51.メガネ君、肉の人と呼ばれ始めて
「ひいっ、ひいっ、……うぇぇぃ……」
俺は、あれだ。
基本的に、童話とか年寄りの昔話とか英雄の唄とか、そういうのでしか、魔法というものを知らない。
俺が知っている魔法は、いわゆる実在する奇跡である。
何もないところから火が出るだの、死ぬほどの大怪我をしても数秒で完治するだの、それができない俺にとっては羨むばかりの奇跡である。
決して、泥臭くて息切れして必死で、優雅さの欠片もないものを、魔法であると認識はしていなかった。
――でも実際はこうなんだね。
壁に立てかけた大きな薄い鉄板には、上半分くらいで筆が止まった魔法陣が描かれていて。
「……おえっ」
奇跡の力を行使しようとしている魔術師は、近くで寝ていた巨大猫にのしかかってえずくという、割と見たことがないレベルの脅威的消耗でぐったりしていた。ほら、猫もちょっと迷惑そうな顔だし。規格外の愛され方に困惑気味だし。猫じゃないけど。
実在する奇跡って、本当はこうした必死にやって燃え尽きた姿からこそ、生まれるんだろうね。よくよく考えたら魔法って人間が使える方が不自然な力だからね。
「魔法って大変だね」
「そうじゃのう」
一言でまとめるなら、魔法への憧れが半減する光景だった。
風呂作り計画が立ち上がって、三日が過ぎた。
鍛冶場のおっさんに湯舟と、セリエが「劣化防止」の魔法陣を描くという鉄板を頼み、まず先に鉄板だけを作ってもらった状態である。ちなみに湯舟と鉄板は、空蜥蜴の肉と交換条件で交渉した。
その間、俺は村の人たちに狩人か弓使いがいないか聞いて回る傍ら、山とは違う狩場へ様子を見に行ったり、獲物を狩ったり野草を摘んだり、村人たちが作っている野菜などと交換したりしている。
特に空蜥蜴の肉は人気があるようで、交換してほしいと声を掛けられることもあった。
まあ、この数日は交流を兼ねた基盤作りをしていたと言えるだろう。
早くも子供たちには肉を持ってくる人として通称「肉の人」と呼ばれつつある。別に嬉しくはないがその通りでもあるので否定しないでいると、呼ばれるのを聞くたびに、なぜかフロランタンが尊敬と感心と感動の眼差しを向けてくるのが若干気になる。
そんなこんなで、木彫りに疲れて休憩中のフロランタンに鳥のさばき方を教える折のこと。
寮の側面に当たる壁に鉄板を立てかけて、そこに魔法陣を描くセリエを眺める機会があった。
魔法陣は、魔力で描く。
本来なら「見る」だけで……俺にはわからないが、魔力という不可視の力で魔法陣を描くそうだ。実際塗料を使って描くわけではないので、慣れれば数秒で描けたりもするらしい。
個人の感覚的なものになるが、セリエの場合は、「頭に描いた魔法陣に合わせて魔力を形作り、描くのではなく押し付ける」というイメージで描くらしい。わかりやすくたとえると、ペン型じゃなくてスタンプ型ってことかな。
そんなセリエだが、どこぞに見つけた魔法関係の先達の指示で、何度も限界まで魔法を使うように、という課題を出されている。
いつもなら簡単に「スタンプ」できる魔法陣を、あえてせいいっぱいの力を注ぎこんで、少しずつ魔法陣を描くという形で魔法を使っている。
そして、ぐったりだ。
俺は今回初めて見たが、フロランタンの話では、セリエはこの三日ですでに何度かこの状態になっているそうだ。
「はい、手を休めない。あんな人街にはたくさんいるよ。気にしない」
「おらんじゃろ」
うん。あそこまで脱力している人間は初めて見た。寝ている人でさえまだ力が入っていると思う。人ってあんなに干物みたいに伸び切れるものなんだね。
だが、それはそれ、これはこれだ。
「鳥のさばき方を教えろ」と言い出したフロランタンは、あまり器用ではないようで、手元がだいぶ怪しい。うん、なかなか教え甲斐がある。
力のコントロールもそうだが、手先の器用さを上げるためにも、木彫り細工は悪くないのかもしれない。モチーフはアレだが。
なお、可愛い邪神像 (仮)はもうすぐ完成するらしい。
完成した暁には、彼女には悪いが、事故に見せかけて邪神をなんとかしたいと思う。手が滑って火にくべたり、弓の練習中に手元が狂ったと称して射抜いたりしたいと思う。真に邪悪な存在が宿る前に。
「それでじゃ。向こうはどうなっとる」
「向こう?」
「あのチンピラじゃ」
ああ、サッシュか。
サッシュは、あの日からずっと遠くで棒を振り回している。一応訓練のつもりなんだと思う。あれ以来話はしてないし、別に強いて話すこともないし。
最近の彼は朝も早いし、夜も遅くまでガムシャラに身体を動かしているようだ。体力と気合と根性は並外れてあるのかもしれない。
「特に何もないけど。気になる?」
「気にならん。……と言いたいところじゃが、少し気になる」
そう。俺も少し気になっている。たぶんフロランタンとは違う意味で気になっている。
「最近一緒に肉を食っとらんじゃろ。あいつはしっかり食っとるんか?」
「どうだろうね」
「われの無関心ぶりもすごいのう」
そういう性格だからね。……表に出てないだけで、そんなに無関心でもないと思うけどなぁ。
「……あ、おい。今ふと思ったが……」
ん?
「うちとエイルは、もう友達じゃろうな?」
「あ、そこさばき方違う」
「今肉はええじゃろ! 肯定か否定をせえよ!」
「でも食べるでしょ?」
「食うに決まっとるじゃろ!」
決まってるのか。あげると言った覚えは一度もないんだけどな。
「それより。チンピラのことをどうにかせえ」
「どうにか? 俺がするの?」
「仲良かったじゃろうが。あがな性格がねじくれた手合いは、誰かが手を差し伸べんと、どんどん落ちてくぞ。阿呆じゃけぇな」
「え? 俺とサッシュって仲良かったっけ?」
「悪いのんか?」
「うーん……悪くはない、のかな。気にしたことないけど」
「ほなら仲良いってことでええじゃろ」
そう? そうかな? それすごい極論だと思うけど。
「完全に投げやりになっとるじゃろ。あれじゃそのうち身体を壊す。
うちはあいつ嫌いじゃけど、知らん仲じゃない。一緒に旅して飯食った仲じゃ。じゃけんちぃと見てられんのじゃ。
でも、うちが行っても無理じゃ。そういう関係とは程遠いからの」
……ふうん。
「色々考えてるんだね」
「われもじゃろ」
「俺? 何が?」
「ちょいちょい見とるじゃろ。あのチンピラを。われもまあまあ気になっとるんじゃろうが」
うーん。
「気になってはいるよ。たぶん君が気にしていることとは違うことだけどね」
「違う? ……まあええわ。少しでも気になるなら行ってくれや。同じ飯食った仲じゃ、見捨てることはしとうない。われもチンピラが身体壊したりしたら寝覚めが悪いじゃろ。間に合ううちに止めたってくれや」
…………
「意外と優しいね」
「優しいんじゃのうて気になるだけじゃ。見えんところでなら野垂れ死んでても気にせんわ。早よ行ったってくれや」
よし。
フロランタンの言うこともわからなくもない。気になるのは確かだし、何かある前に止めておく、という発想も嫌いじゃない。
それに、俺はサッシュがああなった理由をちゃんと知っている。
誰かが行かなければいけないと言うなら、それはきっと俺になるんだと思う。
軽い気持ちでちょっと行ってみようかな。