410.メガネ君、レース出場を決める
「トト、リッセは今何をした?」
「わからん」
即座に降参した黒鱗を撫でるリッセは、ネタを知らない竜人族にはかなり奇異に見えたようだ。
――恐らくは「痛覚」だろう。
リッセの初撃を避けようともしなかった四足紅竜からして、たぶん木の棒で殴られる程度は何も感じないのだと思う。
何せ竜鱗だ。
その硬さと丈夫さ、そしてそれらに反する柔軟さは、刃だって通さない。
簡単に言うと、衝撃が通っただけだ。
リッセの「闇狩りの力」が、普通なら硬質な鱗が守ってくれる衝撃を素通りしたのだ。
で、不意かつ予想外で意味不明な痛みで、四足紅竜は驚いて思わず降参してしまったと。
あの感じだと痛覚に慣れていないし、殺し合いでもなければ本気にもなれないのだろう。
――さすがにドラゴンだけあって、頭がいい。
意味不明の痛覚を受けるし、殺し合いでもない儀式だ。
よっぽどひどい戦士じゃなければ、痛みを推して続ける理由はない。ただ無駄に痛い想いをするだけだ。
リッセは強い。
あのあとも続けたところで、結果何発も殴られただけだろう。
早い内に降参して正解だと思う。
……まあ、あの早すぎるひっくり返り方からして、やっぱり反射的に思わずって感じに見えたけど。
…………
あれ?
まだ竜人族の人たちが唖然としている中。
リッセは黒鱗を立たせて。
乗って。
……え、乗るの?
「――行くぞ! 速度の彼方へ!!」
えっ。
気合いの入った声で高らかに吠えると、四足紅竜はいきなりトップスピードで走り出した。
……って待て!
周りには人がいるのに! なぎ倒して行く気か!?
「――ハァ!!」
ガァアッ!
囲んでいるだけに抜け道はない。
だが、上は空いている。
リッセが駆る四足紅竜は、リッセの声に合わせてジャンプし、囲いを越え、そのまま猛スピードでどこぞへと走り去っていった。
…………
いや、一応儀式は終わったんだろうけどさ。
四足紅竜が乗せてくれたのならさ。
でも、乗り回すの早すぎだろ。
飛んだし。「はぁ!」とか言って飛んだし。
…………
どうするんだよ、この空気。
何をどうしていいのかわからないってこの空気どうするんだよ。
置いて行かれた者だけでなんとかしろっていうのか。
……あれがスピード狂か。恐ろしい……
やりっぱなしで風になってしまったリッセと、何もかも置いてけぼりにされてしまった俺たち。
まあ、百歩譲って俺たちはいいだろう。
俺とサジータは、もっというと調査隊には、迷惑を掛けるのはまだいい。
でも、さすがに竜人族をないがしろにするのはダメだろう。
すごいぞ。
リッセの姿が消えても、誰も動かないし、誰も何も言わないんだぞ。すごい空気だ。ただただ気まずい、どうしていいかわからないという空気が重く立ち込めているだけだ。これだけの人とドラゴンがただただ立ち尽くすっていう状況だぞ。なんだこの状況は。
そして、今気づいた。
気付かなくてもいいのに。
この雰囲気でさえサジータが笑みを絶やさないのを確認した瞬間、大変なことに気づいてしまった。
――リッセを野放しにしていいわけがない、と。
――今のリッセを放置し、あまつさえ竜人族のレースに出させるわけにはいかない、と。
正直ちょっと、普段のリッセと違いすぎて目を離すことができない。
安心してほったらかしにできない。
あまりにも心配すぎる。
あいつがやらかしたら、今後の調査に影響が出てしまうのに。
料理しか興味のないベルジュより心配というか、今やうっかりおしゃべりなサッシュよりも心配な存在になってしまった。
サジータはレースに出ないと言っていた。
あの笑みからして、その意志は変わらないようだ――恐らく残り少ない調査期間がダメになるより、その後の長期的な自分の調査の方が重要と判断したのだろう。
――まさに「問題ないな。リッセがやらかしたらあいつだけ切り捨てて里から追い出せばいいし。なんなら調査隊全部帰してもいいし」とでも思っていそうな顔である。
俺がサジータの立場ならそうする。
というかレース直前でどうにかリッセを拘束して、出場させない方向でまとめる。
リッセは目的を忘れすぎた。
当然の処置である。
…………
……って割り切れたら楽なんだけどな。
「――すみません。俺も儀式いいですか?」
この重い空気をやぶったのは、まさかの俺だった。
そう、まさかだった。
この状況で俺が発言することになるなんて、俺自身も意外だった。
リッセの尻拭いも嫌だが。
それより何より、狂っていながらも明らかにレースを渇望している彼女の楽しみを奪うのが憚られた。
友達としてかわいそうだと思ってしまった。
あそこまで脇目も振らず望むなら、出してやりたい。
狂うほどレースに出たいというなら、出してやりたい。
もし心配で心配で仕方ないなら、俺が彼女がやらかさないように見張り、フォローし、支えればいい。
そのために、俺もレースに出ようと思う。
リッセの傍にいられるように。
やらかしそうになったら止められるように。
それに、四足紅竜に乗れるようになってすぐだから、今だけ気が昂っているのかもしれない。
案外明日になれば多少なりとも落ち着いてくるかもしれない。
俺への負担は、意外とないかもしれない。
まあ……まあ、もしもの時はあいつを拘束するが。頭に麻袋を被せて縛り上げてやろう。
リッセとともに速度の彼方へ行ってしまった四足紅竜の後に、俺一人が戦士たちの輪の中に立っていた。
「――よし!! 次だ!!」
気を取り直した戦士長ジジュラが、必要以上の大声を上げた。
リッセが残していった重い空気を払拭したかったのだろう。
さっきと同じように、若い四足紅竜が俺の前に並べられる。
…………
ああ、なるほど。
リッセが最初から黒鱗だと決めた理由が、ここでわかった。
――四足紅竜たちの意識や意思のようなものが感じられるのは、気のせいではないだろう。
かなり朧気で、はっきりしない、ともすれば気のせいだと思いそうだが――並んだ五頭全部から何かしら伝わってくるのだから、これは絶対に気のせいではない。
言葉にするのは難しいが――そう、なんというか、彼らは言っている。
自分がどういうタイプで、どういうことが得意なのか。
足が速いだの、当たりが強いだの、安定感があるだの――弱そうだからおまえは乗せたくない、だの。
リッセは迷わず「自分は一番速い」と自己主張している黒鱗を選んだのだろう。
選ぶ必要はなかった、と言った方が正解かもしれないが。
「君がいい」
そして俺は、左から二番目の四足紅竜を選んだ。
大きくも小さくもなく、見た感じ本当に特徴のない四足紅竜だ。全てにおいて標準的な能力を持っているのではなかろうか。
――俺が選んだ決め手は、一番多くの情報を伝えてきたことだが。
あれは恐らく四足紅竜の中では頭が良い個体だろう、と思ったからだ。
だからこそ、俺も仕掛けられる。
「戦士長、提案があります」
残りの四頭が輪から外れていく中、俺はジジュラに言った。
「俺の儀式の方法は、戦うこと以外でお願いします」
――ここまで囲まれ見られている中で「素養」を使うことはできないので、直接ぶつかるようなことはできない。
だからこそ、頭のいい四足紅竜を選んだ。
元々四足紅竜たちは頭がいいので、どれを選んでも俺が提示する勝負方法は理解してくれるとは思うが――少なくとも好戦的じゃない方が乗ってきやすいだろう。
「はあ? 何すんだ?」
堂々と戦うつもりではないと、正しく解釈したジジュラは呆れているようだ。
いや仕方ないだろ。俺は戦士じゃないんだから。
肉弾戦なんてできるわけがない。この状態では「素養」も使えないし。
「俺は弓が得意なので、的当てでお願いします。的は……言わなくてもわかりますよね?」
「弓ぃ? 弓で四足紅竜を狙うのか?」
更に呆れたような顔になるジジュラと、理解が追いついてきたほかの戦士たちもざわつく。
そんなジジュラに、俺は構わず言葉を重ねる。
「――当たらないんでしょ? 普通は」
だから呆れているのだ。
俺だってわかるよ。やる前からわかってる。
四足紅竜の動きは非常に速い。
そして四足ゆえにかなり安定している。
きっとどんなに先読みして狙っても、予想外の動きで回避するだろう――さっきリッセが「はぁ!」って言って飛び跳ねた運動能力も見ているし。
そして何より、竜鱗に覆われた四足紅竜には、どこを狙っても弓なんて刺さらないだろう。
里の周辺の森にはドラゴンばかりが生息している。
きっとどれもこれも普通に硬い。
だから戦士たちの中に弓使いは……いないことはないかもしれないけど、多くないのだ。
「君はどう思う?」
今度はジジュラではなく、四足紅竜に目を向ける。
「俺の弓、かわせる? 当たったら俺の勝ちでいい?」
グルルルルル
あ、いいみたいだ。
濁った唸り声とともに伝わってきた意志を言葉にすると「それ面白そうじゃん! 俺が勝ったらおまえ丸かじりな!」的な感じだろうか。丸かじりは勘弁してくれ。
ジジュラを始めとした戦士たちは戸惑っているだけだが、当人……俺とドラゴンで話が付いたので、そういう方向でいくことになった。
――後に聞くが、四足紅竜に認めさせる方法は、常に戦いだけだったらしい。
――俺が提示したやり方は、彼らにはかなり異質だったそうだ。
テントから弓を取ってきた。
毎晩少しは触っているが、引くのは久しぶりだ。
形式的に輪になるのは無理なので、戦士たちには射手たる俺の左右と後ろに控えてもらった。
そして向こう側。
かなり離れた場所に、俺が選んだ四足紅竜がスタンバイしている。
四足紅竜は俺目掛けて走ってくる。
それを狙って矢を射るのだ。
矢を一本でも当てたら俺の勝ちで、四足紅竜が俺に接触したら向こうの勝ちだ。……本当に丸かじりしないだろうな? 頼むぞ。
「――がんばれよ!」
あ、ベルジュだ。あとセリエとカロフェロンもいる。――というか、人垣になる輪ではないので、里の人たちも何事かと集まってきている。
がんばれよ、か。
――応援してくれるのは嬉しいけど、この勝負が成立した時点で、もう決着は着いてるんだけどな。
「いいか――始め!」
ジジュラの合図とともに、遠く真正面にいた四足紅竜が猛然と走り出した。
――そして一本目の矢が右足に当たった。