277.馬車襲撃事件 9
とんでもない速さで逃げていった荷物と部下たちを、半ば呆然と見送ってはみたものの。
現状、あっちを気にしている場合ではない。
「向こうは大丈夫そうね」
ハイドラの言う通り、部下たちは大丈夫だろう。
なんというか、完全に逃げ慣れているから。
もしもの時は、価値の高い物だけ持って方々に散って逃げる、なんて行為も躊躇せずにやりそうだ。
絶対に捕まらないし、略奪品も渡さない。
そんな盗賊根性を感じずにはいられない、見事な逃げっぷりだった。
「こっちはどうする? ……って、聞くまでもないわね」
部下たちの撤収は思いのほか早く、もはやこちらに向かってくる何者かの足止めや、殿役が必要とも思えない。
割と自由に対処できるだろう。
なんなら逃げてもよさそうなものだが……
いや、彼らが残っているということは、これもゼットの仕事の内なのだろう。
ここに残ったのは、コードとキーピックを含む助っ人組だけだ。
そしてコードたちが逃げなかった以上、やることは当然、ここに来る何者かか何であるかの確認と、足止めになるのだろう。
「――おい。何が来るんだ」
ここで意外な連中が合流した。
リッチを筆頭に、トリメとギランという裏切り者有力候補の三人が戻ってきたのだ。
荷車を送り出すまではしたものの、こっちに残ることを選んだのだろう。
――どういうつもりで残ったのかはわからないが。
ゼットの傍にいたいだけなのか。
それとも、これから起こることの顛末を見届けたいのか。
「俺にもわかんねぇよ。まあすぐにわかんだろぉ」
ゼットがそんなことを言っている間に、いくつかの馬の足音が聞こえてきていた。
岩が多い足場なので全速力とは言わないが、それでも駆け足である。
足音が聞こえるなら、もうすぐここに来るだろう。
(――馬が数頭。人が乗っている。これで偶然魔物が迷い込んできた、という線はなくなった)
だとしたら、これが裏切り者が仕組んだ策なのかもしれない、とエイルは考える。
できれば少しでもここからの方針を話したかったが、裏切り者候補がいるだけに、突っ込んだ話はできない。
今できることと言えば、少しだけエリュオ商会の馬車の後方――彼らがやってきた方向に移動することだ。
何者かがやってくる。
それがゼットたちの敵である可能性は高い。
場所によっては、エリュオ商会の護衛と何者かで挟まれる立ち位置になりかねない。
多人数が入り乱れる乱戦になったら、パチゼットことマリオンが危ない。
なので、完全に前方に馬車を臨む場所まで下がった。
ここなら、挟み撃ちされる、という形だけはなくなる。
いざとなったら――と、エイルは今一度覚悟を固めた。
(……いざとなったら俺が足止めして、全員逃がす感じかなぁ)
これも、荒事が得意じゃない女の子に任せられない役目であるから。
やりたくないし、やりたいとも思わないが、仕方ないと諦める。
「――もしもの時は」
横にいるハイドラにそれだけ言うと、彼女は意味を察して「気を付けて」と頷いた。
「――一緒に付き合ってくれてもいいですが?」
すんなり頷いたので追及したら、彼女はさっきと同じトーンと表情と口調で「気を付けて」と繰り返した。強いなこいつ、とエイルは思った。
「エル君、これ」
セリエが差し出す弓を、エイルは首を振って拒否する。
「弓は接近戦に向かないから。もう少し預かっていてください」
師匠から学んだ技術を悪いことには使いたくない――というのもあるが、やると決めた時からその辺のことは割り切っている。
だから今は、本当に単純に、近接戦闘には使いづらいから、である。
思った以上に「紐型メガネ」の使い勝手が良かったので、ある程度はこれでなんとかなるだろう。
個々が思うことはバラバラではあるだろうが。
エイルだけは、何かあれば自分がもう一度戦う、という覚悟を決めていた。
果たして現れた何者かは――
――深い翠色の軍服に影色の外套をはためかせ。
――祖国の為、民の為にこそ、その身を真紅に染めてやろう。
エイルの脳裏に、子供の頃に聞いた大帝国の有名な詩がよぎった。
今まで思い出すこともなかったのに。
それを見た瞬間、記憶の奥底から引きずり出された。
まさしく、あれだ。
「――大帝国エヴァルツレール第四師団兵長カルシュオク・シェーラーである! 盗賊団討伐の命により、これより粛清を開始する!」
見慣れない形の緑色の上下を着て、裏地が赤いマントを羽織り。
同じ格好の五人ほどを連れてきた男――見るからに兵士や軍人という体の男は、大声で名乗りを上げた。
カルシュオク・シェーラー。
服に合わせた揃いの帽子まで被ったその男を見た瞬間、エイルはまずいと思った。
――あれはかなり強い。
後ろの五人も強いが、特に名乗りを上げた男は、群を抜いて強い。
歳は二十半ば。
細身ながら背は高く、しかし堂々と馬に乗る姿から全身鍛え上げていることが伺える。帯刀しているのも伊達ではないだろう。
何より、全身から漲るヒリヒリするような威圧感だ。
離れていても痛いくらいだ。
これは強者の気配だ。
弱いはずがない。
「あーカルシュオクかー」
キーピックがぼやいた。知っているようだ。
「ゼットぉー。面倒だから逃げようよー」
エイルはピンと来た。
――これはキーピックなりの、周囲にバレないようさりげなく方針を誘導する発言である。
「そうだね。いくらライバル関係だからって、あいつの相手は面倒臭いことには違いないしね。寒いし早く戻ろうよ」
ピンと来ている者は他にもいた。
――コードも同意し、さりげなくゼットとカルシュオクの関係を明かしつつ、逃げた方がいいという方向に促す。
そしてパチゼットは。
「…………」
馬を降り、突然の兵士登場に驚いている商人たちを横目に、颯爽と歩いてくるカルシュオク率いる兵士たちを見ている。
見ている。
すごく見ている。
瞬きもせず、じっと見ている。
見て――
「……!」
パチゼットの動きがないことを気にしていたエイルだが。
歩いてくるカルシュオクが、あまりにも自然な動作で、腰に帯びていた片刃の剣を抜いたのを見て、反射的に動いた。
エイルがパチゼットの前に出るのと、シロカェロロが動いたのは、同時だった。
「――うぐぅ!」
同時だったせいで、シロカェロロはエイルの脇腹に突っ込んできて倒れた。
何やってんだ――そんなことを思うより早く、違うことに気づいた。
(違う。狙ったんだ……)
――エイルの動きが遅かったから、庇われたのだ。
「ただの狼ではないな」
倒れたエイルのすぐそばに、すでにカルシュオクは立っていた。
そして倒れたエイルなど気にもせず、ゼットの前を陣取るシロカェロロを見据えている。
――もしシロカェロロが突っ込んでこなかったら、カルシュオクの剣はエイルを斬り裂いていただろう。




