278.馬車襲撃事件 10
大帝国エヴァルツレール。
大陸北部に広大な領地を構え、北西から西にかけて続く未開拓地に隣接する北国である。
元々は未開拓地であり、過去の武人たちが武者修行の場として利用していた土地だった。
未開拓地には強い魔物が生息している。
修行の一環として、それらを仕留めていた豪の者たち。
巣食っていた魔物を狩り続けた結果、いつの間にか人が集まり、発展して村になり、街になり、最終的には国にまでなったという、はっきりした発祥が知れない武人国家である。
が、昔こそ化け物のように強く、仁に死に儀に死ぬ命知らずたちが集まる危険地帯だったが、今では普通に国として成り立っている。
やや鎖国的ではあるが、外交も輸入・輸出も、それなりにしている。
だが、根本の成り立ちからして、変わらないものがある。
それが兵士――大帝国では憲兵と呼ばれる軍人である。
大帝国領土に生息する魔物は、どれも一筋縄ではいかない相手ばかりだ。
特に、未開拓地の奥に生息している未だ見ぬ魔物は非常に強く、何をきっかけにしてかは知らないが時折領土にやってくることがあり、今でも脅威の対象となっている。
それらの相手をし、国と民を守る剣であり盾である存在が、憲兵である。
望まぬまま国を興したという過去の武人たちの意志を継ぎ、魔物の相手をするのは憲兵の仕事となっている。
強さは当然として、不正や不義理を許さぬ高潔な精神を持ち、命令に殉ずる覚悟がある者だけが、誇り高き翠色の軍服に袖を通すことを許される。
そんな憲兵たちの長にあたる兵長ともなれば、弱いわけがない。
「ちなみに第四師団は、大帝国領でここから一番近い街に務めてる連中だね。馬で一日くらいかなぁ」
「ああ、だからね」
走りながらキーピックの説明を聞き、ハイドラほか大帝国の事情に通じてない連中は頷く。
だから、あの第四師団兵長カルシュオク・シェーラーと名乗った男は、この辺で暴れているゼットと顔見知りで、ライバル関係にあると。
きっとこれまでに何度も遭遇し、やり合っているのだろう。
「あのメガネの子、大丈夫?」
キーピックの心配はわかる。
初手のしくじりからして、かなり危険だったのは、誰の目から見ても明らかだった。
彼女が弱いわけではなく、相手が強いのだ。
――コードとキーピックからすれば、「あのゼットと張り合ってるんだからカルシュオクは当然強い」という感じである。
あそこまでの領域にいる人間なんて、早々いるものではない。
とてもじゃないが、あのメガネの少女が、その領域に届くとは思えないのだ。
だが――
「大丈夫よ」
ハイドラはしれっと答えた。
「あの子、無理はしないタイプだから。無理だと思えば逃げるでしょ」
それに、シロカェロロも付いている。
だから大丈夫。
そう信じられたからこそ、あの場はエイルとシロカェロロに任せて、今全員で逃げているのだ。
さすがのハイドラだって、本当にまずいと思えば、「自分の素養」を晒してでも助力するつもりだった。
仲間の、そして自分の命が関わるような状況だった。
出し惜しんでいる場合ではない。
――恐らくはエイルも、そのつもりになったのだろう。
ならばむしろ、彼に気を遣うのであれば、「誰も見ないこと」の方が嬉しいし有難いと思うだろう。
ハイドラ自身はそうだから。
(それに――)
向こうは気にならないとは言わないが、こっちはこっちで問題が起こりそうだ。
――何も言わず敵前逃亡したゼットを見て、明らかに三人の裏切り者候補たちは、何かしら考えているようだから。
「――ガウガウッ」
ゼットを守るようにしてカルシュオクとの間に割り込んだシロカェロロは、睨み合いながら二つ吠えた。
それは、事前に決めていた合図である。
護衛から外れるからマリオンを頼む、と。
――この状況で護衛を外れるということは、つまり、全員逃げろの合図だ。
兵士たちの相手と足止めをやるから、先に行け、と。
「なんだおまえ。一人で大丈夫か?」
「ガウッ」
そんなリッチの問いかけにシロカェロロは答えた――後に本人が語るが、リッチは動物の意志みたいなものが少しだけわかるらしい。
この数日の旅路で、それを知る機会があったシロカェロロが放つ「逃げろ」という意志を汲み取っての発言だったのだが、本人たち以外は誰もわからない。
「――あいつ逃げろって言ってるぜ」
状況からして間違いないとは思ったし、なぜリッチがそんなことを言うのかもいまいち理解できないが。
「行きましょう」
ハイドラの決断は早かった。
コードに視線を向け、その方がいいと意を伝える。
どっちにしろ、シロカェロロより強い者はこの場にいない。
下手に残れば彼女の邪魔になりかねない。
行けと言うなら、行くべきだろう。
ここで、シロカェロロに睨まれ動けなくなっているカルシュオクが口を開いた。
「――一人も逃がすな! 抵抗する者は斬り捨てて構わん!」
引き連れてきた五人の兵士も剣を抜き、命じられたまま動き出す。
が――
「な、なんだっ!?」
「ぐわっ」
倒れている女など眼中にないとばかりに、放っておいて擦れ違おうとした二人の兵士は、瞬時に紐を巻かれて地面を転がった。
「――先に行ってください」
エイルは立ち上がり様、素早く二人を拘束し、シロカェロロの後ろに付ける――ゼットたちの盾になるように、残りの三人を見ながら。
「ガウッ」
シロカェロロには「おまえも行け」とでも言われたような気がしたが、エイルはもう決めている。
エイルは黒い狼に顔を寄せ、小声で囁いた。
「――あなたは切り札です。ここであなたの手の内を見せるのはよくない」
それならば、すでに半端に戦い方を見せてしまっているエイルが動いた方がいい。
知られると対策を練られる。
だからこそ「素養」を隠したいし、戦い方も見せたくはないのだ。
少なくともエイルはそうだ。
まあ、この先対人戦が何度あるかは知らないが。
所在なさげで蚊帳の外、みたいな扱いだが、商人たちや護衛も見ている。
この先何があるかわからない。
ならば、まだ切り札を切るべきタイミングではない。
だったら、中途半端にすでに手の内を見せているエイルが踏ん張った方が、漏れる情報は少なくて済む。
――ものすごく強い狼がいる。
そこまではいいが、「こんなことをする」「あんなことをする」というのは、やはり隠すべきである。
有名になったらやりづらいことも多いのだから。
その点、「メイドのエル」なんて架空の人物をでっちあげているエイルは、その辺の心配も気楽なものである。
女装を解けばいなくなるのだから。
「――後でね」
ハイドラが囁き、全員が走っていく。
転がした兵士は二人、残り三人はエイルが睨みを利かせて動かさない。
一番厄介なカルシュオクも、シロカェロロが足止めをしている。
――足止めの形としては、充分である。




