307.メガネ君、高級宿で食事する
まだ雪が降っていた。
「リーヴァント」の名で予約が入っていた粉雪亭の宿で、しっかり寝て起きたところである。
窓を見れば曇り空で、白く小さな欠片がふわふわと落ちている。
時間がわからないな。
頭や身体がすっきりしているので、かなりしっかり休めたと思う。
たぶん朝ではないだろう。昼くらいではなかろうか。
俺が泊まった部屋は、やはり予想通りだった。
そう、高級だった。
これでもかってくらいの高級宿だった。
これで狭いなんて言うのは王族くらいだろう、というくらい広くて、調度品もしっかりしたものばかりという、どの角度から見ても高い部屋だった。
俺のような田舎者には勿体なさすぎる……というか、一晩いくらか聞くのが怖い宿である。
冷静に周りを見る。
昨夜は疲れていたので、風呂を借りてさっさと寝てしまったが……
場違い感がすごい。
俺がいるという異物感が恐ろしくすごい。
板張りの床に敷いてある鮮やかな赤い色の絨毯とか、俺はもう靴では踏めなかった。
いわゆる自主的な土足禁止にしてしまったくらいである。
壁にある目に優しい付きっぱなしの照明とか、すごくいいガラスと魔道具を使っているのがすぐにわかった。
あれくらいの明るさなら夜付いていても気にならない。目にうるさくない。
歴史を感じさせる重厚な雰囲気たっぷりのテーブルや椅子も、凝った意匠の細工がなされていて、ちょっと触るのも怖いくらいだ。
……まあ一番怖いのは、今いるベッドだが。
一人用じゃないだろ、というくらい大きくて。
何が詰まっているんだというくらい、身が沈んで。
そして温かい。
冬の寝室環境なんて底冷えして当たり前のものしか知らなかった俺には、もう、こう、……やっぱり一言怖いとしか言葉が出ない。
昨日は疲れ切っていたから深く考えることなく眠りに着いたが……やっぱりこの部屋はダメだ。
俺の身の丈に合ってないよ。
どれ一つ取っても、ちょっと笑えないくらいの価値がありそうだし。
もう二度と泊まれないだろうからしっかり堪能……無理だな。
堪能する余裕なんてない。ただただ怖い。
田舎育ちの小心者は色々触ることなく、もう出よう。何かしてしまっても弁償なんかできっこないし。
さっと服を着て、一旦部屋から出てみた。まず顔を洗いたい。
「おはよう」
……ドアを開けたらヨルゴ教官が立っていました。
いきなりの登場に驚いたが……まあ教官たちは化け物揃いだ。俺の常識で測れるような人たちじゃない。
「……えっと、お待たせしましたか?」
「気にするな。これも自分の仕事の内である」
あ、監視ね。
いや、それにしてもだよ。
「声を掛けてくれればよかったのに」
「無理をさせたのは自分だ。必要な休息くらいは取らせる」
そうですか。
おかげさまでゆっくり休めましたけど。
「飯に行こう。一階の奥が食堂になっている。朝の支度が済んだら来い。そうだ、ハシを忘れるなよ」
先に行く、とヨルゴ教官は行ってしまった。
早速ハシの出番がありそうだ。
俺も腹が減っているし、早く顔を洗って食堂へ行こう。――おっと、ハシは部屋に置きっぱなしだったな。取ってこよう。
「これが東洋の食事……に、近いものだ」
泊まった部屋に負けないくらい立派な食堂には、なんだかゆったりした時間が流れている、ような気がする。
部屋が広いのでテーブルごとの間隔も大きいし、壁際の照明のおかげか落ち着いた明るさが保たれている。
外より暗く、でも夕方よりは明るい、くらいだろうか。
誰も大声を出さないし、給仕の女性も走ったりしない。……というか、あの格好って東洋の服装だよな? どういう構造の服なんだろう? エプロンが邪魔でよく見えない。
ヨルゴ教官がいるテーブルに着くと、すでに二人分の食事が並んでいた。
選ぶ余地がまったくなかったけど、きっとこれが教官のおすすめってことなんだろう。
「これは粥、じゃないよね? 白い大麦?」
「いや、米だ」
「濁ったスープ」
「味噌のスープだ」
「白いチーズ……?」
「豆腐だ」
「海藻入りのサラダ」
「うむ」
「魔憂鮭の切り身」
「これは大きいな」
「鳥肉と芋、野菜の煮物かな?」
「いい色だな」
「……これはなんでしょう? なんか気持ち悪い感じですが……」
「冥府牡蠣の時雨煮だ。簡単に言えば貝の煮物だな」
ははあ、なるほど。
全然知らないものばかりだ。
「なんか豪華っていうのはわかります」
高級宿だけに、食事も豪華なんだと思う。
料理が少しずつ小鉢に盛られずらっと置いてあるのもそうだし、盛り付け方も器も凝っている。
俺がよくわからない歪みとかある感じの「手作り感で高級感のあるお皿感や小鉢感」とかが溢れている感じのやつだ。
まあ、さすがに色々よくわからない俺でも、安物ではないな、あえて歪んでいるんだろうな、というのはわかる。さすがに。
「食べようか。ハシを使ってみろ」
よし……じゃあ、食べようかな。
知らないものばかりだし、肉がほとんどないのがやや不満ではあるが。
でも、代わりに魚介が多いのは、大いに楽しみである。
――ハシの使い方になかなか慣れないまでも、やや時間を掛けて、なんとか食べきることができた。
味?
あたりまえのように、どれもすごくおいしかった。
まあ、ちょっと、不自由なハシ使いのせいでじっくり味わうことができなかったのが、ちょっと料理人に申し訳ないけど……
「今後の話をしておく」
完全にハシと食べることに俺が集中していたおかげで、まったく話ができなかった。
ヨルゴ教官は話しかけることも、急かすこともしなかったから……本当に無駄に時間が掛かった食事だったと思う。
いや、無駄じゃないか。
おかげさまで、ハシの使い方は慣れたから。
食器を下げてもらったあと、ちょっと渋い味の緑色のお茶を飲みながら、ヨルゴ教官が話し出した。
「といっても、あとはこのまま向こうからの接触を待つだけだ」
向こうから、というと、俺を呼んだワイズ・リーヴァント……もしくは彼の使い待ちか。
「恐らく一週間は余裕があるだろう。そのために急いで来たのもあるしな。その間は自由にしていい。
が、できれば部屋にこもらず観光に行け。見るものは多いぞ」
へえ、意外と時間の余裕があるんだな。
「ちなみに、ここは見ておけって場所は?」
「貴様なら武弓道場だろうな。この街にもいくつかある。特に勧めるのは皆守流だ。あそこの弓は美しい」
美しい、か。
なるほど、ヨルゴ教官が言うなら見ておくべきなんだろう。
「……あれ? ヨルゴ教官は一緒には……?」
今気づいたけど、観光に行けって言ったよね?
つまり、一人で行けってこと?
口調からしてこの街のことにも詳しいみたいだし、なんなら連れてってくれればいいのに。
「自分と一緒に居ても羽を伸ばせんだろう。好きに過ごせ。
飯も一人で自由に食っていい。この食堂の飯なら、あとでまとめてこちらで払うから金のことも気にするな。
自分は大抵この宿に詰めているから、相談があれば会いに来い」
あ、割と完全に別行動なんだ。
「いいんですか? 俺の監視は?」
「――白々しいことを言うな、エイル」
…………
「この街に入ってから、自分とは別の監視が付いたことには気づいているはずだ。気付かないような未熟者なら、そもそも『疑いがある』などと貴様に伝えるものか」
……まあ、確かに、それっぽい気配は感じてますけど。
「――ちなみに何人付いたと思っている?」
「二人ですかね」
「四人だ」
え、ほんとに?
……二人はわかるけど、残り二人は全然わかんない……
やばいな。
狩場で言うなら、狩人が二人も俺に弓を向けているのに気付かない、くらいの危機である。……やっぱり暗殺者すごいね。
「フン。訓練生に二人も悟られるとはな。鍛え直しだな」
いやいや。わかる二人もかすかにだよ? 「そうかなー?」くらいの確信はあまりない感じの看破だからね?
「言っておくが、貴様が間者であると疑惑を持った時点で拘束しなかったのは、貴様の背後関係がまったく見えなかったからだ。
この時点で、『裏は存在しない』か、『我々にも悟らせないほどの凄腕の組織』のどちらになる。
ちなみに個人的な諜報員である可能性は捨てている。何せ貴様の場合は、生まれも身元もしっかりわかっているからな。
前者はともかく、後者であった場合は――貴様は捨て駒だ」
まあ、うん、というかだ。
「俺は裏切ってませんけど、その理屈で言うと、末端である俺が全てを知っているわけがないですもんね。というか、知らせるべきではない」
「うむ。貴様が捕まることも想定して、必要最低限の情報しか握らせない。貴様の情報漏洩や裏切りも考慮して、裏にいる組織に繋がらないようにな。
となると、貴様を捕まえたところで大した情報は得られん。
いや、むしろ捕まえることで、貴様をシッポの如く切り捨てて組織は逃げるだろう」
うん。
大したことを知らない俺が情報を漏らしたところで、痛くも痒くもないしね。
「そこで我々の取れる行動は二つ。
貴様を取り込み二重スパイとするか、貴様を泳がせるか……」
で、泳がせた、と。
俺がどこぞのスパイなら、なんとか裏の組織に「バレてるよ」的なメッセージを送ったり、接触する者を逆に捕まえたりマークしたりと、俺を利用して調査の手を広げようとしていたのだろう。
でも残念ながら、探るような裏なんてないけどね。
「裏、なかったでしょ?」
「最初から可能性は限りなく低かった、というのもあるがな。だが裏切りの可能性がわずかでもある以上、監視はする」
でしょうね。ご苦労様です。




