271.馬車襲撃事件 3
「――どうした!?」
高らかに上がる馬の声に、商人グスタは馬車内から飛び出した。
エリュオ商会の商人グスタ。
今や四十を越えて貫禄が付き、蓄えたヒゲがチャームポイントと自負するおっさんである。
元は田舎から出てきた下働きの小僧だったが、生まれ持った運と商才に恵まれ、大きな商会のお抱え商人へと成り上がった。
今回の商隊の責任者である。
エリュオ商会が飼っている馬は、軍馬に使われる種類である。
身体は大きく足腰も強く、走る速度こそあまり出ないものの、度胸があり、育成次第では魔物や戦闘、火を恐れない。
それが鳴くということは、異変が起こった証左である。
今進んでいるこの幽呟の谷を越えれば、大帝国は目の前だ。
ここらの地面は、岩肌である。
足場としてはしっかりしているが、いかんせん石や岩が多く散乱しているため、馬車のスピードは出ない。
もし出そうものなら、大きく上下に揺さぶられ、すぐに車輪まわりが故障するだろう。
だが、歩みは遅くとも、一日で越えられる距離というのは魅力的である。
情報も荷も、鮮度が命。
グスタが働いているエリュオ商会では、商機を逃す愚は犯すなとしっかり教えられる。
――たとえこの道には、有名な盗賊団がよく出没すると知っていてもだ。
グスタは飛び出して、鳴いた馬……先頭を行く馬車に歩み寄ると、すでにグスタより先に護衛たちが集まっていた。
異変に対しての迅速な行動。
頼もしい限りである。
「段差に引っかかったようです」
その中の一人が、車体の下を指差しながら答えた。
「段差?」
見れば、確かに段差である。
馬どころか人でも、一跨ぎで越えられるような段差である。
だが、車輪は引っかかった。
二頭引きの大きな馬車に、荷物は満載である。
車体の重量はかなりのものだ。
小さな高低差に引っかかって車輪が上がらず、思った通りに進めなかった馬が、問題があったことを知らせるために鳴いたのだ。
――よかった、とグスタは胸をなでおろす。
道の先……盗賊多発地帯であるこの谷の、もっとも道幅が狭くなるこの場所。
斥候に出した冒険者チーム「雪熊の爪」の報告を信じないわけではなかったが、ここで問題が起こるとなれば、やはり盗賊襲来を真っ先に警戒してしまう。
だが、蓋を開ければ、ただの段差で立ち往生である。
「この程度の高さなら、このまま押せば大丈夫でしょう」
ある程度の高さとなれば板でも噛ませるが、これくらいなら馬が引き、男たちが押せば乗り越えられるだろう。
「頼むよ」
グスタは頷き、馬車を押すよう指示を出した。
――ただ。
護衛たちが、段差に立ち往生する馬車を押そうとする。
「……嫌な感じだな……」
こんなところで一時停止したこと。
これまでに何度か通過しているこの谷で、崖からの落石で道を塞がれていたことはあっても、段差で躓いたことはなかったこと。
この場所だけ、馬車二台くらいがギリギリですれ違える程度の幅しかない。
先頭の一台が止まっただけで道が塞がれ、後方だけ段差を迂回し先に行く、といった手段が取れないのだ。
こんな時に後ろから襲われたら逃げ場がない。
ましてや、もし囲まれでもしたら――
そもそも段差とはなんだ。
たまたまそんなものに引っかかるなんて、今まで一度もなかったのに。
――待て。
もしたまたまじゃなかったら。
偶然じゃなかったら。
嫌な予感に突き飛ばされて、グスタは弾かれるように地面に伏せ、その段差を仔細に眺めた。
護衛や商会の下働き、見習いたちの「何やってんだ」という視線など気にもせず。
石や岩で巧妙に隠されているが、きっちりと――露骨に言えば道幅全部が一段上がっている。あるいは下げられている。
つまり、段差は意図してできたもの。
自然にできたものなら、ここまで綺麗にしっかり一段違う、なんてことはないだろう。
ならば?
つまりこれは、馬車を止めるために作られた罠?
「警戒しろ――」
ドッ
警鐘の声を上げようとしたのと同時に、先頭の馬車体に飛んできた矢が突き刺さった。
「――全員動くな! 動いたら一斉に矢を放つ!」
崖の上から降り注ぐ雄々しい男の声は、雪解け水のように、一瞬で商隊を震え上がらせた。
いつの間にかグスタたちは、左右の崖の上から狙いを付ける、二十を超える賊たちに囲まれていたのだった。
「――よう。通行料をいただきに来たぜぇ」
崖の足場をひょいひょいと飛び降りてきた、全身タトゥーの男に見覚えがある者は多い。
一緒に降りてきた黒い狼はわからないが。
ペットだろうか。
エリュオ商会の護衛は、全員。
何度もここを通っているグスタも、商会で雇っているグスタの付き人や下働きも、知っている。
「誰だおまえら! 俺たちを大帝国のエリュオ商会だと知っててやってるのか!」
七人の護衛たちが、降りてきた男……盗賊団の頭の前に立つ。
知らないのは、今回初めて雇った二ツ星冒険者チーム「雪熊の爪」の七人だけだ――もっとも名前や逸話は知っているはずだが。
「――あぁ? てめぇらこそ俺のことを知らねぇのかぁ?」
タトゥーの男は逆にそう訊いた。
――まずい。
「待ってくれ!」
グスタは声を上げ、更に両手も上げて抵抗の意志がないことを示しながら、護衛とタトゥーの男の間に入った。
「いつも通りでいいなら物は差し出す! 私たちは抵抗しない!」
この男を怒らせていいことはない。
むしろ穏やかな内に話を付けて、早々に立ち去ってもらいたい。
「何言ってんだグスタさん!」
「いいんだ! 抵抗すれば怪我人や死人が出るだけだ!」
何せこの男は、商会お抱えの護衛全員を一人で、それも素手で叩きのめしたことがあるのだ。
絶対に「雪熊の爪」が全員で掛かっても、この男には勝てないだろう。
決して彼らが弱いわけではなく、相手が強すぎるのだ。
元々、ここを通る時は保険を掛けている。
怒らせて被害が出るのは得策ではない。
荷を奪われるより、怪我人や死人が出る方が厄介だ。
「わかってんじゃねぇかぁ」
タトゥーの男が手を上げると、盗賊たちが十人ほど降りてきた。
彼らは素早く、まだ不承不承の「雪熊の爪」を除く商会の護衛たちと、御者や下働きたちを縛り上げ、上からよく見える一つ所に移動させる。
――この盗賊団は、持ちきれる量しか持って行かない。
――余計な殺しも暴力もなく、女や子供にちょっかいを出すような真似もしない。
大人しくしていれば、だが。
そして金銭や金目のものより、食料や服や毛皮、酒といったものを優先的に持って行く。
珍しい物品や宝石といったものは好まない――恐らく足が付くものは嫌なのだろう。
だから多めに食料や衣類、毛皮を積んでいれば、被害は少額で済むのだ。
恐らくは無法の国クロズハイトの者だろうが――考えるのはそこまでである。
このタトゥーの男のやり方は、大帝国の商人たちには、あまり嫌われていない。
そもそも、この男が出てくる前までは、この道を使うことすらできなかったのだ。
これまでここを縄張りにしていたクロズハイト上がりの賊は、命まで略奪するような悪党ばかりだった。
絶対に通ってはいけない道だと言われていたが。
しかし近年、その事情が少し変わってきた。
それが、このタトゥーの男――ゼットが台頭してきてからだ。




