327.代官屋敷侵入作戦 その後
「――おやおや。これで全部捨てて行きなんしたかえ」
これで靴まではずれたわけだ。
少しだけ雪に埋もれている焼けた靴を囲み、軍人たちが険しい顔をしているのがなんだかおかしい。
難しく顔をしかめたからって、そこにはただ靴があるだけである。
気持ちはわかるが。
ここまでやるか、と言いたくなるほどのこの用心深さには舌を巻く。
時刻は明け方。
朝の遅い冬場ではあるが、ようやく空が明るくなってきた。
今日も静かな朝だ。
ただ、血眼になった軍人たちだけが、殺気走った顔でうろつき、走り回っているだけで。時折「影」も見えるが、彼らのことは見ないふりをしておく。
代官屋敷襲撃事件。
大帝国領ネルイッツの代官・軽部永徳の屋敷に賊が忍び込み、あわや代官の娘・綾を手に掛けようとした。
――というのが、昨晩……というか、先程の夜の話である。
賊の侵入を許したことも、賊の逃走を許したことも、大帝国軍人にとっては汚点以外の何物でもない。
怒り心頭になるのも当然で、夜を徹した捜索が続けられている。
そんな中、やや場違いな服装の女も出張っていた。
薄手の派手な着流しに、雪月下の刺繍が入った羽織を肩に下げ、化粧の濃い顔は高値の花魁のようだ。
彼女は、綾と守護召喚獣の契約を結んでいる魔物――かの地では妖怪と呼ばれる存在。
名を八刀蜘蛛という。
刀のように鋭い八本脚を持つ、巨大な蜘蛛である。
普段は種族で呼んでいるかのように「ヤト」と発するが、真の名は綾と己しか知らない。綾が契約を破るまでお互い口に出すことは禁じられているのだ。
まあ、それはさておき。
「――これであの娘は、下着姿でどこかへ消えたことになりますえ」
街の四方八方の往来に堂々と捨ててあった衣服や靴、道具類は、これですべてだろう。軽装だったのは誰もが見ている。
ズボン。
臭い消しや獣避けなどの粉が入った臭気袋。
新品同然のナイフ。
そして、靴が見つかった。
ナイフや道具類はともかく、ご丁寧に衣装や靴は燃やしてある。雪のせいでかなりの原型が残ってはいるが。
いや、こうなると、むしろ捜査をかく乱するために「見つかるところに残るように捨てた」と考えるべきだろう。
さすがに下着までは捨てていないようだが、これで昨夜の賊が身に付けていた物は、すべて発見された。
「――ほんによくやりますえ」
この寒いのに。
下着姿になろうだなんて。
想像するだけで寒気がする。
ヤトは蜘蛛の性質を強く持っているため、冬場はどうしても動きが鈍る。
この時期の彼女は遠い東洋の地にいるのだが、昨夜だけは緊急事態として「召喚」されたのだ。
話を聞けば驚きの内容である。
代官屋敷に、たった一人の賊が忍び込むという話なのだから。
警備の厚い、ヤトでさえ数人相手になれば命が危うい軍人たちや「影」たちを相手に屋敷に忍び込み、わざわざ綾の寝顔を見に来るという。
綾の父親と母親、それに主立った者には事前に侵入の情報が話された。ヤトもその一人である。
今回のことは、上神村……「影」を束ねる頭が、最近気が抜けている軍人や「影」に抜き打ちの試験として用意したという。
ちなみに詳細を明かされることは、今のところない。
捜査からの犯人特定も、軍人や「影」の仕事であるから。
昨夜、ヤトは綾に危害を加えられないかぎりは、危害を加えるつもりはなかった。
外に張った蜘蛛の巣が破られたことで賊が侵入したことを知り、小さな蜘蛛となり潜んで、賊が去る時に声を掛ける予定だった。
まあ、正確には声を掛けて足止めし、綾を起こす。
そして綾が伝言を告げる、という流れだ。
賊が綾の顔に手を伸ばしたので、乱入はしたし危害も加えたが。
――嫁入り前の娘に夜這いなど、女性でさえ許されるわけがない。
ヤトは平静を装ってはいるが、軍人たちに負けないくらいには、そこそこ頭に来ている。
もし賊が男だったら、もしかしたら結婚が破談になっていたかもしれない。
嫁入り前の娘の部屋に夜這いを掛けた賊が、まさか綾を傷物にしたなどと噂が立ったら、本当に結婚が取りやめになりかねない。
そもそもが、すでに大帝国どころか、軽部の名を継ぐ華族たちの名折れもいいところの状態なのだ。
たった一人の賊を囲んでおきながら逃がすだなんて、ありえない大失態だ。
しかもヤトは、守護召喚獣である。
いわば専属の護衛のようなものだ。
手を出そうとしなければ見過ごしたが、あの女は綾に触れようとした。
あれは絶対に許せない。
そして、自分がついていながら取り逃がしたことには、結構プライドが傷ついている。
綾が寝たのを確認してから、寒さで震えながら捜査に出張ってきたのも、彼女の中に消化しきれない憎悪の芽が生まれたからである。
「――……」
にしても、だ。
賊を天井に貼り付けた時、糸の破片は彼女の服に残っていた。
一晩くらいなら、それを追跡できると踏んでいたのだが――
とんだ用心深さである。
まさか糸が付いたものすべてを捨て去って逃げるなんて。
ヤトの糸を警戒したのか、最初からそのつもりだったのか。
どちらかはわからないが、なかなかのプロである。
「おう、八刀さんや――てめぇらは散れ! いつまでも靴見てたって何にも見つかんねぇだろうが!」
平静は装っているが内心穏やかではないヤトに、上神村の頭・久次郎が歩み寄ってくる。軍人を追っ払いながら。
「どうだい? 追えそうかい?」
「わっちには無理でありますえ。そちらは?」
「――俺は知ってるからな」
そうだった。
そもそも代官屋敷に賊が来る計画を持ってきたのは、この爺である。
「どうだい? 俺ぁもう少ししたら、礼がてら挨拶しに行くつもりだ。あんたも来るかい?」
「当人には会えますかえ? わっちからも是非ともお礼が言いたいですえ」
「ほう? 礼をねぇ?」
「ええ、お礼を」
にこやかな爺を見詰めるヤトの目は、微塵の殺気もなく、ただ捕食する獲物を見るかのように無機質だ。
ただ能面のような笑みが張り付いているだけで、なんの感情も読みない。
子供が見たら確実に泣くだろう。
「そうかいそうかい。たぶん会えるがそんな目で見ちゃあいけねぇぜ。腰抜かしちまう」
「どっちが。あの方、きっとわっちより強いですえ」




