431.メガネ君、まだまだ鍛え足りないと思う
早朝。
寝入るのがいつもより遅かったせいで少し眠いが、ネロに起こされていつも通り起床。
少しベッドで戯れて、今日も一日が始まる。
実は飲むようになってから気づいたが、俺は酒には弱いが、酒精には強いようだ。
ちょっと飲みすぎたかな、と思っても翌日に残ったことはない。二日酔いも未経験である――二日酔いになる前に潰れるから、というだけの話かもしれないが。
いずれ経験する時も来るかもしれないが、いろんな人の二日酔いで死にそうになっている顔を思い出すと、あまり経験したくはないものである。深酒には要注意だ。
朝の支度をして、一旦ネロを消してから家を出る。
若干雲が多い。
空模様が気になるが、今日もいつも通り、森で狩りである。
まだ人の少ない薄暗い早朝を行き、顔見知りの門番に挨拶して王都を出た。
――あ、そうだ。
「天気、昼までもつかな?」
振り返って聞いてみると、門番のおっさんは空を睨んで「うーん」と唸った。
この人は、毎日毎日ここに立ってそれとなく空を見ていたおかげで、なんとなく天気の移り変わりがわかるようになったという特技を持っている。
意外と高い的中率を誇るので、こういう怪しい天気の時は、ぜひ意見を聞いておきたい。
「うーん……昼前には降るかもなぁ。早めに切り上げて帰ってきた方が無難だとは思うが。あ、はずれても文句言うなよ」
なるほど。俺と同じ意見か。
じゃあ、今日は心持ち早めに戻ることにしよう。
狩場である南の森まで走り、手早くオロ雉を四羽仕留め。
血抜きしている間に、今日も猫と訓練をする。
――もしネロのような魔物が野生に存在していたら、誰がどう対処できるのか。
そんな可能性さえ見えないほど華麗に負けて、少し早めに切り上げる。
ネロ、すごすぎないか?
ワイズなら対処できるんだろうか……なんだかあの屋敷の使用人たちよりすごい動きをしている気がするんだが。
最近、砂を砂としてではなく、音を立てるだけの道具として使い出した……いよいよその辺の魔物とは一線を画す存在になりつつあることに、そこそこの脅威を感じる。
と同時に。
俺の猫はすごい賢くて可愛くていいだろ、と誰かに自慢したくもなるこの気持ちは、なんなんだろう。
猫の話をしたい。
大帝国の猫好きに自慢したら、聞いてくれるだろうか。対抗してくれたりするだろうか。
よし、とりあえずさっさと帰って、ネロの存在を知っているセリエに自慢することにしよう。他に話せる人もいないし。
「――うーん。エイル君の猫の話は長いからいいです」
雨が降る前に王都に戻り、狩猟ギルドに獲物を納品し、家に戻り。
今日も台所に立つセリエに「聞いてくれ」と言ったら、即座に断られた。全然聞いてくれなかった。
……寂しいな。大帝国の猫好きどもなら聞いてくれたはずなのに。
こうなったらいっそ大帝国に移住することも考えた方がいいのかもしれない。あそこには夢の猫屋敷もあるし……
顔には出ていないかもしれないが、結構気持ちが沈んでしまった。そして気落ちしたままセリエの用意してくれた昼食を食べる。
「それで、今日のご予定は?」
だが、貧乏人には落ち込んでいる時間もないのである。さっさと気持ちを切り替えよう。
「少しだけリーヴァント家に寄ろうかと思ってるんだけど、いいかな?」
今日はオロ雉を四羽仕留めた。
定期契約の納品は毎日一羽から三羽で、今日は三羽納めた。そして一羽だけ持って帰ってきた。これはリーヴァント家への手土産だ。
「ああ、そういえば今日辺り帰るとか帰らないとか、そんな話でしたね」
「詳しく聞いてない?」
「全然ですね。一応あの方の動向は裏の仕事になっていますから、あまり詳しいことは聞けませんし」
そうか。裏の仕事に関しての情報は、共有は禁止されてるもんな。
「またダスカさんとアミさんですか?」
「うん」
目標があるってのは、正直ありがたい。
ジョセフじゃないが、生きるためだけに漫然と毎日を過ごすのは、それは俺も退屈だと思うから。
目下の目標は、あの二人から徹底的に技術を盗むこと。
そしてネロとの勝負に勝ち越すことだ。
――今のネロほど強い魔物がそこらにいるとは思えないが、しかし、万が一ネロより強い魔物と遭遇したら、間違いなく死ぬ。鍛えられる時に鍛えておかねば。
「……私もたまには本気で訓練をするべきなんでしょうね」
「やってないの?」
「ちょっとさぼり気味ですね。今は魔法陣の研究ばかりです」
専門の方面か。それはそれで悪くないだろう。それこそ俺も狩人として必要だからやっているわけだし。
「たまには一緒にやる?」
「いえいえ、足手まといになりますから。ダスカさんとアミさんにも、今のエイル君にも、もうついて行けないと思います」
一応技術を維持するための訓練は欠かしてないんですけどね、と。セリエはそう言葉を締めた。
――会話もそこそこに昼食を済ませ、今日もセリエとネロを置いて家を出る。
目指すはリーヴァント家だ。
手土産のオロ雉も忘れていない。
道中、怪しかった曇り空からぱらぱらと小雨が降り出したので、急ぎ足で向かう。
――ロロベルが帰ってきたら、身の振り方を考えないとな。
「住みますか? ここに」
リーヴァント家の老執事ダスカのお言葉は非常にありがたいが、丁重にお断りする。
定期的に通うのも関係者っぽいが、まあぎりぎりで「定期的に雉を届ける狩人」という、あくまでも仕事上の付き合いという言い訳ができる。
でも、泊まったり住んだりするのはまずい。
それでは完全なる関係者である。完全に「暗殺者関係のお付き合いがある」と、わかる者にはわかってしまう。
……まあ、今日もしっかり遊ばれて汗だくでボロボロにされた俺では、説得力がないかもしれないが。貴族の屋敷に来てボロボロにされる理由なんてないから。
本職の実力と俺の実力では、ここまで差があるのだ。
「同じ関係者」なんて括るには、さすがにおこがましいかな。
それにしても、やっぱりこの年齢層の暗殺者は強い。七つの秘術も習得しているし、また全ての熟練度も高い。
俺もなんとか七つとも秘術は修めたが……練度ではまだまだ足元にも及ばない。
「あと半年もやれば、私たちも勝てるかどうか怪しいですな。ねえアミさん?」
「そうですね。私たちには肝心の若さがないですから」
…………
汗一つ掻いていない老紳士ダスカと老婆の使用人アミが、肉体的にも精神的にもボロボロになっている俺に、何やら説得力のないことを言っているが。
半年?
それどこから出た期間?
半年くらいじゃまったく追いつける気がしないですけどね。
振り返れば、王都ナスティアラに戻ってからの約一年は、幸せだったと思う。
毎日狩りと道具作りと時々しっかり訓練に勤しみ、たまに俺の許容範囲内でちょっとした何かが起こる。
それは冒険者ギルドの手伝いだったり、特定の獲物が欲しいという指名依頼だったり。
知り合いと飲みに行くのもそれに含まれるだろうか。
――思えば。
思えば、俺はどこかで考えていたのかもしれない。
ただひたすら、目的も定まらないのに訓練に邁進しているのは、いずれ来る「大きな何か」に備えてのことだったのではないか、と。
突発的な有事の際の保険とか、そういうことじゃない。
強い魔物が現れたとか、賊に故郷の村を狙われたとか、そういうことじゃない。
言うなれば、そう――
暗殺者として、この腕が必要になる時が来る――そう思っていたのかもしれない。
どんなに暗殺者としての生き方を否定しようとしても、しかし心の奥底では、身に付けたそれらの技術が必要になる時が来る……
そんな予感をどうしても拭えなかったのだと思う。
だから、その話を聞いた時も、あまり驚くようなことは…………
いや、まあ、驚きはしたかな。普通に。




