435.メガネ君、決心する
雨が降っても、貧乏人には関係ない話である。
天気が悪くても仕事には行かないといけないし、二日酔いでも仕事は待ってくれないのだ。
まあ、二日酔いはしていないが。程々に切り上げたから。
今日もオロ雉を仕留めに森へ行く。
でも猫との訓練はなしだ。ネロは濡れるのを嫌がるから。でも洗われるのはそうでもないみたいだ。猫心は複雑である。
午前中の内に狩猟ギルドに納品を済ませ、やや早めの昼食時にロロベルの家に戻る。今後の話をしておかないと。
どうやらついさっきまで寝ていたらしきロロベルは、特徴的な頭にひどい寝癖を付け、いつもきりっとしている顔も眠そうで、かなり気が抜けている。
眠そうな顔でテーブルに着き、俺が適当に作った昼食を食べつつ、これからのことを話す。
「仕事はいくつか入っているが、しばらくは王都に留まることになりそうだ。しかし部屋は空いているから、このまま少年が使ってくれて構わないよ」
そういうわけにもいかない。
一応成人した男と女と猫だ、夫婦でも許嫁でも恋人でもないのに一緒に住むのはよくないだろう。留守番をするくらいが限界だ。
「また狩猟ギルドの寮に入るからいいよ」
台所もないし安くて狭い寮だが、利用者が皆無なだけに俺には過ごしやすい。
日中は仕事でいないし、夜寝るだけみたいな使い方になるだろうから、それで充分だ。
どうせ荷物も多くないし、さっさと出ていくことにしよう。
「構わないのに……――ああ、そうだ。昨日は同期とは会えたのか? 何やらサッシュは君に用事があると言っていたが」
用事か。
「聞きましたよ」
そして朝からずっと、何気に気になっている話でもある。
サッシュじゃないが、俺もきっと周りの皆に世話になっていたんだと思う。
きっとハイドラにも、何らかの形で世話になっていた。
あいつは悪い奴だ。
だが、少なくとも、仲間に悪事を働いたことはなかったと思うから。
……押し付けられた感が強い彼女の「素養・圧潰膨裂」は、とてつもなく便利で今もよく使っている。
当時は一方的に借りを作られたようで若干迷惑だったが、今では差っ引いてもおつりが出るほど使い倒している。
一方的なものでしかないが、しかしそれでも、借りは借りと思わなくもない。
もし彼女が、いずれ俺がこう考えることを予想して「自分の素養」を明かしたのであれば、今まさに彼女の想定通りに事が進んでいるのかもしれない。
ハイドラなら、二年前からこうなる流れを考えていても、おかしくない気がするから。
そんな切れ者だからこそ、余計に、「投獄された」という情報が胡散臭いのだが……それもご指名までして……
…………
あ、そうだ。
「ロロベルさん、たとえばの話なんだけど」
「うん?」
「もし他国の要人を救出から亡命まで手助けしたいと思った時、組織としては、やはり反対という立場になるのかな?」
「要人の救出と亡命。うーん……まあ、賛成も反対もないな」
「ないの? どうでもいいの?」
「君たちは基本的に自由に行動しているだろう? それが答えだよ。
――昔は組織の方針というものがあったが、今はそれさえないんだ。だから個々が自由に動けるのだよ。
極論を言うと、この国じゃなければ暗殺だってなんだって好きなことをやっていい。少なくとも組織は何も言わない。もし言う時があるなら、正式な通達を持って是非を下すだろう」
……元々「好きに暮らしていい」とは言われていたが、そこまで自由なんだ。
「じゃあ他国なら何をしてもいいと。お尋ね者になったりしてもいいと」
ということは、もしもの時はハイドラの脱獄を手伝ってもいいわけか。
「極論を言えばね。
だがそれを邪魔する者も咎める者も出てくるとは思うが。
そもそもそんな軽率に動くような者を、あの学校に招くことはなかろう。何気に人は選んでいるよ」
そうか。……そうだよな。
「なんだ? 誰か始末しに行くのか?」
その逆だよ。
「お姉さんにこっそり教えてみなさい。相手によっては協力しよう。どこのナスティアラの政敵を狙うのかね?」
寝癖頭で完全に面白がり出したので、さっさと出ていくことにした。
さっき狩猟ギルドに納品に来た時、軽く話を通していたので、寮入りはスムーズに行われた。
正確に言うと出戻りのような感じだが。
狩猟ギルドに程近い小さな建物が、まるごと狩猟ギルド――いや、暗殺者組織の寮である。
裏に関わるものは城下町に溶け込み、それぞれで生活をしているので、ここを利用するのは、基本的によそから来て一時的に泊まる者が主である。
かつてはそうだったし、今も一応そうだ。
が、若者の暗殺者離れが加速するこの現代では、利用者なんてめっきり減ってしまい、半年に一回誰かが泊まるかどうかという過疎っぷりである。
まあ、そのおかげで、まだ生活が成り立たない俺が利用できる面もあるのだが。
「にゃあ」
昨夜は一緒に寝られなかったし、訓練もできなかったので、ここでしっかりと猫分を補給しておく。
しばし猫と戯れていると、ドアをノックされた。
「エイル、来たぞ」
ベルジュの声である。彼も今日からこの寮の利用者である。
俺も泊まるかもしれないと事前に伝えておいたのだ。
そして、都合がよければ昼過ぎに会おうとも、ゆるく約束していた。都合が悪ければいいと言ったのだが。
「――ネロ、またあとで」
召喚を解除して猫を消すと、俺はドアを開けて部屋を出た。狭い部屋だ、二人でいるような場所ではない。
「サッシュは?」
「二日酔いでまだ動けないようだ。今日もあの宿に泊まるんじゃないか?」
なんだ、本当にとことん飲んだのか。
「君は大丈夫なの?」
「大丈夫というか……ここだけの話、どうも酒精は毒に近い扱いになっているらしくてな。俺の『素養』は覚えているだろう?」
あ、「魔光中和」か。不浄の存在に強い光属性体質だ。
「酒って毒なの?」
「一時的に人体に異常をきたす、という意味では毒なのかもしれんな。ある意味『作物を傷ませる』ことで生まれるものだから、……というのが俺の仮説だ。合ってるかどうかはわからんが」
そうだったのか……
姉ホルンも異様に酒に強いが、案外姉の酒豪っぷりも「素養」が関係しているのかもな。
「立ち話もなんだ、雨が降っているが何か食いにいこう。昼飯は済ませたか? なら甘い物でもいいな? 気になる店を教えてもらったんだ」
相変わらず食に熱心な男である。
「話したいこともあるだろ? お互いに」
「……まあ、そうだね。行こうか」
断る理由はない。ベルジュが来たら俺も話そうと思っていた。
「――で、決めたか?」
昨日の今日だ、「何が?」と問うまでもない。
「まだ迷ってる」
ちょっと女子率が高い、なんというかこう、ピンク色とフリルが一杯の、俺が知っている食堂なんかとは一味違う甘味屋の片隅で、こそこそと話す。
時々その辺の女性たちが、こっちを見てはひそひそやってきゃーとか言っている。なんだかとっても居心地が悪い。やはり注目を浴びるというのは苦手である。
しかし、まあ、このクレープってものは結構うまいが。
俺が頼んだのは、「男性におすすめ!」と書かれていたものだ。名前は……ちょっと忘れたが。
紙のように薄いペラペラのパンケーキに少し酒を吸わせて、果物やクリームを乗せて巻いたようなものだ。酒の苦味と果物とクリームの甘み、そしてパンケーキに使われた卵の風味がよくあっていて非常に良い。これをナイフとフォークで切って食べるのだ。
おいしいが、ちょっと量は物足りないかな。
この辺も女性向けってことなのだろう。
というか場違いすぎないか。
ベルジュはよく平気でいられるものだ。
「ベルジュは? 決めた?」
「俺も迷ってる。だが……おい、ちょっとそっちくれ」
お互い別の物を頼んだので、ベルジュはこっちのクレープも気になるようだ。
ちなみに彼が注文したのは、ナッツと果物と樹液のシロップの組み合わせである。
「半分残すから交換しよう。それで?」
「どうせ当てのない旅をしているようなものだからな、様子を見に行こうとは思っている。手を貸すかどうかはそれから決める。要するにサッシュと一緒だな」
「正直犯罪の片棒を担ぎたくはないけどな」と最後に付け加えた言葉こそ、ベルジュの本心な気がする。
まったくもって同感である。
俺だってそうだ。ようやく自分でも一人前の狩人になれたかな、と思えるようにはなってきたのに。
この平和を捨てるような真似はしたくない。
守るべき猫だっているのに。
だが、そう、気になるんだよなぁ。
話を聞いてからずっと気になっている。
「俺は……どうしようかな」
「それをくれ」
「まだ半分食ってない」
「――迷うくらいなら行けばどうだ?」
…………
「ハイドラに何かあったのは確かだと思う。
さすがにこの手の話で嘘をつけば、俺たちの信頼を失うだけだからな。だからまるっきりでたらめだとは思えん。
それに、もしかしたら俺たちが予想もつかない出来事が起こっていて、本当にハイドラが窮地にいるのかもしれない。だとしたらあいつを見殺しにすることにもなりかねん。
この後悔は一生引きずるぞ」
……うん。
「聞けば聞くほど同意しかないよ」
昨日からずっと気になっている。
たぶん、今話を蹴っても、この先ずっと気になって、忘れた頃にも不意に気にして、たぶんずっと心残りとして心に残り続けると思う。
――本当にハイドラが投獄されているなら、処刑だなんだというタイムリミットも存在する可能性は高い。
行くなら行く、行かないなら行かないを、早めに決断しなければならない。
…………
「真実を確かめてから決めるって、結構合理的なのかもね。……俺も行こうかな」
ご指名も受けているし、一方的に貸されたものだが借りもあるし、単純に同期の心配という気持ちもあるし。
ハイドラが死んだ、なんて聞かされたら、確実に寝覚めも悪くなるだろうし。
こんなに気になるなら、ちょっと行って確かめてくればいい。
幸い定職には着いていないから、ナスティアラを離れることにはなんの問題もない。多少の後片付けをすれば、すぐに旅立てるだろう。
そう。まずは確かめるんだ。何がどうなっているかを。
手を貸すかどうかは、それからだ。
幸いというかなんというか、暗殺者組織は他国での犯罪には寛容なようだし、脱獄の手伝いもできなくはない……のか? あまりやりたくはないが……
まだ迷いはあるが、とにかく確かめには行ってみよう。
――よし、決めたぞ。
「ベルジュ、俺も行く」
「そうか。早くくれ」
「まだ半分食ってない」
そうと決まれば、旅に出る準備をしないとな。