355.メガネ君、秘術の訓練を開始する
もう寝ようと思っていたので軽装だったが、改めて服を着てワイズの後についていく。
場所は、泊まっている宿の一室だが――なんの部屋だろう?
貸し部屋なのかどうかさえわからない、何もない少し大きな部屋である。
調度品も豪華な高級宿だけに、何もないここだけ異質な雰囲気がある。
ドアに施錠し、ワイズが向き直る。
「――さて。ここは多目的室……用途に合わせて使える部屋だ。私が借りたので誰も来ないから、安心して訓練に励みなさい」
ああ、なるほど。
目的に合わせて使える空き部屋か。急な寝室になったり、急な会議室になったりもするわけか。
そしてこれから少しの間は、俺が訓練するための目的に使用されるわけだ。
「それで、君は秘術についてどれだけ知っているのかね?」
「えっと……」
俺は、前にエヴァネスク教官に教わったことを思い出しつつ述べてみた。
秘術は七つ。
歩行術、走行術、疾行術、隠行術、探行術、遠行術、禁行術。
歩行術は、消音歩行。
走行術は、場所を選ばず走る技。
疾行術は、短距離のみの高速移動技。
隠行術は、気配を消し隠れる技。
探行術は、物の気配を探る技。
遠行術は、遠くの気配を探る技。
そして禁行術は……人それぞれの切り札、と言っていたかな。
昔は七つすべてを習得することで一人前の暗殺者とされていたが、どれも習得するには命懸けになるほど危険であった。
で、今は一つ二つ習得すればいいと、かなりハードルが下がっているんだよな。
「うむ、その通りだ」
と、ワイズはゆっくりと横へ歩き出す。
「――まず言えることは、歩行術と走行術と疾行術は、同時に習得できる」
……えっ。
…………えっ!?
ワイズは壁まで歩くと、そのまま歩き続けた。
「これは走行術の応用だね。
――予想外だったかね? 場所を選ばず走ることができる……別に誇張でもたとえでもない。
本当に場所を選ばないのだよ」
壁を歩き。
天井を歩き。
上から見上げるようにして、ワイズは俺を見ている。
なんか……頭がおかしくなりそうな光景である。
ワイズは逆さまとなり、天井に立っている。
こうしていると、まるで俺の方がおかしいかのような錯覚さえ覚える。果たして俺が立っているのは床だろうか、と。
「見ての通り、秘術に関してはもはや『技』だの『技術』だのという次元を超えている。
ただ単純に動きを真似る、模倣する、とにかく努力する……そんな鍛錬方法では習得はできないものだ」
…………
「でしょうね……」
壁をすたすた歩くのも、天井に立っているのも、身体の扱い方……技や技術でどうにかできるようなものではないだろう。
しかもこれは――
「重力の影響を受けていない、んですか……?」
「ある程度は軽減している。より近い表現で言うと、少しだけ重力を振り切って足が張り付くようになる、というのが近い」
足が、張り付く……?
「この状態なら足音などせんし、重力の影響を軽減するから自然と足も速くなる」
…っ!
ワイズが天井から消えた――と思ったら、俺の背後の上にいた。
「今の、疾行術?」
「うむ。天井を移動した」
と、ワイズが天井から飛び降りた。空中で反転して音もなく降り立つ。
「今のは歩行、走行、疾行の三つを同時に行った」
三つ同時。
足音を消した状態で、天井を、疾行術で移動した……か。
「秘術は同時に使うこともできるのが強みでもある。――まあどれだけの練度で習得しているかにも寄るがね」
ワイズは俺の脇を歩き、最初に向き直った位置に戻った。
「禁行術は別として、隠行術、探行術、遠行術は少しやり方が違うが――しかし理屈は今のと同じだったりする」
同じ。
さっきの「足が張り付く」という方法と同じ、ということか。
「というわけで、エイル君。壁を歩いてくれたまえ。それで秘術の三つは拾得完了だ」
…………
「えっと……どうやって?」
その方法を教えるんだろ。歩いてくれ、じゃなくて。
「ん? ……うむ……」
彼は小さく唸ると、虚空を見上げてしきりに顎を撫でる。
「……こう、足にぐっと力を入れると、ぐわっとなるだろう? そしてしゅんっともなるし、その状態ですすっと歩けば……自然とできるだろう?」
あ、ダメだこの人。
教えるのが致命的に下手な感覚タイプの暗殺者だ。
非難の目で見ていると、「まあ待て待て。思い出すから」とワイズは腕を組む。
彼の秘術はすごかった。
正直、一目見た時から胸が高鳴り、絶対に欲しい技だと思ってしまった。
もしかしたら一目惚れと言ってもいいかもしれない。
それくらい、彼の秘術には魅せられた。
――しかしだ。
「…………」
若かりし頃に習得したのであろうワイズは、なんというか、もう理屈ではなく身体に刻まれた常識と化しているようだ。
そう、彼にとっては使えるのがあたりまえなのだ。
習得したのはもう五十年くらい前のことだろうし、これまで誰かに教える立場になかったし。
ワイズはきっと長らく、自然に使えている秘術に関して、理屈を思い出すことがなかったのだろう。
優秀な人が過程をすっ飛ばして結果だけ導き出し、その過程がよくわからないという、おかしな状態らしい。
俺はぜひとも欲しい。
けど、この状態はさすがにないだろう。
これじゃ絶品の肉料理をチラ見せされて、辛抱させられているようなものだ。
「――ちょっと外していいですか? すぐ戻りますから」
「ううむ……ん? ああ、わかった。待っているよ」
よし、行こう。
――もう秘術の訓練を始めて入り口に立っているリッセに、理屈だけ聞いてこよう。
 




