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15歳

劣等生

作者: 梨本みさ

 努力は必ず報われる。


 簡単に言うなよな、そういうこと。いくら努力したって、報われないことなんてたくさんあるんだよ。人一倍頑張ってるのに、人より劣ってしまう奴だっているんだよ。


 そう。例えば、俺のように。




「野球部なんて入るんじゃなかったなぁ」

 盛大なため息と共に呟かれた声は、俺の真後ろから。思わず後ろを振り返ると、そこにいたのは黒いメットを被った相手チームの選手だった。彼は俺の視線に気づくと小さく肩を竦めてみせた。

 九回裏二死一塁。彼は、この一塁走者だ。先程ヒットを放ってここに進んできた。

 ピッチャーの穂浪が投球モーションに入ったのを視界の端に捕らえ、慌ててそちらに集中する。あとアウト一つでこの試合は終了するのだ。敵の独り言に気を逸らしている場合ではない。

 穂浪が腕を振り下ろした瞬間、後ろでザッと土を蹴る音がした。彼が走り出したのだ。打者がバットを回すが、空振り。セカンドの黒石がベースカバーに回り、キャッチャーの石部が立ち上がり二塁に送球する。走者が頭から塁に飛び込む。

 黒石のグラブに球が収まった時、走者の手は既に塁に触っていた。二塁の塁審を務めていた相手校の部員が両腕を広げる。

 おぉ、という歓声が、どちらのチームからともなく上がる。

 俺たちのチームに無駄な動きは特になかった。むしろスムーズだったはずだ。石部の反応は良かったし、黒石もちゃんと構えていた。走者の走り出しだって、特別早いわけではなかった。

「はえぇなぁ」

 あれはアウトになったっておかしくはなかった。セーフだったのは、彼が希に見る瞬足の持ち主だったからだ。


 試合は三対二で我が高山中の勝利だった。九回に盗塁を成功させたあの彼は、打者が三振してしまったため、結局ホームに帰ることはできなかった。今日の練習試合の相手の中野中学校は、この辺では最弱校と言われている。試合後顧問の先生に、「二点も取られたこと、三点しか取れなかったこと」について反省をさせられた。嫌な言い方だ。かくいう俺たちだって、十分弱小部だというのに。


「じゅーんぺーいくーん!」

 ミーティングが終わり部室に戻ろうとしていると、グラウンドの端から間の抜けた声で名前を呼ばれた。そちらを見やると、弘樹ひろきが両手を大きく振っていた。ジョージと聡磨そうまもいる。三人とも私服だった。そういえば昨日、学校のグラウンドで練習試合が行われることを知った三人は「見に行くか」などと話し合っていた。おまえらうるさいから来るな、とは言っておいたのだが。

 彼らの後ろの道路を、中野中野球部を乗せた小型バスがブロロロロ、と黒煙を吐きながら通り過ぎていった。随分と燃費の悪そうなバスだ。

「ピッチャーフライ、なーいす!」

「送球エラーもなかなかシビレたよぉ!」

「うるせぇよ!」

 本当にうるさい。周りにいた同級生の部員に、ニヤニヤされながら背中を叩かれる。先生までもが苦笑していた。だからあいつらが来るのは嫌なんだ。いっつも大声で俺の失敗をからかうから。

 彼らに悪意がないのはわかってる。むしろ好意だ。けれど、それとこれとは話が別。部員のみんなの前でからかうのは、正直やめてもらいたい。でもそれを言ってしまえば、本当に惨めになってしまいそうで。失敗を笑いに変えることで救われている、弱くて卑怯な自分がいることも事実だ。

 頑張っては、いるんだけどな。野球も勉強も、何をするにしても周りのみんなより頑張っていると思う。なのに結果に表れない。小学生の時からやっている野球は、中学から始めた人に抜かれた。一年の頃から毎日コツコツと勉強していたのに、最近本気になりだした人にどんどん越されていく。通知表で良い判定がつくのは、関心・意欲・態度くらいだ。

 無駄な努力だ。

 要領が悪いとよく言われる。じゃあ具体的にどうしたらいいのか、そこは誰も教えてくれない。自分で見つけ出すしかないのはわかっているけれど、見つからないんだ。受験が近づいてくるのに、気持ちばかりが焦って何も進まない。



 帰り支度をして学校を出ると、校門で待っていたジョージたちから棒付きアイスを貰った。わざわざ俺のために買ってくれたのかと思ったが、先ほど三人で食べていたら聡磨のが当たりだったらしい。それで、俺の試合終わりに合わせて交換してくれたそうだ。とは言え、嬉しいことに変わりはない。ありがたくいただく。

 最近当たりつきアイス少なくなってきたよな、なんて世間話を少しだけして、俺は彼らと別れた。このあと遊ばないかとも誘われたが、正直気が乗らなくて断ってしまった。一人だけジャージじゃダサいし、とか、適当に言い訳して。ジャージ姿で街中をうろつくなんてよくあることだ。しかし彼らは俺の嘘っぽい言い訳を深追いせずに、少しだけ寂しそうな顔で「そっか」と頷いてくれた。

 こういうところ、好きだ。干渉しすぎず、それでも傍にいてくれる。突き放すようなことはしないかわりに、一人になりたいときはそれを理解してくれる。居心地がいい。出身小学校はバラバラだけど、親しくなったのは必然的な気がする。


 アイスをかじりながら家路を歩く。なんだか、一昔前の小学生の夏休みみたいだ。

 学校通りを暫く行くとゲームセンターとパチンコ屋が隣接して建っている。そこの駐車場を突っ切ると家までの近道だ。

 いつものように駐車場を通る。大型車の間からゲームセンター前のベンチ脇へ抜けた時、そこに坊主頭の少年が座っているのを見つけた。目が合う。

「あ」

「あ」

 俺と彼は同時に声を発していた。彼の着ているジャージは、さっき対戦した中野中の指定のものだった。

「ファースト」

 遠慮なしに俺を指差し、無表情で呟く彼。顔に見覚えはあった。ポジションまでは思い出せない。だが、じっと見てみるとひらめくものがあった。

「盗塁の」

 同じように指を差して言えば、彼はパッと笑みを浮かべた。そして両手を広げる。

「せーかい! 六番ショート、篠山くんでーす。そっちは? なんて名前?」

「あ……っと、福原」

 思いがけずハイテンションな彼に面食らう。弘樹に雰囲気が似ているだろうか。

「福原くんね。よろしく」

「あぁ」

 篠山はニコニコしてベンチの端にずれた。そして空いたスペースを左手で叩く。

「家この近くなの? もし暇だったらつき合ってよ。なんだか、まだ家に帰る気分じゃないんだよね」

 彼の言葉に、あれ、と思う。

「中野中、さっきバスで帰らなかった?」

 中野中学校が隣と言えど、ここは高山中学校の校区内だ。中野中まではそれなりに距離がある。

「あー、俺ね、校区外通学してるんだ。校区的にはタカ中なの。だから俺だけ現地集合、現地解散」

「へぇ」

 俺がベンチに腰掛けると、篠山は聞いてもいないのに自身の身の上話を始めた。彼の話によると、小学四年生までは隣の区に住んでいたらしい。しかしマンションの取り壊しが決まり、近くの母親の実家に移り住んだ。そこは小学校の校区境を挟んでいたのだが、彼が転校を渋ったところ周りの大人たちも皆校区外通学を了承してくれたのだという。そして中学の校区もちょうどそこで別れており、引き続き校区外から通うことになったというわけだ。

「まあ校区外とか言ったって、自転車で余裕で通える距離だしね。頑張れば歩けるし、走ればいい運動よ」

 篠山はバッグから水筒を取り出し、口付けた。中身はあまりなかったようで、底を高くして傾けている。氷がカラカラと音を鳴らす。そして氷を一つ口に含み、ボリボリ噛み砕きながら、

「氷、食べる?」

 と俺に尋ねた。アイスを食べたせいで喉が渇いていたところだったので、「ありがとう」と言って手のひらに氷を出してもらう。俺が口の中で溶かしている間に、篠山は二つめの氷を頬張っていた。

「なぁ、篠山」

「なあに?」

 口内の氷がなくなったところで、口を開く。

「あのさぁ、試合中に変な事呟くの、やめろよ。気になっちまうじゃん。それとも、そういう作戦なわけ?」

 野球部なんて入るんじゃなかった。

 九回の裏、一塁ベースで確か彼はそんなことを言っていた。試合中に聞くような言葉ではない。

「あぁ、あれ、やっぱり聞こえちゃってた?」

 独り言のつもりだったんだけどなぁ、と笑いながら頭を掻く篠山に、他意はなさそうだ。

「もう今更なんだけどさ、入る部活間違えたなぁなんて考えちゃって」

「はぁ」

 本当に今更だ。もう三年の五月が終わる。

「福原くんは、なんで野球部入ったの?」

「俺? 俺は、小学生の時からやってたから、少年野球」

「ふーん、そっかぁ。野球好き?」

 野球が好きか。この質問には、はっきり答えられる。

「好きだよ。篠山は? 好きじゃないの?」

 上手くなくたって、野球は好きだ。好きだから、毎日重たい荷物を持って登下校することも、頭を坊主にすることだって厭わない。高山中の野球部は、みんな野球が好きで集まった集団だ。練習から試合まで、楽しんで活動している。「本気でやる」という楽しみ方を知っている。

 だが篠山は少し俯き、空になった水筒を弄びながら「わかんない」と呟いた。

「バッティングがうまくいったりとか、守備で難しいとこ守ったりとか、そういうのができれば楽しいし、チームが勝てばやっぱり嬉しいよ。……でも、好きかって言われると、よくわかんないや」

 曖昧な笑みを浮かべながら背もたれに寄りかかった篠山は、「もちろん、嫌いではないけどね」と付け足した。

「陸上部に入ればよかったなって思うんだ。でも、野球部にしちゃったし。転部も面倒くさいし」

 ため息を吐く篠山を見て、そういえばと思い出す。

「足、速かったよな。陸部から借りてきたのかと思った」

 冗談めかして言えば、彼は得意げに鼻の下をこすった。

「だろ? 俺、この足のおかげでレギュラーになれたようなもんだから。部内では盗塁王とか言われてんだ」

「へぇ、すげえ。野球にはもったいないな」

「へへ、だよなー。もし陸部だったらさ、ちゃんとしたトレーニングして、もっと速くなったかもしれないじゃん? したらきっと、大会とかで活躍しちゃってさぁ。……あぁ、いいな、そういうの」

篠山はうっとりしながら、実現できなかった、いや、実現させようとしなかった理想を語った。

「それならなんで、野球部入っちゃったわけ?」

「だって、野球やってる人ってかっこいいじゃん」

 まだ篠山のことは良く知らないが、その回答は彼らしいなと思ってしまう。

 そんな理由かと、笑おうとしたのに上手く笑えなかった。代わりに唇の端が醜くめくれた。

「……いいよな、好きでもないことやっても、上手くいって」

 言葉にしてから、目を伏せる。ひどく僻みったらしい言い方をしてしまった。

「あ……、でも俺、足がみんなより速いくらいだから。野球自体は、別に上手ってわけじゃ……」

 俺の言葉に含まれた汚い感情に気づいたのだろう。篠山の口調には焦りが混じっていた。

 だが、これ以上は言わないでほしい。中途半端な謙遜はその気がなくとも嫌みになる。中学生になってから、嫌と言うほど実感してきた。

 俊足だけでレギュラーになれるはずがない。盗塁王だって、塁に出られなきゃ何もできない。

 そんなことわかってる。わかってるからこそ、心の汚い部分が顔を出す。

 不意に篠山が真剣な目で俺を見据えた。

「あと、俺、めちゃくちゃ練習したから。それでも力なくてゴロばっか打っちゃうけど、ゴロでもヒットになるように走り込みだってしたし……。確かに野球はそんなに好きじゃなかったけど、でも、やるって決めてたから」

 彼が必死に伝えようとしているのは、漠然とした何か。その何かが、俺には何となく、わかっていた。彼のことを『努力もしていない成功者』だと誤解していたところもあったようだ。素直に「ごめんな」と謝ることができた。

 そして急に、自分自身のことを話したい気分になった。

「俺、小学生の頃からずっと真面目に練習してきたんだよ。周りのみんなより、努力してた」

「……うん」

「なのに、全然試合に出してもらえなくて。頑張ってるのに、もっと頑張れとか言われて……。その間に同級生たちはどんどん上手くなるしさ。今だって、三年だからお情けで出させてもらってるけど、それもエラーとかばっかしちゃうし」

 話しながら、あぁ、俺は愚痴を聞いてほしかったんだな、なんて考えた。今まで、こんなこと話せる人が身近にいなかったんだ。いつだって、見栄とプライドが邪魔をした。

「なんでみんな、そんな器用なのかな。なんで俺だけ、こんなに報われないんだろ。……なんて、思っちゃって」

 あはは、と小さく笑うと、篠山はなぜか泣きそうな顔をした。同情心だろうか。それでもいい。

 突然、篠山に手首をガシッと掴まれる。

「な、何?」

「福原くん。俺が野球部に入った本当の理由、聞いてよ」

「本当の?」

 聞き返すと、篠山は大きく頷いた。

「うん。俺、野球に興味なんて全くなかった。汚いし、臭いし、かっこいいなんて、少なくとも入部するまで、思ったことなかった」

 ごめんね、さっきの、嘘なんだ。篠山は小さくそう謝り、続けた。

「俺ね、小学生の時、好きな子いたんだ。その子が、野球が好きだったの。それで、本当は陸上部に入るつもりでいたんだけど、その子が中学で野球部のマネージャーやるって言うからさ。だったらもう、野球部入るしかないじゃん?」

 篠山は自嘲気味に笑ってみせた。

「で、野球部に入ったんだけど、いないんだ、その子。まあ、他にやりたいことがあったなら仕方ないかって、残念だけど諦めようとしたんだ。でもさ、その子陸上部入ってたんだよ。俺が元々入るつもりでいた部だぜ。しかも、彼氏まで作っちゃってるんだ。彼氏、今では短距離のエース。やるせなくない? 俺が陸上部に入ってたら、エースの座はきっと俺だぜ?」

「それは……虚しいな」

 頷く。同意されたのが嬉しかったのか、篠山は「なー」と大げさに頷いた。

「福原くん。今ので俺のことどう思った?」

「篠山が勝ち組じゃなくてホッとした」

 俺の回答に、篠山は声を立てて笑った。

「転部しなかったのも、面倒くさかったのは本当だけど、ただあの二人を傍で見たくなかっただけなんだ。なんかすっごい悔しくて、意地で野球やってたようなもんだから。……だからね、俺、全然器用な人間じゃないよ」

「……そうだな」

 第一印象だけじゃわからないもんだな。悩みなんてなさそうな雰囲気出しているのに。

 きっとみんな、そうなんだろう。どんな人にも、何かしら悩みとか思うところはあるのだろう。

「でさ、俺、一つ野望があるんだ」

「野望?」

「そう。部活引退するまでにその短距離のエースに勝負を挑みたいんだ」

「勝負って、何の」

「百メートル走」

「……本気で?」

 さすがに、それは勝てないんじゃないかな、と思う。篠山が俊足なのは認める。しかしそれは、野球においてだ。塁間は三十メートルもない。百メートルはその三倍以上で、同じ走りは通用しない。

「せめて、五十にしとけば?」

「そんな体力測定みたいな距離じゃ、つまんねぇじゃん」

「いや、でも百は厳しいんじゃないか?」

「大丈夫だって。自信はあるから」

「そうか。……もしかしたら、いけるかもしれないな」

「うん。そのときは福原くん応援に来てよ」

「あぁ、いいよ」

「約束な」

「おう」

 正直、篠山が勝てるとは思えない。だけど、勝ってほしいとは本気で思う。やきりれない思いを乗せて、走ってほしい。勝負に勝って、その思いを昇華させてほしい。

「俺、そろそろ帰るわ。……福原くん、携帯持ってる?」

「持ってない」

「ちぇ。じゃあその時は学校に呼びにいくよ」

「……わざわざどうも」

「福原くんに話したらなんか勇気でた。ありがとう。決戦の日にまた会おうな」

「あぁ、またな」

 篠山は自転車に跨がり、俺の家と同じ方向に去っていった。案外、すぐ近くに住んでいるのかもしれない。

 カラスが鳴いた。俺も、帰ろう。





 篠山は一週間後、本当に俺に会いに来た。


 その日、六限のLHRでは進路希望調査表が配られた。数日前から、担任の先生と進路に関する面談も始まっている。

 高山中学校の生徒の進路は、普通科は大きく三つに分けられる。半分近くの生徒が進むのが、高山高校。中堅的な偏差値で、近くにあるため通学も簡単。大学進学率も近年は伸びてきている。通称タカ高。

 少し偏差値を上げると、高山北高校。ここからでは電車通学となってしまうが、大学受験のサポートはとても厚く、成績が良く目標もある生徒は大抵こちらへ進む。通称、北高。

 逆に偏差値を下げると高山西高校。こちらも電車通学だ。自由な校風が謳われているが、先生たちは西高へは進ませようとしない。

 俺は、高山高校を受験する予定でいる。本当は、北高に行きたいと思っていた時期もあった。特に将来の夢があったわけでもない。目標がないからこそ進路の幅を狭めたくなくて、北高に進んだ方がよいと考えていた。しかし、成績がとても追い付きそうにないのだ。だから俺は、確実に狙える高山高校を選んだ。……つもりでいた。

 放課後、ジョージと弘樹と聡磨と歩く帰り道、俺は彼らの後ろでため息を吐いた。

 気分が重い。


「この成績だと、今のままじゃタカ高は厳しいだろうな」

 今日の面談で、担任の先生に言われた言葉を思い出す。本当は、北高を目指していたくらいなのに。タカ高でさえ、及ばないところにいるなんて。

「受験まで時間はあるんだし、目標をタカ高に定めて頑張ればまだまだ伸びるよ。そろそろ周りも本気出してくる頃だから、福原も置いていかれないように頑張れ」

 その後の先生のフォローも、俺を絶望させた。

 俺、これまで、頑張ってきたよな? 余暇を削って、誘惑にも負けずに勉強してきた。確かに本気出して勉強してたのは試験前くらいだけだけど、でも毎日コツコツと積み重ねて来たんだ。しかし、その成果は形にならない。俺は今まで、一体何をしてきたのだろう。

 無駄な努力。時間の無駄遣い。たくさんの無駄を生み出してきた。結果を生まない努力に、価値なんてない。誰も認めてくれない。

 つまり、何もしてこなかったのと同義なんだよな。

 もう、何もかもが嫌になる。全てを投げ出してしまいたい。


 気がつくと、歩きながら三人から少し距離が離れていた。ジョージが振り返る。

「……純平? どした、疲れた?」

 弘樹と聡磨も足を止めてこちらを向いた。

「あぁ、大丈夫、ちょっと考え事してただけ」

「考え事?」

「……高校、どうしようかな、って」

 俺の言葉に、三人も「あぁ」と声を上げた。俺が追い付いたのを確認して、また歩き始める。

「純平、タカ高って言ってなかった?」

 何気ない聡磨の質問に、顔が強張る。俺たち四人、みんな志望校は高山高校にすると話していた。

 ジョージが俺の表情の変化に気づいたのか、俺の横に並んで歩き始めた。

「今日、純平面談やってたよな。何か言われたのか?」

「……うん、その、もうちょっと頑張れって」

「そっかー。成績危ないって、わかってても人から言われると傷つくよな」

「まあな」

 聡磨が振り向く。

「でもまだ六月じゃねぇか。いくらでも時間あるよ。純平は真面目だから、言われたことを素直に受け止め過ぎるんだよ」

「そう、なのかな」

「そうだよ。先生なんて、ちょっと脅しにかかってるだけだから。気を抜くなって意味だよ」

 そうじゃ、ないと思うんだけどな。きっと聡磨は今の時点で成績が足りてるんだろうけど、俺は本当に危ないんだよ。でも、言えない。だって、かっこ悪い。いらないプライドがある。そして、惨めになるのが怖いんだ。憐れまれたくないんだ。

「そうだな、まだ、六月だもんな」

 へらっと笑ってしまった自分に、俺はどうしようもなく嫌悪感を抱いた。

 ジョージと聡磨が第二希望はどうするかを話し合っているのを口を挟まず聞いていると、ふと弘樹が大人しいことに気づいた。普段の弘樹は口数が多い。しかし、進路の話になってから、彼は一言も話していないのではないか。

「弘樹はもう、面談したんだっけ?」

 聡磨が、弘樹に話を振る。

「あぁ、俺、最初の方にやったよ」

「何か言われたか?」

「えーっと……」

 弘樹は珍しく口ごもり、視線を泳がしている。普段と様子の違う弘樹に、聡磨も軽く首を傾げた。弘樹は困ったような顔で薄く唇を開いた。

「あのさぁ、俺、北高受験しようと思うんだよね」

「えっ……」

 一番最初に驚きの声を上げたのは聡磨だった。

「前からちょっと、北高いいなって思ってたんだ。でもみんなとタカ高通いたい気持ちも強くて、悩んでた。……だけど、北高のホームページとか見てみたら、やっぱり俺、こっちがいいなって思えてきて。それで先生に話したら、とりあえず今は北高行くつもりで頑張ってみろって言われてさ。……だから、とりあえずだけど、北高目指そうと思うんだ」

 弘樹は北高への進学に後ろめたさでもあるのか、徐々に身を縮こまらせていった。むしろ、胸を張っていいことなのに。上目遣いに俺たちの反応をうかがっている。

「北高目指すとかスゲーじゃん! 頑張れよ弘樹!」

 ジョージが弘樹の肩を叩く。弘樹は受け入れられたことにホッとしたように顔を緩めた。

「北高か……」

 一方で聡磨は複雑そうな表情でそう呟いた。弘樹も不安げになる。

「俺、弘樹とは高校も一緒だと思い込んでたから……、正直、ショックはショックだな。でもまぁ、後悔とかしてほしくないし、行きたいとこ行けよ」

「聡磨……、高校離れても、二日に一度は絶対会おうな!」

「それはさすがに会いすぎじゃないか?」

 聡磨とじゃれあう弘樹を見ていると、汚い感情が込み上げてくることに気づいた。あぁ、まただ。嫉妬心が牙を剥き、俺の劣等感を刺激する。なんで、弘樹は……。どうせ、俺なんて……。

「弘樹、北高、応援するよ。高校行ってもまた、四人で集まろうな」

 俺は笑顔で、心にもないことを言う。先程よりも強い、吐き気を伴う程の嫌悪感が俺を襲った。

「純平! 好きだ!」

 抱きついてくる弘樹に笑顔で接しながら、弘樹への嫉妬心を必死で抑えていた。

「みんなに言えて、すっきりしたよ。もっと早くに相談すればよかったな。……ありがとう、俺頑張るよ」

 不安がなくなり微笑む弘樹の顔が、見られない。自分の感情を綺麗に隠しきれる程、俺は大人じゃないんだ。


 次の交差点で、弘樹と聡磨とは別れた。家の方向が同じ、ジョージと二人で歩く。

「……純平、やっぱり今日元気ないけど、面談そんなにショックなこと言われたのか?」

「え、いや、別に」

「そうか……。じゃあ、弘樹のこと、どう思う?」

 突然の弘樹の話題に、ギクリとする。なんとか平静を取り繕う。

「は、どうって?」

「純平、応援するって言ってたけど、本当にそんな気分か?」

 図星を突かれ、思わず足を止める。一歩進んでいたジョージも、立ち止まり振り返った。

「純平を責めるつもりで言ったんじゃないよ、もちろん。ただ、さっきつらくなかったかなって、ちょっと心配になって」

 ジョージにここまで見透かされていたことに驚き、そして恥ずかしくなる。

「そんな、つらくなんか……」

「でも、うまく笑えてなかったよ」

「……」

 ジョージが俺の腕に触れる。「大丈夫だよ」と声が聞こえたような気がした。

「面談、今の成績じゃタカ高厳しいって言われた。脅しとかじゃなくて、本当に成績足りてないんだ」

「そうか」

「……俺、本当は北高に行きたいくらいだったんだよ。なのにタカ高もダメとか、今までやってきたことは何だったんだろうって、やるせなくなってきた」

「うん」

 ジョージは頷き、俺の腕に触れていた指に力を入れた。

「でも、純平いつも勉強頑張ってるじゃん。今は結果に出てないかもしれないけど、そういうのは徐々に結果に現れるって言うし、タカ高も行けるよ」

 ジョージは俺を励まそうとしているのだろう。しかし彼の言葉は、酷く薄っぺらなものに聞こえた。

「……徐々にって、いつになったら結果に出るんだよ」

「それは……」

 俺は、ジョージの腕を振り払った。

「ずっと勉強してきたよ。一年の頃から、毎日。でも今まで、結果に現れたことなんて一度もなかった。試験前なんて特に頑張って、周りの人より頑張ってたのに、それでも平均以下のこともたくさんあったよ。俺は、無駄なことしかしてないんだよ」

「無駄じゃないよ!」

「無駄だよ! だって、何にもならなかったじゃないか!」

 ジョージは俺に振り払われた手を固く握り締めた。

「純平が、いつも頑張ってるのわかってるよ。その努力が、無駄になるとは思わない。ちゃんと、報われる時は来るよ」

「やめろよ!!」

 俺は、叫んでいた。

「慰めになってねぇんだよ! そんな希望、ずっと前に捨てたよ!……もう、やめてくれよ。ジョージだって本当は、わかってんだろ。俺がいくら頑張ったって、結果は変わらないって」

「違う! 慰めてるつもりもない! 俺はただ、本当に思ってることを言っただけなんだよ……」

 ジョージの声が小さくなり、俺は少し冷静に戻れた。

 言い過ぎた。ジョージに当たってしまった。何やってんだよ、カッコ悪い。八つ当たりなんかして、惨めになるのは自分じゃないか。

「ちょっと、頭冷やす。……ジョージ、先に帰っててくれ」

 これ以上二人でいても、さらに当たってしまいそうだ。一人になって落ち着こうと思い、俺は彼に背を向けた。


「えっ」

「あ……」


 振り向いた先に、なぜか篠山がいた。

 彼は自転車に跨がり、地面に足を付けていた。

「何、してんの。こんなとこで」

「あ、その、福原くんを探してて……、見つけたから声をかけようと思ったんだけど……」

 お取り込み中だったから声をかけられず、話を聞いていたわけか。

「陸上部の奴と、勝負するの?」

「うん、そのつもりで迎えに来た」

「そっか。じゃあ行くか」

「うん、でも……」

 篠山は、気まずげに俺の背中越しにジョージをうかがった。「いいの?」と小声で俺に尋ねる。

「いいよ。行こう」

「……わかった。後ろ、乗って」

 自転車の荷台に乗ると、篠山はゆっくり漕ぎ始めた。徐々にスピードに乗り、安定して進み出す。

 ジョージ、ごめん。でも、今だけは許してくれ。

 どんな顔をしてジョージに向き合ったらよいのかわからず、俺はただ心の中で彼に謝っていた。



「もうすぐ、陸部が練習終わる時間なんだ。終わった瞬間を狙う」

 人通りの少ない道を選びながら、二人乗りの自転車は進む。

「なぁ、なんで今日、勝負しようと思ったんだ?」

「今日、返却された数学のテストの点が良かったんだ」

「それだけ?」

「あと、体育で綺麗な三点倒立が決まった」

「……それだけ?」

「十分だろ」

「……まぁ、いいか」

「なんかツイてるんだよ。今日なら、勝てそうな気がしたんだ」

「そうか」

 篠山のツキの基準はよく分からないが、どうやら今日は調子のいい日らしい。

「……福原くん、喧嘩でもしてたの?」

 中野中の校区に入った辺りで、篠山は少しトーンを落としてそう尋ねた。彼はどこから話を聞いていたのだろう。

「喧嘩じゃないよ。……俺が、一方的に八つ当たりしてただけ」

「へぇ、冷静だね」

「冷静だったら八つ当たりなんてしないよ」

 篠山はぷっと吹き出した。そしてケタケタと笑い声を上げた。

「確かに、さっきは冷静じゃなかったね。福原くん、こんなに感情的になるんだって、びっくりしたよ」

「……俺だって、友達にあんなふうに怒鳴ったりしたの初めてだよ」

「さっきの友達、仲いいの?」

「あぁ」

「親友?」

「たぶん。俺は、そう思ってる」

「……じゃあ、仲直りしなきゃだね」

「……できるかな」

「大丈夫でしょ。さっきだって、ずっと心配そうにこっち見てたよ」

 そうか、ジョージはそんな顔をしていたのか。何も声をかけず、振り返りもせずにその場を離れてしまった。逃げてきてしまった。

 ジョージの家は経済的にとても貧しいだ。進学して勉強をするということに、『当たり前』という認識は持っていない。彼は彼で、様々な問題を抱えている。それでも自分の状況を受け入れて今を生きている。弱音を吐くことはあっても、自分の不遇を誰かのせいにしたり、八つ当たりしたりすることなんて、一度も目にしたことがない。

 それなのに、俺は……。まだ、引き返せるだろうか。


 中学校に着くと、篠山は裏門から入り、ブルーシートの被さった木材の横に自転車を停めた。

「なぁ、俺、他校なのに勝手に敷地入っていいのか?」

「夏服だし、バレないんじゃない? その鞄だけここに置いてったら?」

 確かにスラックスはよく似た色味で、Yシャツも特殊なデザインではない。学校指定の鞄さえなければ、そう簡単に見分けることはできないだろう。

 篠山は、その場で制服のスラックスを体操着の短パンに履き替えた。上はYシャツ、下は体操着という妙な格好で、シューズバッグを持って歩き出した。

 俺も荷物を置き、彼についていく。テニスコートでは、女子ソフトテニス部がまだ声を上げて練習している。テニスコートに沿ってさらに歩くと、グラウンドに出た。奥をサッカー部、手前とトラックを陸上部が使用しているようだ。

「もうすぐ終わりそうだな。……あ、あそこで座ってストレッチしてる奴、あいつが短距離のエースの高橋」

 彼の指差す方を見ると、一人で身体を伸ばしている男子生徒がいた。遠目からでも、顔立ちが整っているのがわかる。

「へぇ、イケメンだな」

「だからこそ燃えるんだろ。みんなの前で絶対エースのイケメンを負かせてやろうぜ」

「歪んでる」

「福原くんだってなかなか」

 篠山と顔を見合わせてクスクスと笑っていると、陸上部員はいつの間にか顧問の周りに集合していた。しばらく顧問が話した後、部長らしき生徒が前に出てきて一言二言話し、「ありがとうございました!」と声が響いた。解散したようだ。ハードル等の器具を片付けるために、部員はグラウンドへ散っていった。

「よっしゃ、行くぞ! 福原くんも!」

 篠山は躊躇いなくずんずんとグラウンドへ入っていく。いいのかな、と不安になりつつ、俺も身体を縮めて数歩踏み入る。

「セナ、どうしたの? 誰かに用事?」

 俺たちに気づき、少し離れた所から声をかけてくる女子生徒がいた。篠山のクラスメートだろうか。

 ところで、セナって? 瀬名?

「おい、セナってなんだよ。おまえ篠山じゃねぇの?」

「……下の名前。篠山世那(せな)っていうの」

「……あ、そう」

 女子生徒が駆け寄ってくる。篠山は笑顔で「お疲れ」と言った。

「高橋に用があるんだ」

修太しゅうたに? 何の用?」

 彼女は怪訝そうな顔をして首を傾げた。

「いいから、呼んできてくれない?」

 篠山は質問を無視して彼女を駆り立てた。言葉の中に、わずかな苛立ちを感じる。彼女は納得していないようだったが、その高橋という生徒を探しに行った。

 何となく、感づいた。きっと今の女子生徒は、篠山が片想いしていた女の子だ。そして、高橋という男の彼女だ。

 部外者の侵入に、若干、周りがざわつき始めた。陸上部員からの視線を感じる。

 女子生徒が、高橋に声をかけている。俺たちを指差し、首をかしげ、声が聞こえなくても何を話しているかがわかった。

 高橋は取り外そうとしていたスターティングブロックをそのままに、こちらへ歩いてきた。彼女も一緒に戻ってくる。

「篠山、俺に用だって?」

 篠山は腕を組み、険しい顔をして立った。

「あぁ、勝負を挑みに来た」

「勝負? 何の?」

「百メートル走」

「……いいけど。今?」

「今」

 高橋は困ったように周りを見渡した。

「一本走るだけなら、すぐに終わるだろ」

「そうだけど……、あ、先生」

 気がつくと、顧問の先生が俺たちの後ろに立っていた。まだ若い男性教師だった。

 俺はサッと、篠山の影に隠れた。

「どうしたんだ? 君は……ええと、」

「三年の篠山世那です。高橋と百メートル走がしたくて来ました」

「へぇ、そうか、面白いね。下校時刻をちゃんと守るなら、好きにやっていいよ」

「ありがとうございます!」

 篠山は先生に頭を下げた。先生は「俺も見ていくかぁ」と言って伸びをした。厳しそうな先生じゃなくて安心する。

 さっそく篠山と高橋はスタートとゴールのラインを確認し、スタート位置へ向かった。

「ブロックは使う?」

「俺はいらない。高橋は使っていいよ」

「わかった。じゃあそこのブロック外したレーンで走って」

「おう。スパイクは履いていいか?」

「もしかして野球の? 重くないのか?」

「最近のは軽いんだぜ。これの方が走り慣れてるし」

「ふうん。じゃあ、お互い走りやすいようにやろう。服装はそれでいいの?」

「あぁ、十分」

 だんだん、周囲に人が増えてきていた。片付けを終えた部員たちが、短距離エースが勝負を挑まれたという話を聞いて集まってきたようだ。

「誰? あの人」

「野球部の三年生らしいよ」

「あいつ、足すげぇ速いんだぜ」

「アレだろ、盗塁王って呼ばれてる奴」

「でも高橋さんが野球部に負けるわけなくね?」

 本当の意味で部外者な俺は、そっと人だかりの後ろに移動した。すると、俺の足元に影が落ちた。

「ねぇ、あなた、うちの生徒じゃないでしょ?」

 ギクリとして、顔をあげる。そこにいたのは、先程の女子生徒だった。彼女はニヤリと笑って「いいよ、何か言われたらうちの生徒だって誤魔化してあげる」と言った。彼女の体操服には「横井」と刺繍が縫ってあった。

「世那の友達?」

「あ、うん、野球での知り合い。タカ中の野球部なんだ」

「へー、そうなんだ。世那ね、小学生の時から足速かったんだよ。だから陸上部入ると思ってたんだけど、なぜかいきなり野球始めちゃったんだよね」

 あれ、と思った。篠山は、この子が野球部のマネージャーをすると聞いて野球部に入ったんじゃなかったっけ。

「篠山と仲いいの?」

「まあ、よく話す方かな」

「……この勝負、どっちを応援するつもり?」

「相手が修太じゃなければきっと世那に勝って欲しいと思うだろうけど……、あたし、修太の彼女なんだよね」

 横井さんはペロリと舌を出した。

「あぁ、やっぱり」

「やっぱり?」

「いや、別に……」

「福原ー!」

 会話に口ごもっていると、篠山が大声で俺の名前を呼んだ。あまり目立つようなことするなよ。他校生とバレたら面倒だろ。

「福原! ちゃんと見てろよ! 俺の味方は今福原だけなんだからな!」

 また、ギャラリーがざわつく。「誰?」「知らない」「三年じゃないよ、二年じゃない?」とひそひそ話している声が聞こえる。横井さんが、さりげなく俺をみんなの視線から隠すように立ってくれた。

 そういえば今、篠山から初めて呼び捨てされたな。

「……ありがとう」

「いいよ。もう少しあっち行こうよ。ここじゃ見えにくい」

 歩き出した彼女を追って、コース全体が見える位置まで移動する。他の部員たちも、バラバラと観戦場所を確保していた。いつの間にか練習を終えたお隣のサッカー部まで、何事かと集まってきていた。

「高橋ー、これで負けたら陸上部の恥だぞー!」

 ただのヤジのような声援に、腹が立つ。しかし、何か文句を言えるわけでもなく、俺は唇を噛み締めた。

 陸上部の男子生徒が、笛を持ってスターターを務めるようだ。ギャラリーが増え、篠山の表情も固くなってきている。彼は、完全にアウェーだった。

 俺はすうっと息を吸った。

「篠山! 負けんなよ!!」

 一斉に、みんながこちらを振り向いた。もう、他校だとバレてもいい。怒られたら素直に謝れば、きっとなんとかなる。それよりも、もっと大切なことがあるんだ。

 横井さんも驚いたように俺を見上げたが、しかし挑戦的に「修太は負けないけどね」と笑んだ。

「任せとけー!」

 篠山はぶんぶんと両手を大きく振り、そしてスタート位置についた。高橋がブロックに足をかける。

 その瞬間、騒がしかったグラウンドはシンと静まり返った。

「位置について、用意」

 高橋はクラウチング、篠山はスタンディングスタートの姿勢で構える。陸上を知らない俺でも、高橋はとても綺麗で、篠山はめちゃくちゃな構えをしていることがわかった。

 ピッと笛の音が響き、二人は勢いよく飛び出した。スターティングブロックを使わずとも、篠山は高橋に負けず劣らずのスタートダッシュだ。篠山が僅かに前を走っていた。

 彼は歯を噛み締め、まっすぐゴールだけを見てひたすらに全力で走っていた。

「高橋! 頑張れ!」

「負けんなー!」

 ギャラリーから歓声が上がる。全て、高橋に向けられた声援だった。

「修太ー! 修太! 行けー!!」

 隣で横井さんも声を上げて高橋を応援していた。

 篠山がさらに高橋との差を広げる。

「篠山! 頑張れ! 行け! 行け! 行け!!」

 俺は、気がつくと夢中で叫んでいた。

 頑張れ。負けるな。抱えていた思い、鬱憤があるんだろ。走って、高橋に勝つことで昇華させてくれ。走れ。走れ。走れ!

 二人が三分の二くらいまで差し掛かった頃、歓声は一際大きくなった。高橋が逆転したのだ。見惚れる程綺麗なフォームの走りで、篠山を抜いた。

 抜かれた篠山は、焦りも出たのか、手足の動きがバラバラになり始めた。がむしゃらに手足を動かし、しかし思うように進まない。もがいているようだった。最初からずっと全力で走り続けたことで、体力も限界なのだろう。逆にスピードをコントロールして走っていた高橋は、速度が落ちることもなく、篠山との差をどんどん広げていく。

「負けんなよ! 勝つんだろ!! 篠山! 行け! 走れ! 走れ!!」

 大きくなる歓声の中で、俺の声は掻き消されてしまう。それでも俺は叫び続けた。

 篠山は、必死だった。最初から最後まで、ずっと。崩れていく走りのフォームで、前へ、前へ、ひたすらに手足を伸ばしていた。


 結局、篠山は追い付くことができず、高橋が先にゴールした。陸上部員は、ゴールした二人の下へ駆け寄っていった。俺と横井さんも、走った。

「高橋! やったな!」

「でも篠山も速いな! ハラハラしたよ」

「すごい興奮した! いい走りだったよ!」

 篠山は倒れるように大の字で仰向けに転がった。胸を上下させ、喘ぐように荒い呼吸をしている。対する高橋は余裕そうに笑顔で部員に接している。

「おーい、篠山くん、君すごく速いんだな。走り方を整えればきっともっと伸びるよ。今からでも陸上始めたらどうだ?」

 顧問の先生の言葉に数人の部員も頷く。篠山は寝転がったまま、首を横に振った。そして、目を細めて笑う。

「あー、俺、野球が好きなんですよ」

 言葉だけなら、何見え透いた嘘をついているんだ、と思っただろう。しかし、彼の表情からは、それが嘘だとは思えなかった。

「そうか、それなら無理にとは言えないしなぁ。でももったいない」

 先生は唇を尖らせて唸り、「また陸上部においでよ」と声をかけていた。

「よし、今度こそ解散! みんな早く帰れよ。怒られるの先生なんだからな」

 部員たちは、雑談しながら校舎の方へはけていった。人混みから、高橋が出てくる。

「篠山、今日はいきなりでびっくりしたけど、楽しかったよ」

 握手を求めて、高橋は篠山に手を差し出した。篠山はその手をじっと見つめ、

「本当は、もっと速く走れるのか?」

 と尋ねた。高橋は「えっ?」と黒目を泳がし、動揺を見せた。

「わざと前半は俺を先に行かせて、終盤で逆転なんて展開作ったのか? その方が、見ているみんなが楽しめるから」

 篠山は、無表情だった。彼の口調からは、感情が読み取れなかった。

 高橋は手を引っ込めて、その手を握りしめた。

「バカにすんなよ」

 高橋は静かに、しかし瞳にはしっかり怒りを宿していた。

 グラウンドに俺たち三人だけ残っているのに気づいた横井さんが、こちらへ駆け寄ってくる。

「俺はスプリンターだ。真剣に挑まれた勝負で手を抜くなんて、自分への侮辱と同じだよ。篠山が本気だったことはわかってた。だから、俺も本気で走った。今のコンディションで、出せる本気は出し切った」

「……でも、余裕そうじゃん」

「そりゃ、百メートルなんて走り慣れてるからな。でも、思った以上に篠山が速くて焦ったよ。リード取らせるつもりもなかったのに」

 そして「手を抜いたつもりはないけど、油断はしてたな」と舌を出して笑った。横井さんと同じ表情をするなぁ、と思った。

「それと、本気で走れたのは君のおかげでもあるよ」

 高橋は突然俺に身体を向けた。「へ?」と間抜けな声を出してしまう。

「走る直前、君が大声で篠山を励ましただろ? 正直、篠山がどういうつもりで勝負なんて言ったのかわからなかったけど、そのおかげで『これは本気なんだな』って気づけたんだ」

 頬が熱くなる。自分に、誰かに火をつける力があるなんて知らなかった。

 篠山が上体を起こす。

「高橋、失礼なこと言ったよ、ごめん。本気で相手してくれて、ありがとう」

「こちらこそ」

 二人は良い表情で手を握り交わした。高橋は「帰ろう」と横井さんを促して歩き出す。横井さんは篠山の目の前にしゃがんだ。

「今日の世那、一生懸命でかっこよかったよ。修太と付き合ってなかったら惚れちゃったかも」

「うるせーよ。ばーか。早く帰れ」

「はいはい、また明日。……あなたも、また会うことがあればよろしくね」

 横井さんは高橋と並んで去っていった。薄暗くなったグラウンドに、俺たちだけが取り残される。

「なーにが『一生懸命でかっこいい』だよ。どうせ俺は一生懸命やらなきゃ互角にやりあえないよ」

 俺は、悪態をつく篠山の隣に腰を下ろした。

「篠山、お疲れ様。でも本当にかっこよかったよ」

 篠山は眉尻を下げた。

「……ごめんな。負けちゃった」

「謝るなよ。……篠山の走り見ててさ、なんか俺、勇気もらった気がしたんだ」

「勇気?」

「うん。だって篠山、すっげぇ必死なんだもん。必死なのに、ダサくなくてさ、俺も、もっと必死になってもいいんだって思えた」

「なんだそれ」

 篠山はクスクスと笑った。

「あ、そうだ。福原、応援ありがとな。福原の声、ずっと聞こえてたよ」

「……届いてたなら、よかった」

「俺、正直怖かったんだ。やっぱりみんな高橋の応援するし、野次馬もどんどん増えるしさ。俺なんでこんなことしてるんだろうってわからなくなって、走るの怖くなってた」

「とてもそうは見えなかったけどな」

 走る前、篠山は固い表情をしていた。けれど俺は気づいていなかった振りをした。

「まー、なんだっていいか! なんだかんだ楽しかったし。負けたけど、すっきりしてるんだよね」

「俺も、気分晴れた。篠山のおかげだよ、ありがとう」

 篠山は照れたように「へへっ」と笑った。

「そういえば、福原は高校どこ行くの?」

「タカ高。勉強もうちょっと頑張らないといけないんだけどな」

 俺は、ジョージたちといた時より楽観的になっていることに驚く。いや、楽観的というのも違うかもしれない。高山高校に合格するために頑張ろうと、気持ちを切り替えることができている。

 篠山はパッと嬉しそうに顔を輝かせた。

「俺もタカ高受けるよ! 高校でも野球続ける?」

「うん、たぶん。……いや、続けたいな。続けるよ」

「よっしゃ! 来年は同じチームメイトとして頑張ろうな!」

 肩を組んでくる篠山に、一つ腑に落ちないことがある。

「篠山、先週は野球好きじゃないって言ったよな。でもさっきは野球が好きって言って。どっちなんだよ」

「うーん、きっと好きなんだと思う。横井と高橋のことがあって、野球部の自分が惨めで、陸上部も敵対視してた。だけどもう気持ちもふっ切れて、そしたら野球したいなって思えてきたんだ」

 冷静に自己分析をする篠山が、なんだかおかしい。でも彼の野球への思いは俺も嬉しい。

「わかった。じゃあ来年は、タカ高で一緒に野球やろう」

「おう、頑張ろうな!」

 夕暮れの空の下で交わした約束は、きっと俺の力になるだろう。

 野球が上手くなったわけじゃない。成績も変わっていない。劣等感は未だに残っている。だけど、ほんの少しだけ、前向きになれた気がする。それだけで、気持ちが軽くなった。新たな目標を定めることができた。

 夕日が沈む。篠山の自転車の後ろに乗って進む帰り道、俺は自分が少しだけ好きになれそうだった。





 翌朝、空は晴れ渡っていたが夜の間に降った雨で空気は湿っていた。

 市営住宅地の一角の、一際古いアパートの前で俺は深呼吸をする。雨上がりの土の臭いが鼻腔をくすぐる。

 二階の『所』の表札がある扉を見つめていると、その扉がゆっくり開いた。高山高校の制服を着た男の人がペットボトルを持って出てくる。ジョージのお兄さんだ。三歳年上の彼は、発達の良いジョージとは似ても似つかない、小柄で細身の繊細な印象を抱く人だ。

 彼は玄関の外のトマトの鉢植えにペットボトルで水をやり、実の様子を観察している。そして、俺の視線を感じたのか、こちらに目を向けた。

「おはようございます」

 俺に気づいた彼は、一瞬驚いた表情を見せ、そして微笑んだ。

「おはよう。秀哉しゅうやの友達だよね。ちょっと待ってて、呼んでくるから」

 彼が部屋に戻り、しばらくすると今度は扉が勢いよく開いた。

「純平!?」

 ジョージが靴もしっかり履けていないまま、鉄筋の階段を駆け降りてくる。階段が大きな音を立てて軋み、目で見ても揺れているのがわかる。このボロボロのアパートが、いつ崩れやしないかとヒヤヒヤしてしまう。

「おはよ、ジョージ。靴ちゃんと履けよ」

「あ、あぁ、おはよう。ちょっと待って」

 ジョージが靴に踵を入れたのを確認し、学校方面へ歩き出す。ジョージは、俺の態度に戸惑っているようだ。

 気持ちは落ち着いていると思っていたのに、心臓がドキドキしている。緊張しているみたいだ。もう一度深呼吸をしてみる。

「ジョージ、昨日はごめんな」

「……うん。いや、俺こそ、純平の気持ち全然わかってなくて、無責任なこと言ったから……。本当にごめん」

「いいんだ。俺が八つ当たりしただけだから。ジョージは悪くないし、むしろ、励まそうとしてくれてありがとう」

 素直に自分の思いを伝えられていることに安堵する。少しだけ、成長できただろうか。

「あのさ、俺、昨日親に相談して塾に通うことにしたんだ」

「塾?」

「そう、駅前の。俺もやっぱりタカ高行きたいから、頑張ろうと思う」

 ジョージは一気に顔を明るくした。

「純平! タカ高行こうな! 俺にできることはなんでも協力するし、一緒に頑張ろう!」

 ジョージに肩を抱かれ、胸がくすぐったく疼く。

「ていうか純平、どうしたの? 昨日と全然顔つき違うし。何かあった?」

 あったよ。俺にとっては、自分が変われる程のことが。うまく伝わるように話せるかわからない。でも話そう。全部、聞いてもらおう。

「あ、純平! ジョージもいる。おはよー」

 背後から弘樹の声がして振り返ると、弘樹と聡磨が並んで歩いていた。彼らと合流し、四人で登校する。

 くだらない会話をして、お腹が痛くなるほど笑って。俺は、自分が心から笑えていることに気づいた。笑うって、こんなに気持ちのいいことだっけ。笑い疲れるって、こんなに心地よい感覚だっけ。


 水溜まりに朝日が反射し、俺は思わず目を細めた。

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― 新着の感想 ―
[良い点] シリーズものと知らずこれ単体で読ませていただいたのですが、登場人物のキャラクター性が凄く好きです笑 個人的に、高橋くんと横井さん、この物語では本当に一部登場ですが、あの二人が凄く好きです。…
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