281.馬車襲撃事件 13
「――ごめん。お待たせ」
先の一戦でごっそり精神をすり減らしたエイルが、ようやく重い腰を上げた。
肉体的には問題ないが、心の消耗が激しかった。
エイルの状態を見越して休憩を取り、急かすことなく待っていたシロカェロロも、伏せていた地面から立ち上がった。
『ハイドラたちは、昨夜泊まった施設にいるようです』
シロカェロロは今後の進路について、はっきり明言した。
すでに嗅覚で探っていたのか、それとも別の能力でも持っているのか。
なんとも恐ろしい狼である――いや、獣人である。
「最後に一ついいかな」
「エイルの素養」の確信に迫ろうとするシロカェロロを、エイルはのらりくらりとかわすような会話をしていたが。
腰を上げたついでに、エイルはこんな質問をした。
「君ならあの兵士に勝てた?」
いつもなら……いや、エイルの力量に見合う相手であれば、いくつかの勝利の道筋が思い浮かぶ。
それらは成功率、あるいは勝率という形で取捨選択し、一番有効そうな手段を講じるのだが。
先の大帝国の兵長は、それが一つだけしか思い浮かばなかった。
あの方法以外で勝つ手段はなかったと、エイルは思っている。
その上「メガネ」に頼り切った策である。
極論を言えば、「メガネさえあればエイルじゃなくても勝てた」のではないか、と。そんなことさえ考える。
すでに「メガネ」は、エイルの一部である。
もはや生活にも狩りにも欠かせないものである。
だが、頼りすぎるのはよくないと、「メガネ」のいろんな可能性を見出してきた時から、ずっと思っている。
だからこそ、あの戦いには勝てようが勝てまいが、納得できないものがあるのだが……
まあ、その辺は今後の課題だとして。
果たして自らの意思であの場に残り、足止めとして働こうとしたシロカェロロは、もしあそこに一人でいたらどうなったのか。
エイルまで残らなかったら、どうなっていたのか。
彼女はあの状況をどうしようとしていたのか。
――突き詰めれば、あの兵長に勝てたのかどうか。
エイルからすれば、兵長は化け物のような相手で、運よく奇跡的な勝利を得たと思っている。それも手放しで喜べない形で。
だからこそ、気になった。
さっさと行こうとしていたシロカェロロは振り返り、澄み切った青空のような瞳を向け、
『三秒あれば喉笛を噛み千切ってますね』
事も無げに言った。
『まあ殺す理由もないので、片足くらいは貰っていたかもしれませんね。私に剣を向けた以上、それ相応に相手をしなければ失礼ですから』
更に言った。
『あ、私が念話ができることは、くれぐれも秘密でお願いしますね。……やぶればどうなるか、わかりますよね?』
「はいわかります。絶対言いません」
エイルはあの兵長を化け物だと思ったが。
――結構身近に、もっとすごい奴がいたらしい。
「あ、ついでにもう一つ。……触ったら噛み千切るってほんと?」
「…………」
シロカェロロは、その質問には答えなかった。
だが、前を向く一瞬、ニヤリと笑った気がした。
――知りたかったら触ってみろ、と言わんばかりに。
あ、本当にやりそうだな、とエイルは思った。
心なしか追手を警戒しつつ林を駆け抜け、昨日の夜を過ごし今朝出発した場所でもある、崖に空いた洞穴付近へと戻ってきた。
どうやらすでに、略奪は成功したものと見なして、部下たちは祝杯を上げているようだ。
エイルも知っている安酒と、肉などのつまみを焼く香りが、一帯に広がっている。
まだ帰っていないエイルやシロカェロロもいるというのに、気が早いものだ。
『――エイル』
ここまで先導してきたシロカェロロは、もう草木の間から集まっているのが見える場所まで来て、立ち止まる。
『私はこの有様なので、このままでは行けません。折を見てコードを連れてきてください』
この有様、というのは、変装が解けていることを言っているのだろう。
ずっと黒い狼だったのに、今は真っ白だ。
確かにこの変わり具合は尋常ではない。この変わり様はどうやってもごまかせないだろう。
「わかった。隙を見て連れてくるね」
一応、シロカェロロを染めていた「色彩多彩」もエイルは登録済みだが、まだ試行を行っていないので使用はできない。
まあ、できたところで真正面から使うわけにもいかないが。
シロカェロロと別れて、エイルは気が早い連中へと近づいていく。
――と。
「……?」
酒は開けられ、肉は炙られ。
まさに小さなお祭り状態なのに、妙に静かだ。
進むにつれてはっきりわかる。
浮かれた雰囲気が一切ない。
誰も声を上げないし、それどころか妙に気配がピリピリしている気がする。
「あっ」
戻ってきたエイルに気づいた部下が、目が合った瞬間ものすごく困ったような顔をした。
それも一人だけではなく、その周りにいる連中全員が、微妙な顔をする。
「……どうしたんですか?」
知らない人と話とかあんまりしたくないエイルだが。
しかし、あまりにも雰囲気が異常すぎて、このまま進むのに躊躇してしまう。
その辺にいた名も知らない部下に聞くと、彼は答え――ようとした瞬間、洞穴の奥からガラスが割れる派手な音が聞こえた。
「……トラブル?」
聞けば、彼は頷く。
ただのケンカや揉め事なら、酒もあれば逆に盛り上がりそうなものである。
エイルがいた村ではそんなもんだったが。
「……もしかしてゼット?」
もう一度聞けば、彼はもう一度頷く。
エイルは空を仰いだ。
そして思った。
――俺もう帰ってもいいんじゃないかな、馬車襲うのも終わったし、と。
今日はもう充分戦ったし、すっかり疲れ切っている。
これ以上の揉め事は、今日はもう勘弁だ。
しかし、でも、まあ、あれだ。
部下たちのすがるような視線が集まっている今、一人逃げることなどできそうもないが。




