358.メガネ君、頭をぶつける
なぜだ。
なぜこんな簡単なことに気付かなかった。
――原因があるとすれば、秘術の訓練に入れ込み過ぎたから、だろう。
一つのことに集中しすぎて、ほかが疎かになっていた。
一目見て「欲しい」と強く思ったことが、こんなにも裏目に出ることがあるのかと、膝から崩れ落ちそうなくらい愕然と、そして呆然とする。
答えに至るための材料は――
「どうかね? 参考になったかね?」
壁に立っているワイズが、最初から提示していたのに。
六日目の昼過ぎ。
徹夜の訓練で疲れ果てた俺は昼まで休み、昼食を取り、それから「もう戻っている」というワイズの部屋を訪ねた。
「――ふむ。その顔は、まだのようだ」
書類仕事をしていたワイズは、俺の顔を見るなり、俺の訓練状況を的確に見抜いて見せた。
実際その通りなのだから、それはいい。
「このままじゃ時間の無駄だと思って」
五日も費やして、何も得られていないのだ。
強いて言えば「このままじゃダメだ」って答えが得られたくらいである。
だから、方針を変更することを決めた。
本当は自分で気づいた方が身につくのかもしれないが……でも無駄な訓練に時間を費やせる余裕は、今の俺にはないから。
「もう一度見せてもらえませんか? 今度はちゃんと視ますから」
ワイズは「魔力を放出する」と言っていた。
特性もなく、特徴もなく、色も匂いもなければ、触れることもできない魔力。
その魔力に、特性を与え、特徴を与え、色や匂いを付けるような変質をして放出する、と。
――ならば「視える」はずだ。
――「俺のメガネ」は魔力を視る、「魔力視」があるから。
果たしてワイズがどの程度の魔力を放出し、どのくらいの特性や特徴を与えているのか。
その比率は自分で割り出すべきなのかもしれないが……
とにかく時間が惜しいのだ。
訓練はこれだけじゃない、まだ残り四つも残っている。
これをクリアしても、半分も行かないのだ。
だから方針を変更した。
もう答えを探すことは諦めた。
答えは、「視る」ことにする。
「いいだろう。何度でも、君が望むだけ見せようではないか」
そして俺は、答えを「視る」ことになる。
――膝から崩れそうになった。
――「そうだった」。
その言葉が何度も頭の中を駆け巡る。
そうだった。
忘れていた……いや、考えもしなかった。
ワイズはすでに答えを言っていたじゃないか。
なぜ俺は考えもしなかったんだ。
こんな簡単なことを。
なぜ。
俺は魔力を放出しながら、横向きに立っているワイズの前の壁に、足を付ける。
そして――壁に立った。
「……あっ」
ゴッ!
壁に立つという感覚に、あまりにも馴染みがなさすぎた。
気を抜いたわけでもないのに体勢を維持できず、思いっきり落ちて床に頭突きを入れてしまった。いって……! いや痛みなんて今はどうでもいい!
「今立てたよね!?」
「ああ。あとは練度を上げるだけだね。おめでとう」
やった……やった!
…………
いや……あんまり「やった」って気はしないな。
むしろ自己嫌悪だ。
なぜ何日も、こんな簡単なことに気付けなかったのか。
それも答えはすでに貰っていたのに。
頭が痛い。
ぶつけた痛みもあるが、それ以上に、自分のマヌケっぷりが痛すぎる。
「ありがとうございました。帰ります……」
「…? そうかね?」
一瞬喜んだものの、すぐに意気消沈して肩を落とす俺に、ワイズは不思議そうな顔をしていた。
――重力を軽減する。
ワイズが言っていたあの言葉が答えだった。
そう考えると、全てがすんなり説明が付くし、自ずとやり方もわかる。
足だけではダメだったのだ。
全身から魔力を放出し、魔力で――「重力を振り切る」という特性と特徴に変質させた魔力で、身体を覆わなければならなかった。
覆わなければ重力の影響を受けるから。
それが答えだった。
ワイズを「魔力視」で視た結果、薄い魔力が彼の全身を包んでいた。視ただけでは特性や特徴まではわからなかったが、問題はその魔力の動きである。
全身を包む。
足だけ魔力を放出していた俺が、壁に立てないはずである。
――そして、この答えを得たことで、もう一つわかったことがある。
「もしかして難易度が三倍か……?」
壁を歩くには、「魔力に粘着性を持たせる」、「重力を振り切る」、「一定の魔力の放出を維持する」という、三つの要素が必要である。
たぶん、歩行術だの走行術だの一つ一つ習得していけば、一度に複数の要素を持つ「魔力の変質」を求められることもなかったと思う。
たとえば、消音歩行の歩行術なら――足だけの放出でできると思う。
放出魔力が見えない層となって、靴と地面を接地させないとか、そういう理屈だろう。これは「砂上歩行」と同じ理屈だ。
どこでも走れるという走行術は、そもそも「壁を歩く」でも「天井に立ち止まる」というものでもない。
走ることはできるだろうが、ワイズのやったものはあくまでも三つ合わせたものだ。
本来の走行術は、恐らく「魔力に粘着性を持たせる」のと「重力を振り切る」の比率でできる。走る場所によってはある程度調整も必要なのかな。
短距離を高速移動するのは、「重力を振り切る」ことで可能となる。
――とまあ、大雑把に理屈立てて考えてみた。
細かい部分は違うかもしれないが、大まかにはこれで合っていると思う。
その証拠に、ワイズに比べればだいぶ劣化しているが、試してみた歩行術、走行術、疾行術はできた。
あとは彼の言う通り、練度次第である。
……本当に、なんでこんな簡単なことに……
そして、この三つを併せることで壁を歩き、天井に――
ゴッ
「いってぇ……!」
そこそこの高さから落ちた。
……完成するまでに、いくつ頭にたんこぶができることやら。




