
数ヵ月後。
無職になって、部屋に引きこもる日々が続いた。
そんなある日の夜。
暗がりの部屋で一人、壁にもたれて膝を抱えるように修一は座っていた。
前みたいに、うまく笑えるだろうか。うまく人に合わせられるだろうか。
心の中の全てを支配しているような虚無感、体も鉛のように重い。
修一は、虚ろな目で天井をただ眺めている。
ただ一点をぼうっと眺めている。
思い出すのは、真由美と過ごした日々。
まるで呪いのように脳裏に焼きついている。
柔らかな笑顔、優しい声、長くて綺麗な髪の毛、丁寧に研がれた爪。
そして、最後の別人のような、真由美。
いつしか、まるで全てが幻だったと思うようになっていた。
目の前の光がなくなったかのように、景色が色褪せていく。
このデジタルな時代に一人、モノクロの世界に取り残されたような感覚。
――ああ、懐かしい……。懐かしい感覚だ。
心に何もない、この空っぽな感じ。
――あいつだ、あいつがやってきた。
修一は、真由美と出会う前の日々のことを思い出していた。
夢を諦めて、生きる目的をなくした空虚な日々のことを。
随分と長い間、忘れていた感覚だった。
心の隅々まで、あいつが行き届くのを確認して、修一は自嘲気味に笑みを浮かべた。
そして、最後にポツリと呟いた。
「ハロー、孤独。久しぶりだね、待たせたね」