454.バルバラント王国の騒動、深夜帯 1
体感では、夜の歓楽街も眠るような深夜である。
気が緩みまくっていた見張りの兵士の背後を取ると、ハイドラは一気に襲い掛かった。
「……ぐっ、ぎがっ……!」
ギリギリと締め上げる腕に力を込めると、ふっと兵士の身体から力が抜ける。
「――おやすみなさい」
首を絞めて気絶させた兵士に囁き、物音を発てないようゆっくり床に横たえる。
その間に、知り合いの料理人の顔をしたマリオンが、苦しむ兵士の腰からカギを外し、素早く扉を開けた。
囚人たちが寝静まっている坑道に、金属の仕掛けががちゃりと動く音が響く。
上階に続く扉を守る見張りは、二人。
片方はマリオンなので問題ない。
この軽犯罪区画には見張りしかいない。
見回りの兵さえおらず、囚人にはかなりの自由が許されている。
正直、かなり気が抜けていると言わざるをえない警戒網ではあるが……
しかしまあ、どうせここを突破できても、という話である。
最終的には兵士の住んでいる詰め所と、仮にそこを越えたとしてもバルバラント城を守る城壁が立ち塞がるという、ある意味国で一番セキュリティが固い場所を突破しなければならない。
外側からの守りも堅固なら、内側から外に出るのも困難なのである。
そういう意味では、強い警戒を敷いて兵士たちの体力や気力を使うだけ無駄、という判断もあるのだろう。
――脱獄を考えている囚人にはありがたい話だが。
「あと頼むわね」
「ああ」
マリオンにこの後のことを頼み、ハイドラは開いている扉を抜けた。
こうして、まず一番最初、または一番下の扉をクリアした。
ハイドラがいたのは三階層目である。
軽犯罪区画の女囚が働く場所は、上から数えて、三階層に分けられているのだ。
つまり、あと二つ扉があるということだ。
道順はわかっているので、迷うことはない。
「――ん?」
二階層。
見張りの兵士は一人しかいない。
ここでは基本的に見張りは二人体制が主なので、一人は見回りに出ているか、それともサボッているかだろう。バルバラントの兵士は良くも悪くもゆるいのだ。
気配を探っても、近くには何も感じない。
見回りに出ていようがサボッていようが、近くにいないのであればそれでいい。
上に続く扉の前で本を読んでいた兵士を、物音で気を引く。通路の奥に石を投げて、秘術を駆使して天井に張り付く。
元々明かりの少ない地の獄である。
これだけで闇に紛れることができる。
天井を這うようにして扉側に移動しつつ、気を引いた兵士が真下を通ると、足音を殺して着地し、扉へ急ぎ愛用のキーピックを鍵穴に突っ込む。
今兵士が振り返れば、ハイドラの姿は丸見えだ。
かなり危うい状況だが――それでもハイドラは焦らず、落ち着いて行動する。
秘術「歩行術」の応用で、手先に魔力を集中させて発する金属音を無音化し、物の数秒で開錠してするりと扉を突破した。
裏からも同じように音を消してキーピックを突っ込み、カギを掛けておく。
これで、ハイドラが通った痕跡は一切残らない。
「――助かるわ、マリオン」
そして、ここだ。
扉の影になる場所にある、小さな石が二つ。これはマリオンに頼んでいた合図で、ハイドラが注文していた物を置いたという証だ。
急いで服と靴を脱ぎ、引っかけるだけにしていた「素養封じの首輪」を取る。服も靴も首輪も何かに使えそうなので、というか痕跡を残すのが嫌なので、「圧縮」して持って行くことにする。
そして、素っ裸になったハイドラは、二つ並ぶ石の裏に手を伸ばす。
そこには、三つ目の石――のような、革製の球体が、闇に紛れて転がっていた。
ここに入る前に「圧縮」しておいた、ハイドラの装備である。
黒い革のつなぎに、白い仮面。
そして愛用の道具たち。
「圧縮解除」してつなぎに足を突っ込んで着込み、それらをボール状に包んでいた革のマントを羽織り、一つずつちゃんとあることをチェックしつつ、道具を仕込んでいく。
今日は完全に隠密活動なので、黒いマントを使用する。裏は白いのだ。
「――うん」
最後に手袋をして、少し身体を動かしてみる。
工夫仕事をしつつ、肉体の鍛錬も秘術の鍛錬も欠かさなかっただけに、身体は衰えていない。
このコンディションならいつも通りの盗賊働きができそうだ。
一階層にやってきた。
ここを突破すれば、あとは兵士の詰め所。そしてバルバラント城の敷地に出る。
扉の前には兵士が二人。
暇そうに椅子に座り、ぽつぽつと適当な話をしている。
(……まだ騒ぎは起こってない、と)
あの呑気な様子なら、間違いないだろう。
一番下の階層では聞こえないまでも、ここまで来たら地上はすぐそこだ。
もし今、城で何かが起こっているなら――具体的に言うとエオラゼルらが兵士や傭兵を連れて攻め込んできているなら、さすがに異変の音や気配は感じるだろう。
だが、それがない。
ならば、まだ何も起こっていないということだ。
もし騒ぎが起こっているようなら、どさくさに紛れて抜けられる可能性もあったが……
(やってる途中で騒ぎが被るのが怖いのよね……)
ハイドラが抜け出そうとしている時に、騒ぎが起こって兵士たちが予想外の動きをした場合だ。
そういう予想できない動きをされると、見つかる可能性が非常に高くなる。
そもそも兵士の目を盗んで突破することそのものが、リスクが高いのだ。倒してしまうのは楽ではあるが、後々のことを考えると密かに突破したい。
一番下は、マリオンが適当にごまかす。そのために残ったのだ。
二階層は、ハイドラが通った痕跡は残していない。
そしてこの一階層を無発覚で突破できれば、脱獄したことがバレないままで、外へ出られるだろう。
少し考え、
(ちょっと勿体ないけど、時間が惜しいし)
虎の子の、「影猫」を刻んだ魔法陣石を使うことにした。
暗殺者育成学校にいた時にセリエに頼んで作ってもらった奇跡の一品で、一時的に身体を透明化させる「素養・影猫」を使用することができるのだ。
セリエは天才だ。
元は魔法を刻むだけの技術だったはずなのに、研究の結果、「素養」まで刻むことができるようになったのだ。
まあ、惜しみなく研究に協力したトラゥウルルの、あけっぴろげなあの性格のおかげというもあったのだろうが。普通は他人に「素養」をいじらせるような真似はしないから。
セリエは盗賊団入りしていないので、これを使えば次はいつ補充できるかわからない。
たくさん欲しかったが、一個作るだけでも大変だったようなので、さすがに頼めなかった。
これが最後の一個である。
使えばもう、この選択肢は選べなくなる。
が――最悪人が死ぬような事態である今こそ、使うべき時と言えるだろう。
(彼女も欲しかったわね……)
ハイドラの「圧潰膨裂」と、セリエの魔法陣石は非常に相性がいい。
石に魔法陣を刻めるセリエと、その石を「圧縮」して沢山持ち歩けるハイドラ。
単純に言えば、セリエがいれば、使い捨てながらいろんな魔法や、「いろんな素養」を使い放題になっていたのだが。
だが、さすがに養子とはいえ貴族の娘になってしまったセリエに、盗賊団に入れだなんて、誘う以前に声を掛けることすらできるわけもない。
しかもその貴族は、言うなればハイドラたちの恩師とも言うべきワイズ・リーヴァントである。
――折を見てセリエに会いに行き、また頼もう。
そう思いながら、ハイドラは「影猫」を使用し、姿を消した。
兵士たちのすぐ傍を通るため、「隠行術」で完璧に気配を絶ちつつ、同時に「歩行術」で足音どころか呼吸や、もっと言えば心臓の音さえ消して、すぐ近くに兵士たちがいる傍で扉に齧りつく。
構わずキーピックを突っ込み、音を殺して開錠した。
「お?」
「なんだ?」
最後に、遠くに石を投げて気を引くと同時に、少しだけ扉を開けてするりと隙間を通り抜けた。
わずかでも、扉を開けた空気の流れが多少変わったはずだが……兵士たちは気付かなかったようだ。
――ここも反対から施錠して、クリアである。
最後は、兵士たちの詰め所である。
ここはもう、どこにいてもどこを通っても、いつ何時でも、兵士がうろついたりうろつかなかったりと、全体的に予想外しか起こらないスペースだ。
だが、ハイドラはもう抜け道を見つけている。
まだ「影猫」の効果が残っている内に進み、地の獄に落ちる時に首輪をはめられた関所のような部屋から、脇の部屋に向かう。
さっき来た場所である。
洗濯場所兼囚人の行水用の洗い場である。
ここは空気が流れている。
この季節には、かなり肌寒い冷たい空気だ。
壁の上方には、空気穴も兼ねているのだろう、鉄格子付きの小さな窓がある。
どうがんばっても人が通れる隙間ではない。あれはネズミくらいしか通れないだろう。
そして窓の向こうは、詰め所の側面……つまり地上である。
(苦労して身に付けた甲斐があったわね)
ハイドラはジャンプして鉄格子を掴むと、「禁行術」を使用して身体を小さくして、ネズミしか通れないような隙間を突破した。
禁行術。
それぞれの特徴や「素養」を発展、転換して、己だけの切り札とするものだ。
ハイドラはすぐにこの構想に辿り着いたが……しかし育成学校にいる間に完成させることはできなかった。
完成させたのは割と最近のことである。
名付けるなら、「身縮」。
自分自身に「素養」を使用し、「圧縮」するという荒業だ。
(いたた……)
効果は最大数秒。身体への負担は大きく、二秒使えば骨がギシギシ軋むし、使いどころを誤れば物質と物質の間に挟まってえらいことになる。実際挟まって胴体が千切れかけたこともある。
だが、虚をつくという一点においては、これ以上ないほどの切り札だと、ハイドラは思っている。
(……改良の余地ありだわ)
まあ、不満はあるが。
詰め所の壁を走って昇り、屋上へ出た。
久しぶりに見る夜空は、星も眠っているように真っ暗だ。
半分に割れた月は出ているものの、あまり機嫌はよろしくないらしく、明かりとしては淡く弱い。
「……いい夜じゃない」
頬を撫でる冷たい風に、いろんな者の緊張感を感じる。
何かが起こりそうな夜である。
たとえば、王城に泥棒が入って国宝が盗まれたり。
椅子を追われた王位継承一位の王子が、亡くなった者とされている兄と一緒に攻め込んできたり。
正体不明の第三勢力が、何かをしようとしていたり。
そんな大事が起こってもおかしくない夜である。
「王冠と指輪、見つかった?」
正面の王城をしゃがんで見ているハイドラは、視線を動かすことなく背後に潜む者にそう聞いた。
「――ダメ。奥の方は警戒が強すぎて入れなかったから、わかんなかった」
姿を消している猫獣人トラゥウルルは、最初からここにいた。
ここが、ハイドラとの待ち合わせ場所だったからだ。
「了解。お疲れ様。あとは任せて」
「うん」
元々希薄だったトラゥウルルの気配が、完全に消えた。
トラゥウルルはこれで撤退だ。
彼女自身は強いし頼もしいが、性格上荒事を嫌っている。ここまで付き合わせただけで充分だし、最初からそういう約束だった。
「さて」
ハイドラは立ち上がる。
「始めましょうか」
笑いながら、その身を宙に投げ出す。
まるで己より大きな生物を獲物と定めた肉食獣のように、王城へと襲い掛かる。
じきに騒ぎが起こるので、焦らすのはなしだ。
まずは大本命、玉座に最も近い第二王子ダスティオーブの部屋に侵入することにしよう。