69.メガネ君、耳を塞ぐ
「……うーん……まあいいか」
本日、合計33本目の全力疾走の後、ついにザントが漏らした。
「まだまだ身体の使い方が甘ぇし、正直もう少しだけやらせたいところだが、まあギリギリだな。あとは自主訓練で突き詰めろや」
そろそろ体力の限界、今日はあと一本走れるかどうか……という状態で膝に手を着く俺とリッセは、ザントが何を言っているのかわからなかったのだが。
ピンと来ていない俺たちを見て、呆れたようにはっきりそう言った。
「――合格だ。明日っから違うことやるぞ」
合格。
ずっと欲しかったその言葉は、しかしなんの感慨も重みもなく、ただただ耳から入って抜けていく。言葉としては理解しているが、……たぶんまだ実感が湧いていないのだろう。
「……や、やった! やったぁ!!」
あ、リッセは実感しているみたいだ。俺は……まだっぽいな。嬉しいとかそういう感情もまだない。これからじわじわ来るのかな。
「んじゃ、今日のところはこれで上がれ。しっかり身体を休めておけよ」
教官役であるザントの指示に従い、今日の訓練は終わりとなった。
もはや通いなれた、大浴場ゲルツの湯の従業員用出入り口から表に出る。
今日の訓練は陽が暮れる前に終わっていたらしく、久しぶりに夕焼け空を見た。いつもは夜になるかならないかくらいだから、少し早いかな。
「――あ」
よほど嬉しかったのだろう、浮かれて挙動不審だったリッセが、唐突に何かに気づいたように声を上げた。
「じゃあ俺は先に帰るね」
嫌な予感しかしなかったので、俺はとっとと行こうとするが。
「待て」
……やっぱり捕まってしまった。
「早く風呂に入って飯食いたいんだよね」
「それは私も一緒」
お互い汗だらだらだし、何度か転んだので身体も埃っぽい。やはり疲労が溜まっていくとミスが……まあそれはいいか。
「あんたお金どうなってる?」
ん? お金?
「だって基本外食でしょ? エイル、台所使ってないでしょ?」
うん、結局使う間がないからね。といっても朝はパン一つと水、昼は抜き、夜だけ安い定食を食べているくらいだ。
……って、そういえばリッセとは一緒に住んでるんだよな。
「リッセは使ってる?」
小さな家に一緒に住んでいるが、しかし驚くほど生活リズムが重ならない……いや、むしろ重なりすぎているおかげで、家出はまったく遭遇しないのだ。だからうっかり失念しがちになる。そうだよな、一緒に住んでるんだよな。
そもそも彼女がどこで何をやってるかなんて、あんまり気にしたこともないし。
俺が寝ている時間は彼女も寝ているし、俺が訓練する時間は彼女も訓練しているし。
家以外ではずっと一緒なんだけど……まあ、その辺はどうでもいいか。
食費問題を考えたこともあるが、とにかく台所に立つ時間と余裕がなかった。
夜は特に疲れきっていて、食べながらうとうとしているほどだ。あの状態で火だの包丁だの使うのは危ないと思う。
「いえ、全然。体力の問題で食事を作る余裕もないから、必然的に外食になってる。
自炊した方が安上がりになるとは思うけど、体力的に連日台所に立てるかどうかも怪しいのよね。そうしたら残った食材とか無駄になりそうだし。火を使うのも危なそうだし」
あ、これも俺とリッセは同じなのか。本当によく似ているなぁ。結局「道」での決着はつかなかったし。
まあ、だから、代わりにできるだけ食費を押さえた生活にした結果、結局そんなに食費は掛からなくなった。
これまた毎日利用している浴場の使用料も、月間フリーパスという一ヵ月風呂入り放題の先払い定期券を購入した。かなりお得なやつだ。リッセも持っているみたいだ。
色々と似ている部分は多いが、しかし経済力まではそうもいかなかったようだ。
「俺はお金の余裕はあるけど」
手持ちのお金もまだまだあるし、虎の子として取ってある空蜥蜴の魔核という財産もある。結構いい値段で売れるそうなので、困ったらあれを売ればいいだろう。
「ねえ、あんた狩人やってたって言ってたよね?」
「言ったっけ?」
「言ってたよ。絶対言ってた。間違いなく言ってた」
「じゃあそれでいいけど。それが何か?」
「私の狩りを手伝ってよ」
「あ、俺そういうのやってないんで。じゃあ失礼しまーす」
「待て」
……なんなんだよ。早く風呂に入りたいんだよ。
「手っ取り早くまとまったお金が必要なの。となると、魔物を狩るのが一番早い」
「うん。がんばって」
「手伝って」
「あ、俺そういうのやってないんで。じゃあ失礼――」
「もうこのくだりはいいから!」
あ、そうですか。
「俺は明らかに気が進まない態度なんだけど、それは伝わってるよね? それでもあえて誘ってるの?」
「仕方ないでしょ。他に頼めそうな人いないんだから」
つまり消去法の末の人選か。もっと気が進まなくなったんだけど。
「数日前の話、憶えてる? どんな強さが欲しいのかってザントに聞かれたやつ。俺、あの時言ったよね。火力が足りないって。
要するに、俺は魔物とは戦えないんだよ。攻撃手段がないから」
赤熊や刺歯兎や、その辺の比較的弱いとされている魔物ならまだしも。
ハイディーガ付近に生息する魔物は、これまで俺が狩ってきた魔物とは桁違いに強い。
一方的に先制攻撃ができた空蜥蜴だって、不意打ちを成功させた割りには苦労して狩ったと思っている。
狩人としての理想を言うなら、やはり一撃で仕留めたい。
だが、まだそれはできない。
俺には決定打が欠けている。
だからこそ、明日からの訓練でそれを補う方法を模索し、身に付けるつもりだった。
今の俺は、魔物を相手するには弱すぎるってことだ。
ちゃんと「行きたくても役立たずだから無理」という事実を説明するが、しかしリッセは引かなかった。
「魔物を探すだけでいいわ。魔物を狩るのは私がやるから」
ん?
「できるの?」
「フン。この私を誰だと思っ――おい待て。いい加減聞きなさいよ」
嫌だ。俺は風呂に入るんだ。リッセのことなんて聞きたくない。聞いたら面倒なことになりそうだから聞きたくない。
「嫌がる俺に無理やりやらせる気? このケダモノ」
「な、なんでそんな言い方するの!? 違っ……違わないか……? ――いやだから待てって!」
嫌だ。もう待たない。
俺は両耳を手で塞ぐと、リッセを置いて早足で歩きだした。
「耳を塞ぐな! 帰るな! 聞け! 聞くんだ!」
嫌だ。絶対嫌だ。俺は訓練をするんだ。狩りは今はいいんだ。
まあ、一つの交換条件のもとに、結局俺が折れたのだが。