303.メガネ君、大帝国へ出発する
どうしよう。
本当にどうしよう。
まだ数日の付き合いしかないし、俺からの気持ちや感情は一切ない……というか絶賛マイナスに傾き続けているのに、明らかに向こうから距離を縮めてきている。
「……おはよう」
最初の内こそその辺に浮いているだけだったのに、昨日は枕元に浮いていて。
そして今日は、――すぐ横に一緒に寝ていた。
この得も言われぬ感情がなんなのかわからない。
一番近いものとしては、やはり混乱だろうか。
もしや俺自身が少々混乱している可能性もあるが、しかし、とりあえず挨拶をすると――奴の目がピカッと赤く光ったのだった。
いわゆる添い寝であった。
認めたくはないが、これはもはや添い寝であった。
いよいよ距離を詰めてきた邪神像 (真)が、ついに添い寝までし始めたのだ。
こいつ、どういうつもりだ。
まさかとは思うが、俺は懐かれているとでも言うのか。それともこういうイタズラ好きなだけなのか。妖精は人をからかい、惑わせるというが、精霊もそういう性質を持つアレなのか。というか今俺が声を掛けるまで寝ていたのではないか。「ピカッ(えーなにー? まだねむいのにー。あ、おはようエイル、今日もよろしくねっ♪)」という恐ろしい意味が込められた赤い光だったのではないか。
このまま何事もなく時を重ねたら、奴はいったらどこまで距離を詰めてくるのか――そんな恐怖に震えながら起床。
朝から震え上がる一幕もあったりなかったりしつつ、大帝国へ発つ予定の朝が来たのだった。
「あっ」
朝の支度をしていて、気づいた。
「どうしたの?」と言いたげに邪神像 (真)が俺の視界に入ってきて、目を光らせた。首を傾げているつもりだとでもいいたいのか、体勢がこてんと斜めになった。可愛くない。
――そうだ。ここから先は教官と付きっきりで行動である。
俺には色々と疑惑が掛けられているので、まさか単独で行けとは言わないだろう。
となれば。教官の誰かが同行するはずだ。
つまり付きっきりの監視がつく。
ということは、邪神像 (真)とはここでお別れである。
というか、お別れするべきだ。
だが、しかし。
ソリチカ教官に返却しようとして、拒否されたら終わりだ。
もし「そのまま持って行け」と言われたら、そうするしかなくなる。選択の余地がなくなるのだ。拒否権がなくなるのだ。持って行かざるを得なくなるのだ。
だから、このままここに置いて行こう。
これ以上……添い寝以上に距離を詰められても、その…………純粋に困るし迷惑だし怖い。
奴に意図を悟られないよう荷物をまとめ、ゆっくり帽子を被り、マフラーを巻く。
そして――素早く部屋を出て扉を閉める!
ゴン ゴン ゴン
途端、向こう側から堅いものが何度か扉に当たる音がする。
俺を追おうとした奴が、物理的に阻まれている音だ。
木像自体が小さいので、当たる音も小さい。
このまま鳴り続けても、周囲に迷惑はそんなに掛からないだろう。それら系はカロフェロンが時々起こす爆音や異臭の方がアレだし。
やった……うまいこと撒いた。
ここで奴とはお別れだ。
…………
いや、だってさ。
役目を終えたんだから仕方ないだろう。
それにあの邪悪さ、俺を監視する赤い目、意味がわからないけど災いを呼び寄せているかのような謎の印を結ぶ三対六手の腕、そして日を追うごとに詰めてくる距離感……どれをとっても怖かったのだ。
俺が気にしないタイプだからあえて無視できた部分も大きいのに、気にするタイプだったら精神的に病むと思う。リオダイン辺りは大変なことになっていると思う。
中身はともかく、あの木像はまずいよ。
本当に邪神の像にしか見えないんだから。
けど。
……なのに、なぜだ。なぜなんだ。
扉に当たる音が、奴の泣き声に聞こえる。俺を呼ぶ声に聞こえる。ただの無機物が当たる音のくせに俺の後ろ髪を強烈にひいている。
「冗談だよ」なんて言いながら、扉を開けて再び奴を迎え入れたい気持ちが込み上げてくるのは、なぜなんだ。
一時の気の迷いであることは明白なのに……あ、ダメだ。このままここにいたら絶対に扉を開けてしまう。
「……ごめん」
もう飼えないんだ――いや違う。奴はペットじゃない。最初から飼ってない。だから捨てるって表現も正しくない。
これは日常的かつ誰にでも起こりうる、ただのよくある出会いと別れの一つでしかない。気に掛けても仕方ないだろう。
――とは思うものの、謎の未練に心を乱されつつ、俺はそのまま階下へと向かうのだった。
意味のわからない未練と罪悪感ができてしまった気がするが、とにかく後顧の憂いを断ち、これで本当に出発の準備は整った。
今日は朝の訓練を控え、一階で待っていると――朝が早い訓練生たちの一番乗りが降りてきた。
東洋人のシュレンだ。
出発を告げられていた俺は、今日だけ意図して早く出てきたので、恐らく普段から彼が一番起きるのが早いんだと思う。
テーブルに着いている俺と、降りてきてまっすぐ外へ向かうシュレンは、一瞬だけ視線を合わせ……あれ?
「――また何処ぞへ行くのか?」
珍しい、というか、初めてである。
まっすぐ外へ出ていくと思えば、シュレンが俺に声を掛けてきた。
また、というと、先日の馬車襲撃事件のことだな。
まだまだ記憶も新しい内に、また大きな荷物を用意して朝からテーブルに着いて暇そうにしているのだ。すぐに察しもつくだろう。
「うん。教官の命令で大帝国まで」
そう言うと、彼は「そうか」と答えた。
きっと今日から数日、俺は教官と一緒にいなくなる形となるので、候補生たちに秘密にするのも限度があるだろう。
だから、たぶん行き先くらいは話していいと思う。というか誰かに問われれば教官たちも隠さないと思う。
「――これをやる」
と、彼が取り出したのは……専用と思しき布に包んだ二本の木の棒だった。
一瞬これはなんだ、と思ったが……そういえば見覚えがあった。
「『ハシ』だっけ?」
時々シュレンがこれを使って飯を食っている姿を見たことがあった。
いつだったか、見慣れない木の棒を器用に使って食事する彼を「なんだろう」と見ていたら、たまたま近くにいたハイドラが教えてくれたのだ。
ちなみに食べていたのは生魚の切り身で、ハシよりそっちに驚いた。東の人は魚を生で食うって本当だったんだ、と。
で、ハシだ。
これはスプーンやフォーク、ナイフに並ぶ、東洋の食器だそうだ。
「昨日新しく造った。だが使う前に今ここでおまえに会った。きっとそれはおまえと縁があったのだろう」
縁、か。そう言われてもよくわからないけど。
「大帝国の発祥は、東方の武士から興った国だという。故にあの国には東方の文化が色濃く根付いている。飯もそうだ。箸もな」
へえ、そうなんだ。
「で、これくれるの?」
「いらんなら捨てていい」
と、シュレンは背を向けた。
「――大帝国にはフォークやナイフを使えば目立つ場所がある。俺もおまえも、無意味に目立つのは本意ではあるまい」
それだけ言い置いて、俺の返事も待たず彼は塔から出ていった。
……俺もおまえも、か。
やっぱりシュレンと俺は、似てるんだろうな。
俺はそう思っていたし、彼も同じように感じていたみたいだ。
うん、目立つのは本意じゃない。
無意味だろうが意味があろうが嫌だ。
そして彼自身、いわゆる場違いに周囲と違う「ハシ」を使い目立った、あるいはその逆を、みたいな経験をどこかでしてきたのかもしれない。
だからこそ、自分に似ている俺にこれをくれた、のかもしれない。
同じ轍を踏まないように、と。
シュレンは、ブラインの塔に来てからは一番接触も接点もない相手だった。
必要事項のやり取りが多い教官たちより、接した時間は少ない。
色々と予想外の気遣いだったけど、せっかくなのでありがたく頂戴しておこう。
お礼に土産でも買ってくるかな。
早速どう握るのかさえわからないハシの練習をしていると、ヨルゴ教官とソリチカ教官がやってきた。
「準備はいいか?」
背負い袋を持つヨルゴ教官に答える代わりに、俺は立ち上がって荷物を持った。手早くハシも布に巻いて仕舞う。
どうやら、大帝国まで同行するのはヨルゴ教官らしい。
横にいるソリチカ教官は荷物を持っていないので、一緒に来るわけではなさそうだ。
――いや、待て!!
ソリチカ教官は確かに荷物を持っていない。
だが、違う物を持っていた。
「なんで置いていったのか、って言ってるみたい」
おもむろにそんな一見意味のわからない発言をし――それに呼応するように赤い光がピカッと光る。
まるで神官が祈りを捧げる時のように、彼女は両手で十字架……の代わりに、独特な、いや、邪悪な形の木像を持っていた。
そう、目の光る、あいつだ。
部屋に置いてきてお別れしたはずなのに、こんな形で追ってくるとは思わなかった。
「……だって、ここから先はヨルゴ教官が付きっきりで監視するでしょ? だったらそっちの監視はもういらないじゃないですか」
理屈は通っているはずだ。
そう、これ以上一緒にいる理由なんて、ないはずだ。
「でも、この子は離れたくないって言ってるけど」
この子って言うな。そんなかわいいもんじゃ……いや、中身だけならまだなんとか許容できる。だって中身は精霊だし。その木像がアレなんだ。受け入れがたいんだ。
「『我を捨てるか下郎。万死に値する。死ね』って言ってるけど」
あ、中身も受け入れがたいな。
「『しかし今我が手を取るなら忘れよう。我が国盗りの偉業を我の傍らで見せてやる。天下取りに興じようではないか。いずれ世界の半分をくれてやる』とも言ってる。今なら許すって。よかったね」
うん、よくないね。
余計ダメになりましたけどね。
国盗りってなんだ。……本当に俺の想像していた精霊と全然違うんだけど、それ本当に精霊? 邪霊とかそういうのじゃないの?
おかげさまで後ろ髪ひかれる思いも未練も罪悪感もすーっと消えていったので、もういいです。
――断固として邪神像 (真)の受け取りを拒否し、俺とヨルゴ教官はブラインの塔を後にした。
 




