430.メガネ君、平和を噛み締める
一応魔物なので、王都では大っぴらには出さない方がいい。
そうじゃなくても、今や俺の切り札でもあるので、あまり存在を知られたくない。
なので、王都で猫が自由にできるのは、家の中だけである。
「あ、ネロ。こんにちは」
呼び出すなりセリエの傍へ小走りで行ってしまったネロを横目に、一度部屋に戻って狩りに持っていった荷物を置く。
そうして戻れば、ネロはセリエに貰ったエサを食べていた。固い筋近辺の肉と軟骨、あとネロが嫌いじゃない野菜を煮たものだ。
普通の猫はネギがダメらしいので、一応ナスティアラ特産の大葱は避けている。
魔物だからたぶん大丈夫だとは思うが、念のためだ。
愛猫にはいつまでも元気でいてほしいから。
「私たちも食べましょうか」
「うん」
今日もセリエが用意してくれた昼食で腹を満たし、午後からのことを考える。
先に食べ終わったネロが、俺の部屋に向かった。たぶんベッドで寝るのだろう。
「エイル君、今日の予定は?」
二人でネロを見送ったところで、対面に座るセリエが聞いてきた。
「夜までジョセフの店で内職。夜は……昨日アインリーセさんが帰ってきてるはずだから、たぶん飲みに誘われるんじゃないかな」
「またですか? エイル君、お酒強くないでしょ?」
「それはセリエもだよね」
「エイル君ほどじゃないですー」
「俺も随分慣れたけど」
ここ一年間のことだ。
何かと飲む機会があった。
本当にたくさんの機会があった。
その中には仕事の範疇や、親睦を深めたい相手もいた。
長い人生、このまま全然飲めないのではまずいと危惧し、なんとしても慣れるために一日一杯を習慣づけてみた。
幸い酒には弱いが嫌いじゃなかったので、無理のない努力だった。
その結果、少しだけ飲めるようになったのだ。
やはり酒には弱いが、元々嫌いじゃなかっただけに、少しだけでも飲めるのはちょっと嬉しい。
飲みの席にも出られるし、幸か不幸か酒を介して人と接する機会がすごく増えた。
ただ、飲み過ぎたら記憶と服がなくなるのは相変わらずだが。
でもそれにしたってネロがいたら、色々な危険から守ってくれたり……まあその辺のことは思い出すのも嫌なので思い出さないが。
簡単なスープとパンという昼食を終え、俺は席を立つ。
「――じゃあ行ってきます」
セリエを残して、俺は再び外へ出るのだった。
「あらメガネ君、いらっしゃい☆」
六番街の狩猟道具専門店、ジョセフの店。
王都で暮らすようになってから、化粧の濃いおっさんことジョセフにはずっと世話になっている。
俺はここで、木を削って矢を作ったり矢尻を磨いたり皮をなめしたりと、道具作りの内職をしている。
儲けはそんなにないが、目立たず確実に生活費を得ることができるので、そんなに悪いものではない。
これくらい地味で目立たず、小さなことをコツコツ積み上げるような仕事が、俺にはよく似合っていると思う。
「ワタシとしてはちょくちょく会えて嬉しいけど、若いコの生活じゃないのよねぇ……裏の仕事もしてみたらいいのに」
早速内職の準備を始める俺に、ジョセフは何度も聞いたそんなセリフを投げてくる。
「それ、ダスカさんとアミさんにもよく言われるけど」
「でしょー? 宝の持ち腐れもいいとこよー? 落ち着く年齢じゃないでしょー。十代ならもっとガツガツいかないとー」
ガツガツ。そう言われてもなぁ。
「裏の仕事は、少ない仕事を大勢で取り合ってるような状態だし、俺が入る余地なんてないよ。そもそも仲間内で揉めるくらいなら最初から諦めるよ」
王都に戻ってから聞いたことだが、このジョセフも暗殺者関係の一員らしい。まあ、今はだいぶ遠い関係らしいが……
……それを知ってもあんまり意外な気がしなかったのは、狩猟ギルドと繋がりがあることを知っていたからだろうな。
「ああ、やっぱりそんな感じなのね。もう廃れるしかないのかしらね……そういえばダスカさんとアミさんにはしばらく会ってないわね。あの二人、お元気?」
「元気だよ。現役だしね」
「あらすごい。もう七十近いはずだけど」
うん。
正直あの人たちはもう人間じゃないと思う。怪物の類だと思う。
ダスカとアミ。
リーヴァント家の老執事と、使用人の老婆である。
時々技術上達と維持のために、訓練に付き合ってもらっているのだ。
旧世代……ワイズ世代は、すべての秘術を習得している凄腕の暗殺者ばかりだ。
たとえ肉体の衰えはあろうと、年月とともに積み重ねた熟練の技術は、今や恐ろしいほど研ぎ澄まされている。
一応、秘術の訓練は暗殺者育成学校在学中しか学べないことになっているので、もう教えてはもらえないが。
しかし見て盗む分には問題ないらしいので、できるだけ盗んでいる最中である。
あの学校の期間も、そして今も。
かなり得難い経験をさせてもらっていると思う。卒業してからは特に強くそう思う。
「俺より自分はどうなの?」
「恋ならしてるわよ? ほら、目の前にカワイイ男のコが……」
「そういう冗談はいいから」
「あらそう。ごめんね、ワタシはもう少し渋い男が好きだから、メガネ君が相手だとどうしても遊びって形になっちゃうわよねぇ。でもそれじゃカワイソウだものねぇ」
なんで俺がフラれてる感じなのか。
しかも遊びで弄ばれる体なのか。
……いや別にいいけど。
「裏の仕事ねぇ……元々ワタシの場合、道具作りの腕で買われた部分が大きいから。それこそ今や裏も表もない、というか一緒って感じよ」
あ、そうなんだ。
じゃあ今もある意味裏の仕事をしているようなものか。
お互い道具を作りながらの暗殺者業界の未来を憂う話は、なかなか尽きることがなく、だらだら続けられた。
そしてその終わりは、今日初めての来客によってもたらされた。
「――こんちはー。長弓用の矢くださーい。それと弟くんいるー? あ、いたいた。今夜飲みに行こうよ」
やってきたのは、「黒鳥」のアインリーセである。
そしてやってくるなり、彼女は来店と注文と飲みの誘いという三つの用件を流れるようにこなした。
のんびりした雰囲気に似合わぬ早業である。
彼女を含めた「黒鳥」の数名は、予定通り昨日の夜、出先から帰ってきたそうだ。お疲れ様である。
「姉がいるなら行きませんよ」
姉弟揃って一緒に飲みに行くとか、なんか嫌だし。姉の弟だと思われたくないし。あれの身内だと知られたくないし。
「まあまあ、いいじゃんいいじゃん。ちょっとお高いお店でオゴっちゃうからさ。行こう行こう。ホルンは適当に肉食わせとけば静かだしさ」
……おごり、か……
決して収入が多いわけではない俺としては、その言葉にはなかなか抗えないものがある。
これは行くしかないか。
……あと身内として姉を完全放置して任せるのも悪い気がするし。
夜を徹して飲む連中にはさすがに付き合えないので、俺だけ一足先に抜けさせてもらった。
街の明かりがまばらになってきた頃、ほろ酔いで家に戻る。
先にベッドで寝ているネロを押して空き場所を作り、そこに横になって抱き締める。
夏の間は暑がって、あまり触られたくなかったようだったが。
最近はすっかり夏の気配も去り、夜は少しだけ冷える。だから嫌がることはない。それどころか向こうからくっついてくる。これはたまらない。
つまり、これからしばらくは幸せの季節というわけだ。
柔かい毛皮と体温を感じて安心しつつ、途切れがちだった意識を手放して就寝。
今日もまた、平和な一日が過ぎていく。