298.メガネ君、助けを求められる
――夢だと思いたかった。
目覚めた俺が真っ先に思ったことは、それだった。
本当に……
本当に、ただの悪い夢だと思いたかったな……
…………
とりあえず起きるか。
「メガネ」は……まだ掛けなくていい。
見たくないものもあるし。
現実逃避するかのように、素早くベッドに滑り込んで眠りに落ちた後、ソリチカは宣言通り見張りを置いて部屋から出ていったようだ。
窓から見える景色は、かなり薄暗い。
冬空だと考えれば、夕方くらいだろうか。
予定通りの時間まで、寝ることができたようだ。
あとは夜まで考え事をする必要があるけど、その前にだ。
「……こっち見ないでくれる?」
ふわふわと宙に浮かび、身体に巻き付く無数の触手をうねうね蠢かせ、緩慢に動く六本の腕で強大な邪法を扱っているかのごとく印を結び、しかしビカッと光る目は常に俺を見ている。
そんな邪神像 (真)に、無駄だとはわかっていても、言ってみる。
……見てるなぁ。
すごくこっち見てるなぁ。
魔王でも召喚しそうな邪悪な印を結びながら見てるなぁ。
……光も点滅してるなぁ。
見ろよこれ、光るんだぜと言いたげに光ってるなぁ。
これ見よがしに光りまくっているなぁ。
フォルムの邪悪さも然ることながら、今は更に浮かんだり動いたり目を光らせたりとやりたい放題である。
本当に、本当にフロランタンは、厄介な代物を厄介な才覚の赴くまま、世に解き放ってくれたものである。
あと何気に上手いこと忘れていたけど、俺もまだ邪神像を持っていることを思い出したよね。
フロランタンが力作だって言ってたやつ……荷物の奥底に眠らせて、本当に上手い具合に、忘れていたんだけどなぁ。
いざとなったらソリチカ教官に渡せばいいと思っていたけど、果たして彼女に渡してしまっていいのか疑問である。
ふわふわ気ままに漂っているくせに、視線だけはずっとこっちを向いているあの邪神像 (真)を見れば、嫌でもこう思うのだ。
――あれはソリチカ教官の仕業なのだ、と。
――あんなのを増やす手伝いをしていいのか、と。
これに関しては極めて重大な懸念事項として、リッセとセリエ辺りと情報を共有しておきたい。
これ以上、ソリチカ教官の手に邪神像 (真)が渡らないように。
――唯一の救いは、木像としてのサイズが元から小さいおかげで、目が光ると顔全体が光って見えることくらいか。
あいつは顔も邪悪だからね。
ちゃんと見えたらもっと怖いだろう。
……正直気にならないわけがないくらいアレだが、それでも、今は考えることを優先しないと。
気にしないタイプの俺でさえ気になってしまう、存在感がありすぎる邪神像 (真)に見られているのを無視しつつ。
睡眠欲求を満たしてすっきりした頭で、いろんなことを考える。
昼の段階で「夕飯はいらない」と告げてあるので、夕食時間はスルーした。
寝る前に昼食を腹に入れたので、夜はいいだろう。
ワイズ・リーヴァントの呼び出しも気になるし、「アディーロばあさんの素養」も気になるし。
ここ数日に起こった馬車襲撃からゼットたちの内部にいる裏切り者の存在、大帝国のあの兵士との戦い等々。
振り返ることはたくさんある。
数日の間に辿った経験を反芻して、反省して、学習して。
今度はミスや失態を冒さないように、頭の中を整理しておく。
正直やっぱり真面目に働けって感じではあるが、馬車襲撃はいい経験になったとも思う。
今後やる機会はないと思うが、逆に襲われる立場にはなるかもしれない。
有事の際、今回の経験が活きればいいな。
――そんなこんなで考え事をし、夜が深まり候補生たちが部屋に帰っただろう時間に立ち上がる。
向かう先は一階だ。
昼、教官たちと別れる時に、夜話をする場は一階のロビーで、と約束してあるから。
「…………」
万が一にも、誰かに邪神像を見られると、大騒ぎになりそうだ。
何せ浮いてるし蠢いているし光ってもいるのだ。
こんなの怖いに決まっている。
ただでさえ、これまでの生涯で見たことがないほどの邪悪さを遺憾なく見せつけてくる木像なのに。
「……入ってくれる?」
密着するのはすごく嫌だが、見られ続けるのも俺が見るのも嫌なので、革袋に入れて腰に吊るしていくことにする。
俺が広げた革袋に、ふわふわと漂ってきて納まる邪神像 (真)。
口を閉じるまでじっと俺を見つめる姿は、なんというか、捨てられることを悟った子犬が全身で捨てる者を恨み…………まあいい。深く考えるのはやめておこう。怖い。
大人しく従う邪神像 (真)に、裏だの魂胆だの企みだの陰謀だのといった後ろ暗い何かがあると思わずにはいられないが、ひとまずこれでいいだろう。
少なくとも、誰かに見られる心配はない。
俺の視界に入る心配もない。
さあ、一階に降りよう。
明かりの管理は教官たちがしている。
正確には、エヴァネスク教官が魔法で明かりを灯しているようだ。
なので、無人でも明かりはついたままとなっている。
夜中起きたことはあまりないけど、たぶん強弱はあるけど、明かり自体は朝でも昼でも夜でも、ずっとついているんじゃないかな。
無人の一階、いつもは飯を食べたりくつろいだりするスペースには、がらんと空いたテーブルが……あれ? 人がいるな。
「――あ、エイル」
リッセだ。
あとトラゥウルルもいる。
それと、かすかに酒の匂いがする。
二人は同じテーブルに着き、何かしら飲みながら話をしていたようだ。
この二人は……結構珍しい組み合わせかもな。
というか、そもそもトラゥウルルがフロランタンとべったりだからね。
トラゥウルルが、フロランタン以外といるだけで、珍しい組み合わせと言えるのかもしれない。
まあ、俺たちがいなかった数日の間に、仲良くなるような何かがあった、という可能性もなくはないと思うけど。
「もしかして飲んでる?」
「ウルルがね」
ん?
何かあったのかと聞こうとした瞬間、うつむき加減のトラゥウルルが吠えた。
「フロランタンは胸毛のことしか考えてないんだ!」
語気も荒く言い放ち、カップを煽る。
…………
……胸毛?
…………
あ、昼の一件?
シロカェロロの胸毛の一件、まだ引きずってるの?
「そんなことないよ。フロランタンは、ちゃんとウルルのこと大好きだよ」
リッセが、なんだか微妙な顔でそんなことを言って慰めている。
――嘆いている内容が内容だけに、リッセには何をどう言えばいいのか、いまいちわかっていないのかもしれない。
わからんでもない。
慰めるのもおかしいし、叱咤するのもなんか違うよね。
そりゃ微妙な顔にもなるだろう。
「取り込み中なら――」
「助けてよ」
……一時撤退しようかと思ったのに、リッセにストレートに助けを求められた。
うーん……仕方ないか。
このままこの二人が居座ると、教官たちと話すのに邪魔になる。
そもそも教官たちが来れば、たぶん普通にこの二人を追い返すだろう。それはそれでちょっとかわいそうだ。
理由と内容がアレではあるが、トラゥウルルは結構本気で気にしているみたいだから。
できれば、心のひっかかりをすっきり解消した上で、部屋に帰ってもらいたい。
「話を聞くくらいしかできないけど」
「それでもいいから。私一人じゃ手に負えないんだよ」
……まあ、結構なペースで飲んでるしね。
トラゥウルルは、俺とリッセが話していても、気にしないで飲んでいる。
そういえば、ゾンビ兵団の時に確執が生まれた俺がいても、彼女は強いて反応を示さない。
……あれ? 意外と厄介なことになってるのか?




