456.バルバラント王国の騒動、深夜帯 3
バルバラント王国に程近い森の中に、二百名近い者たちが潜んでいた。
モンティ侯爵が用意した兵士と、この時のために声を掛けた傭兵たちである。
「ふう……うまいな」
「ああ、沁みる」
「もう一杯欲しいんだが、いいか?」
彼らは、初冬の寒さに震えつつ、温かいスープをすすりながら時を待っていた。
王城から合図が挙がり次第……正確に言うと合図を見た第一王子アシックザリアが指示を下した瞬間、バルバラント城へ突撃する手筈となっている。
もうじき戦地へ、という状況だが、寒さで身体が強張っている。
焚火に当たっていてもなかなか堪える。
そこに温かいスープのよい香りが漂えば、誰であっても手を伸ばしたいというものだ。
「――いい匂いだな。売ってるのか?」
今し方やってきたのだろう傭兵らしき数名が、大鍋を掻きまわしてスープの番をしている男に声を掛ける。
周囲にはたくさんの兵士や傭兵がスープを啜る姿が見られるので、有料か無料で配っているのは見てわかる。だから話しかけてみた、という者が多い。
「いや、無料だ。戦闘の前だから具は入れてないが、ぜひ身体を温めてくれ」
そう答えたスープ番の男は、木の器に透明なスープをよそって寄越す。切れ端でもいいから肉が入っていれば嬉しいが、プロほど戦闘の前に物は食わないものだ。身体の中が重くなる。
「ありがたい」
「さすがに今酒は飲めんからな」
「あぁ、うまいなこれ……肉が入ってたら最高なのにな」
これから戦場に赴く戦士たちに、ほんの少しだけ和みの時間が訪れる――
「――いつもありがとう、シロ。通るよ」
「……」
豪華なテントの前で丸くなっている、巨大な白い狼――狼獣人シロカェロロに声を掛けてから、エオラゼルは中に踏み込む。
彼女は護衛である。
誰に命を狙われてもおかしくないこの状況で、完璧なまでに襲撃者や暗殺者を退ける、凄腕の盾であり矛であり、牙である。
「人じゃない」ということで油断する者は多いのだ。
現に彼女は、誰にも気づかれないままで、すでにいくつかの仕事をこなしている。
「――あ、兄上……」
テントの中には、第一王子アシックザリアが一人。頭を抱えていて、真っ青な顔で震え上がっていた。
元々武より知に重きを置いていたアシックザリアには、この状況……これから戦争が起こるという状況が、いよいよ心と精神に重くのしかかっているのだろう。
これからたくさんの人が血を流し、死ぬ。
それもアシックザリアの号令で、だ。
王族だろうがなんだろうが、まともな人間ならば、感じ入るものがあって当然である。
アシックザリアは強い王にはなれそうもない。
だが、民の傷みや命の重みを知る王にはなれるだろう。
そもそもこういうイレギュラーなことでもなければ、戦場に立つこともなかったはずだ。
今は泰平の世の中、戦争より文化や技術の向上を尊ばれる時代である。
しかし、今回の事象。
イレギュラーではあるが、王族として避けられないものでもあるのは確かだ。王位継承にはこういうお家騒動は珍しくもない。
「すぐに来てよかったみたいだ」
そう言って、エオラゼルは椅子代わりの木箱に座る。
このままでは重圧に潰されるのではないか、というくらいにアシックザリアは追い詰められている。
今にも吐いたり喚いたり泣き出したりしそうだ。
「今報せが入った。向こうは問題なく進行している」
「ほ、本当ですか!?」
「うん」
エオラゼルは頷き、自身もかなりほっとした続報を伝える。
「上手くいけば死者は出ない」
――「出ない」は、さすがに気休めだ。楽観的希望というものだ。
最小限で済む、というのが正確なところだが……いや、同期たちの実力を思えば、できなくはない、と、信じたい。
ただ、今は、今だけは――
「今日という夜と玉座を汚すことなく、君はあの椅子に戻れるよ」
たとえ嘘でも、潰れそうな弟を必死に支えることしかできない。
しばしアシックザリアと話をして、テントを出る。
と――テントの目の前で、シロカェロロが座って待っていた。
「どうかしたかい?」
そう問うと、白い狼はあらぬ方向を向く。
視線を追うと……人が倒れていた。よく見ると一人じゃない。二人ほどいる。
「そうか。ありがとう。また助けられたね」
どうやらシロカェロロは護衛の仕事をしてくれたようだ。
倒れている者たちの正体はわからない。
格好は傭兵のようだが、気を失っているので話はできそうもない。
アシックザリアの首を狙って来た暗殺者なのか、それともアシックザリアの首を手土産に第二王子ダスティオーブに売り込もうとしたのか。
――どちらにせよ、大事の前の小事。
「彼らは放置でいいよ」
もうすぐバルバラントから合図が来て、動くことになる。対処を考えている時間はない。
「もう少しだけ付き合ってくれ。頼む」
シロカェロロはなんとも答えず、またテントの前に丸くなった。その行動が答えである。
夜も深まり、緊張感も高まってきた頃。
多少エオラゼルが励ました効果があったのか、アシックザリアが慣れない細剣を腰に帯び、堂々と立ちその時を待つ。
兵士たちは、突き詰めればモンティ侯爵の指示で動いている。
そして傭兵たちは、金である。
――しかし、自分たちの大将が臆せず立っている姿は、それなりに頼もしいものである。
少なくとも、いざという時に無駄死にさせるような命令は下さないと、少しだけ安心もできる。
それに、ずっと王子の傍にいる白狼。
ただの獣とは思えないような知的な雰囲気を持っており、まるでおとぎ話に聞く聖獣のように美しく賢い。
あんなものを従えている王子には、天が定めた運命だの大義だのというものがあると、錯覚させられそうだ。
それに、あの怪しい従者。
人前ではフードを目深にかぶり、誰にも顔を晒さないが、見える範囲ではかなりの男前だ。それも王子様に勝るとも劣らぬ美男子である。軽口のように口説かれた女も男も、どうしても意識せざるを得ないほどの美形である。
そんな二人と一頭が、木陰からじっとバルバラント王国を見ている姿は、戦場に咲いた華というより他ない。
数少ない女傭兵たちは、凛々しい王子様に、怪しい従者に、白く豪奢な胸毛にときめく。普段勝ち気で男勝りな女傭兵たちがただの女子のようにキャッキャ言いながら王子様や怪しい従者や白く豪奢な胸毛の姿を見て噂話に興じる姿は、笑いながら生き物を殺して興奮するような彼女らの恐ろしい本性を知っている傭兵仲間に白い目を向けられたりもしているが、一部の男の傭兵も王子様と従者と胸毛の姿に見惚れていたりもするちょっと変わった性癖を持つ者もいなくはないがまあその辺はどうでもいい話である。
――バルバラントの方向より、小さな光が三回瞬いた。
待っていた合図が、ようやくやってきたのだ。
「総員! 集合!!」
珍しくエオラゼルは声を張り上げ、いよいよと準備をしていた兵士や傭兵を集める。
準備していただけに彼らの動きは早い。
あっという間に二百余名の大義と血に飢えた男たちが集い、木箱に乗って一段高みにいる自分たちの大将、正真正銘の王子――バルバラント王国第一王子アシックザリア・レイブルー・バルバラントに注目する。
「多くは言わぬ!」
他の音はない。
静まり返り、熱気と狂気だけが立ち込めるこの場に、アシックザリアの声が通る。――よく見れば身体も、言葉を発する唇も震えているのだが、王族らしい腹芸で必死で対面を保っている。
「金のためでも忠義のためでもいい! 私のためじゃなくていい! それぞれの望みと野望のために――共に戦ってくれ!」
「――うおおおおおおおおお!!」
細剣を抜いて掲げると、すでに爆発寸前にまで昂っている男たちは、野獣のように吠える。
そして、その野獣たちに負けないように、エオラゼルは再び声を張り上げた。
「これより景気付けの一杯を配る! 共に飲み干し、バルバラント城へ攻め入るぞ!!」
スープ番をしていた男と、手伝いらしき数名が全員にカップを回していく。数が多いので粗末で小さい器だが、今はそんなことはどうでもいい。
器が配られると、今度はびしゃびしゃと派手に零しながら、右から左へ駆け抜けるように通る者が酒を注いでいく。
あっという間に、全員の手に器と、注がれた酒が用意された。
びしゃびしゃなのでちょっと酒精の匂いが立ち昇るが――全員が昂っている今、気になるものではない。
「――それでは! それぞれの戦いのために!」
音頭を取ったアシックザリアが、口に器を付けた。
そして、兵士と傭兵たちも、ぐっと酒を飲み干すのだった。
それからしばしの時を経て。
「……全滅だ……」
アシックザリアは、呆然と呟いた。
酒を飲み干してからすぐ、一人、また一人と、兵士や傭兵が倒れ。
気が付けば、ほぼ全員がその場に倒れていた。
「うあ、ああ……あぁ、あ……」
「……うぅ、うぅ、……う……」
だが、倒れていない者も、呻き声を上げていて、すぐには動けない状態である。
――こうして、内乱のために集まった二百余名は、戦う前に全滅した。