322.侵入作戦 直前
準備した物は少ない。
目的は、ほぼほぼ侵入して脱出するだけ、という簡単なものである。
所要時間も、スムーズに事が進めばあっという間に終わるだろう。
とにかく身軽であるために、所持する道具類は極端に削った。
代官屋敷侵入が本決定した三日前から、エイルは着実に策を練り、準備をしてきた。
作戦決行の時は、もうすぐだ。
明かりを落とした粉雪亭の自室にて、テーブルに広げた数少ない道具類を一つずつ確認する。
まず、臭気袋。二種類。
一つは、臭いを追跡する召喚獣を撒くための――エイルが狩りでよく使う物である。
利便性もあり、咄嗟に投げるには殺傷能力はないくせに足止め効果は高いため、これは持っていくことにした。
雪が降ることも予想して、防水性の革袋に入れた。
もう一種類は、ほぼ無臭の、人間用の臭い消しだ。
これも召喚獣……動物の鼻をごまかすためのものである。
人間の技術で気配や音は極限まで殺せるが、臭いだけは如何ともしがたい。
動物の嗅覚は人間とは比べ物にならないと学んだ。
それに、自分ではなかなか自分の臭いがわからないものである。少しでも誤魔化す材料になれば、と選んでみた。
次に、ナイフ。
抜く機会はないとは思うが、必要な時にないと困る。物を切ったり、もしもの時の威嚇くらいには使えるだろう。
ちなみに、クロズハイトでゼットと戦った時にナイフを失くしたことがあるおかげで、自前の物を使うことは避けた。
愛用している黒皇狼の牙のナイフを失くすはめになるとシャレにならないので、どこにでも売っているようなナイフを用意してもらった。
――いや、ナイフだけではない。
臭気袋もそうだが、必要なものはすべて、非正規ルートで手に入れた。教官であるヨルゴに相談したら調達してくれたのだ。
自分で買い足さなかった理由は、足が付かないようにするためだ。
まさか後日、どこそこの店で誰かがこういうものを購入していた、なんて聞き込み情報から追われるはめになったら、マヌケにも程がある。
狩りは準備の段階から始まっている。
調査が始まった時から、エイルはすでに足取りを追われない調査方法を選び、行動してきたつもりだ。
今着ている、深夜の調査用の服として用意してもらった黒い装束も、ヨルゴが調達したものだ。
出所は知らないが、まあ普通に考えて、足が着くような場所からは持ってきていないだろう。
彼らはエイルよりもよっぽど本職なのだ、その辺に抜かりがあるはずがない。
調査用の服は、そのまま潜入にも使える物と見なして、この服で侵入することにした。
調査だ侵入用だと言っても、結局は夜中に動くための服である。おあつらえ向きと言えるだろう。
――ただ、スカートなのが気になるが。
スカートの下に薄手のズボンを穿いてはいるが、冬が厳しい大帝国では、なかなか寒い恰好である。
女性用が欲しいだなんだとその辺の指定をしたつもりはないが、ヨルゴが持ってきたのは完全に女性用の服だった。
しかもカツラまで持ってきた。ついでに化粧品まで。
今回は誰の目にも触れない予定なので、女装する理由はない。
なので拒否しようと思ったが――よくよく考えて、結局女装姿で任に当たることにした。
これはこれで意味がないわけではない、と。
女装しようがしまいが特に何か支障が出るわけでもないので、受け入れることにした。
というわけで、今のエイルはばっちりフルメイクで、すっかり女性の姿である。
メイド服なら「メイドのエル」の再来である。
まあ、顔周りだけは「メイドのエル」だが。
道具類は、この程度である。
戦うつもりはないので弓も必要ない。かなり身軽である。
「……そろそろいいかな」
雪が降る窓の外を見る。
深夜なだけに街灯こそ点いているが、明かりの灯っている建物は、ほぼ存在しない。
夜遊びする時間さえ、もう過ぎている頃合いだ。
耳を澄ませば、雪が積もる音が聞こえて来そうな静寂しかない。
道具類を身に付け、最後にフード付きの黒い外套を羽織る。
「――よし」
エイルは窓を開け、静かに三階の高さから飛び降りた。
音もなく街に降り立った少年はすぐに走り出し、あっという間に闇夜に溶けていった。
そんな少年を見守る目がある。
「いい時間である」
「ああ」
粉雪亭の屋根の上に、二人。
片方は、エイルの教官であるヨルゴ。
もう片方は、この街の日陰で活動する暗殺者の仲間――名をサベージという男が、頭や肩に積もった雪を払いながら口を開く。
ちなみに二人は候補生時代の同期である。
「最後に聞くが、おまえの推測では、成功率はどれほどだ?」
正直、サベージは何度かこの無謀な任務を止めたいと思い、しかし結局口には出さなかった。
ヨルゴが止めないなら、それなりに勝算があるのだろうと判断したからだ。
だが、気にはなる。
ただでさえ暗殺者候補生は少ないのだ。無謀な任務に出して無駄死になんてさせたくない。
「ちゃんと準備していたからな。余裕で五割は超えている」
それこそヨルゴは、自分の読みより、エイル自身ができると判断したことを信じている。
それに、エイルの隠し玉のすべてを知っているわけではないので、正確には測りかねている、というのもある。
「それは仕込みを含めての確率か?」
「無論だ。
我らも同じであろう?
予想だにしないアクシデントが起こりうることも考慮し、作戦を立てる。そしてアクシデントが起こらないとは絶対に考えない。常に念頭に置いておく。
当然仕込みも含めてだ。
あの小僧は『すべて上手く行く』なんて楽観的な考え方はせんぞ。不測の事態にも対応するであろう」
――仮に対処しなくとも、それはそれで己の力を過信していない証明になるので構わない。
どちらにせよ、命を取られるような選択ミスだけはしないと、ヨルゴは見極めている。
「おまえがそこまで言うなら、お手並み拝見だな。――行くぞヨルゴ。おまえは南回りだからな」
「うむ。現地で会おう」
二人も少年の後を追うように、夜の中に消えた。
――暗殺者候補生が代官屋敷に忍び込む。
理由や事情はさておき、その無謀極まりない企みは、すぐに街に散らばる暗殺者仲間たちに伝わった。
ただただ面白がる者。
軽率だと憤慨する者。
成否で自分の仕事に影響が出ないかと眉を顰める者。
とにかく顔が可愛いと言い切る者。
賭けをしようと言い出す者。
いろんな反応があったが、ともあれ多くの者が興味を抱いた。
また、ヨルゴ自身が「任務に当たる候補生は、暗殺者としては非常に優秀。下手な現役よりすでに使える」と、ヨルゴが候補生に言うにはかなりの誉め言葉が出たのも、興味を引く要因となり――
闇夜に潜む者たちが、別ルートを走るヨルゴとサベージに合流していく。
――ネルイッツに潜伏するナスティアラの暗殺者たちの多くが、この侵入作戦の過程と行く末を気にして、見学に参加するのだった。
代官屋敷周辺に、闇に生きる者たちが集束する。
そしてそれを、大帝国側の闇に生きる者たち――「影」たちが見ていた。
「――本当にやるのかい?」
その「影」の一人が表に出てきて、ヨルゴに歩み寄る。――東洋仕立ての着流しに藍染の羽織を背負った初老の男だ。なかなか寒そうな薄着である。
「今更だ。もう中止も何もないだろう」
闇に生きる者と、「影」。
生息する領域が近いだけに自ずと互いを知り、相手が存在しようがしまいが互いの不利益にならないため、暗黙の関係として距離を保っていた。
それが長期化すると、時には互いが互いを利用するような、持ちつ持たれつという関係に昇華された。
国同士の対立がなければ、国の駒である二つの組織がぶつかり合う理由はない。
国同士が隣接しているわけでもないので、侵略戦争があるわけでもなし、また乱世を好むほど血に飢えているわけでもなし、国交自体は薄いが関係は良好である。
少なくとも闇と「影」は。
駒は命じられた通り動くのみ。
国の思惑を考えて動け、とは言われていない。
独断で動かないことも駒の仕事の内なのだ。
「そうかいそうかい」
カッカッカッ、と初老の「影」は笑う。
――今回の一件、事前に「影」には話を通してある。
さすがに「影」が関わると、普通にエイルが殺されてしまう。
特にこの初老の「影」の腕は、ヨルゴたちの頭であるワイズに勝るとも劣らない。
彼が本気になればエイルは瞬殺されてしまう。
それこそ交渉の余地さえなく、あっという間にだ。
……意外とあのメガネの小僧なら、もしかしたら「影」さえ出し抜くかも、という思いもなくはないが、さすがにリスクが大きすぎる。
「そりゃあ楽しみだ。最近何もないもんで、『影』の若ぇのがたるんでやがるんだ。軍人どももどっか抜けてやがるしなぁ。しっかり出し抜いてやってくんな」
――今夜だけはベテラン勢の「影」を屋敷の護衛に付けないでくれ。
それが、ヨルゴが「影」に出した注文だった。
組織を束ねる、この初老の「影」にも思うところがあったようで、割と即答で受け入れたと聞いている。
今の発言からして、なるほど責任者として後進の育成に難儀しているようだ。
――どこもかしこも平和な時代に揉まれ、闇だの「影」だのは時代に求められず衰退という憂き目にあっている、ということだ。
「ところで、うちの若いのは元気かい?」
「――詳しくは後ほど。そろそろ」
「ああ、始まるみたいだな」
元々薄弱だったエイルの気配が消えた。
今から仕掛けるようだ。
そして、闇と「影」も、見学するための場所へと消えた。




