440.メガネ君、バルバラント王都へ侵入する
……あれ? 護衛は?
想定した時間――夕方、空が赤くなってきた頃に目が覚めた俺は、まず俺の横で腹を見せて爆睡しているネロを発見する。
なんとも煽情的な姿である。
こんなの腹毛を撫でずにはいられないじゃないか。撫でとこう。
それにしても、がっつり寝ている。
俺、寝ている間の護衛を頼んだはずだけどな。
多少うとうとしているくらいならまだしも、ここまで本気で寝られると、ちょっと事情が違うというか。話が違うというか。
「ネロ、俺の護衛は? ……いや腹を出して寝れない生活なんてもう考えられないとか、今はいいから」
ネロは一瞬ちらっと青い目を開くと、よくわからない思考を飛ばしてきて、再び目を閉じた。
……まあ、猫だしな。
猫ってこんなものだよな。
――そもそも異変がなかったから熟睡しているのだ。ネロは俺より感覚が鋭いから、何かあれば起きないわけがない。……そう信じていいんだよね? 信じるけど、いいよね?
ちょっとした不安がよぎるものの、それより、これからのことだ。
「素養・仮死冬眠」はやはり強力だ。
ほんの少ししか寝ていないはずなのに、これ以上はどうしたって眠れないというくらい睡眠が満ち足りている。
肉体疲労も癒えたし、魔力も溢れそうなほど回復した。
今すぐでも活動を開始できる状態である。
だが、まずやることは決まっている。
「ネロ、一旦戻すね」
値ているままのネロを召喚解除して消すと、ベッドのシーツを剥がす。
疲れのせいで失念していたが、この宿はペット禁止かもしれないので、まずは部屋の掃除をしておかねば。
無法の国で登録した「素養・家事全般」は、こういう時こそ輝くのである。メイドの彼とかダイナウッドとか、元気でやってるだろうか。
宿の店員に「ペットを部屋に入れてしまった」と事情を説明すると、部屋の状態をチェックした後に笑いながら「これだけ綺麗なら問題ない。洗濯と掃除をしてくれたら追加料金もいらない」とお許しの言葉を貰った。
手早くシーツを洗い、掃き掃除や拭き掃除をこなし、合格を貰って宿を出た。
「あれ? 泊まらないんですか?」
「少し急いでいるので」
一泊料金はもう払っているが、もうすでに一泊分の休息は取れた。風呂にも入れたし、何より安心して眠ることができた。
もうハワの街に残る理由はない。遊びに来たわけじゃないから。
宿を出た頃には、すっかり夜になっていた。
予定通りの時間である。
夜に紛れて一気に移動し、明日にはバルバラント王都に到着を目指そう。
「俺のメガネ」は夜目が利くので、夜の森も楽に走れる。
ついでにネロにも先行してもらって、魔物や人がいないことを確認してもらって、安心して走っている。
今のバルバラントは不穏だ。
どこで何が起こるかわからないので、少々警戒は強めで移動する。
森に入って道なりに山道を登っている最中に、夜が明けた。
陽が昇り明るくなってきた頃に山頂に到着。
彼方に見えるバルバラント王都を見下ろしながら休憩し、食料を腹に入れておく。
ネロにも出そうと思ったが、「それはいらないからこれを焼け」と、彼女が仕留めたのだろう鳥を出して来た。どうやら先行するついでに狩ったらしい。
最近は野生の獣をそのまま食べることはないんだよな。すっかり料理された獲物に慣れてしまったらしい。
休憩を終えて山を下る。
辺りには魔物らしき気配も感じるが、距離があるせいか、それとも俺に気づいていないのか、襲ってくる様子はなかった。
遠くの空が赤くなってきた頃、今度は地図と予定通り、河に辿り着いた。
横手の方に街道から続いているのだろう橋が見えるが、このくらいの河なら橋はいらない。
このまま秘術の一つ「走行術」を使って走り渡る。
水面を踏んでいる感覚はあるが、それでも沈むことのないふわふわした足場を駆け抜ける。
元は壁を走るための技だが、慣れればこれくらいはできる。そもそもこれより「壁を歩く」方が難しいくらいだ。
でも、まだまだだな。
ワイズやダスカ、アミは、歩いて渡れるだろう。ネロもできる。というか俺の横でやってる。足場の下にいる魚を見ている。
でも俺は動き続けないと水の中に沈んでしまう。これが練度の差である。
まあ、この辺も追々の課題にするとして。
山と河を越えれば、バルバラント王都は目の前である。
やはり到着は夜になった。
ハワの街を出てから丸一日と、もう少し過ぎた頃だろうか。今は真夜中と言える時間である。
冬が間近とあり、この時期の屋外の夜は寒い。
バルバラント王都はにぎわっているのか、まだ街の明かりが点々と灯っている。
「……まあ、仕方ないよな」
距離を保ったまま、しばらく城下町に続く正面門の様子を見る。
旅の者か、または商人か、ぽつりぽつりとやってきては門番の兵士の審査を受けて中へ入っていく。
――そろそろいいか。
城下町の明かりがだいぶ減ってきた。
そろそろ動いてもよさそうだ。
俺は「影猫」をセットして姿を消し、通りがかった馬車の影に隠れて正面門へと近づいた。
「――止まれ」
馬車が停止すると、車体の下に潜り込んで様子を見る。
……うん、やはり警戒網が強い気がする。例の反乱だのなんだのの影響だろう。遠目にはわからなかったが、門番がピリピリしている。
それに人数も多い。
見える範囲で十人くらいいて、先にやって来た入国者の検査や尋問をしているようだ。そう易々と通してはくれないらしい。
城下町は見えている。目と鼻の先と言える。
あとは隙を突いて侵入するだけだが……
「――荷物はなんだ?」
「――はあ? おめぇ俺の顔を見忘れたのかよ。おまえと同じ田舎のナットだよ! 荷物は鋼てん菜と砂糖と鉄だよ! おめぇの故郷の特産品だろうが!」
「――わかってるよ。言う決まりなんだよ」
お、馬車の主とこの門番、同郷の知り合いか。
「――なんなんだよ。少し前までそんなこと言ってなかっただろ」
「――上からの命令なんだ。俺もよくわからん。……一応検めるけど、いいよな?」
「――おいおい、同じ田舎の友達の荷を確かめるのか? あーあ、すっかり都会に染まっちまってらぁ! 言っとくけどおめぇはただの田舎もんだからな! ちょっと都会に慣れたからって都会生まれの連中の仲間入りしたとか勘違いしてんじゃねえぞ!」
「――うるせぇ決まりなんだよ馬鹿野郎! さっさと馬車から降りて荷を見せろ!」
なんか揉め出したが……今がチャンスだな。
少し揉めた体になったことで、他の門番たちが一斉にこちらを注目している。
今なら抜けられる。
左のレンズに「影猫」を。
右のレンズに「一秒消失」をセットする。
あとは、秘術「疾行術」を使いながら一秒短縮することで――
一秒後、俺はバルバラント王都内を歩いていた。
背後の門番たちも、夜も遅いので人手が少ない城下町の人も、気づいた様子はない。
誰の視線もないことを確認して、すぐに路地裏に入り、姿をくらませた。
ここに来た目的が目的なので、正式な入国手続きはしない方がいいと判断した。
俺はバルバラント王都にはいないし、来ていない。
そういうことである。