268.メガネ君、これから馬車を襲います
ハイドラは言った。
「――まずはコードとキーピックの立場をはっきりさせる必要があるわ」
まず誰が裏切るのかを見極めること。
――飯屋の個室で話すことができた時間は、長くはなかった。
思ったよりコードが部下たちを集めた時間が早かったせいで、十全に話せなかったのだ。
結局ちゃんと伝わった事実だけ述べるなら、ただハイドラの注意喚起の声を聞いただけ、である。
だが、内容からして、決して無視はできない事柄である。
「裏切りの気配を感じる」と言ったハイドラのその言葉を裏付ける根拠は、まだない、と言っていた。
気になることがあったのは確かだ。
でも、そもそもがそういうものなのか、それともやはり裏切りの気配だと思っていいのか。
無法の国クロズハイトという特殊な状況下である以上、その二つの判別が付かず――即断は禁物だと判断し、根拠はないと考えた
だが、注意と警戒をするに越したことはない。
誰だって味方だと思っていた者に、背中を刺されたくはないから。
だからハイドラは、まだ不確かな段階ではあるが、事が始まる前に話したのだ。
まず見極めたいのは、「誰が誰を裏切るのか」だ。
「あの二人に関しては、考えるまでもない、というのが率直なところよね」
それは同感だ。
俺と同じように考えたのだろう、セリエも頷いている。
コードたちが俺たちを裏切ったところで、なんの得もないからだ。
因縁もないし、得もないし、「素養」を教えてまで一旦引き込む理由もないだろう。
もしやる気だったら、むしろ暗殺を狙った方が可能性も高く効率もいいしね。
だから、俺たちが裏切られる可能性はないと思う。
安心してコードたちを信じていいだろう――まだね。
いざという時に切り捨てられそうになる、というのを裏切りに含めるなら、やはり可能性は否定できないけど。
「――細かい理由は色々あるけれど、裏切りの根拠と考えた最大の理由は、コードとキーピックが常に尾行されていたことよ。
誰に尾行されているのか、そして尾行されていることを二人は知っているのか。
問題は、私に仕事の依頼をする前からそうだったこと。
あの二人には護衛が付いていて、護衛が尾行していた――そう考えることもできる。
事件の多いクロズハイトという土地柄、ないとは言い切れないわ。
でもここの判断ミスは正反対の意味になるから、断定は控えたいわね。
――どう? きな臭いでしょ?」
確かにきな臭い。
それに、尾行する理由がありすぎて、何もかも絞り切れない。
ハイドラは、俺たちが関わる中でもっとも高い可能性を二つ挙げたものの、俺たちが関わらないかもしれない部分にまで広く考えたら、二つだけに留まるものではない。
ゼット勢力の内情に詳しくない俺でさえ、あの二人を尾行することがどんな意味を持つのか、いろんな可能性が思いつく。
第一の候補としては、ゼット不在の確証とか、ゼットの居場所だとかの情報だろう。
貧民街が欲しい支配者もいるし、ゼットが邪魔だと思っている者は貧民街にもいそうだ。
きっと指の数では足りないほどいると思う。
ゼットの居場所を知っていそうな、彼に近しいコードとキーピックを追えば、見つけられるのではないか。
そう考えた誰かは、それこそ何人もいそうなものだ。
さっき路地裏に集められた部下たちだって、かなり曲者っぽい感じだったし。
何せ殺気さえ放ってたし。
きっと、仲間だからと信じていい環境ではないからだろう。
「――色々と語りたいし、これに関してはみんなの意見も聞きたい。
でも時間がないし、この先じっくり話す時間も取れないかもしれない。
だからこれだけは憶えておいて。
まず――」
まず。
「――アニキ! アニキ! 仕事が終わったら大帝国に行こうよ! ほら、前に一緒に行ったお店でさ、甘い物食べようよ! あれどこだったっけ!?」
夜も深い時間だがお構いなしに目的地に向かってひた走る最中、ゼットを兄と慕う少女トリメが、ずーっとパチゼットに話しかけている。
時々キーピックが文句を言っているが、見向きもしない。
どうにもあの二人、仲が悪そうだ。
――まず、ゼットに話しかける者を警戒しろ。
俺たちと接触する前から、裏切り者がコードとキーピックをつけ回しているなら、まずゼットが本物かどうかを確かめようとするだろう。
偽物だと看破されたら、襲われる可能性がある。
コードとキーピックは、戦力としては弱い。
ゼットが強すぎるおかげで安全が確保されていたようなものだが、「今ここにいるゼットが偽物だ」とわかれば、遠慮する理由はなくなる。
目的があの二人の命なら、見抜かれた時点で襲われるはずだ。
「――……」
ゼットの右隣はトリメが、そして少し下がった左隣を走るギランは、まるでゼットを守るように付かず離れず張り付き、周囲を警戒している。
なんなら、俺たちのことも警戒しているようだ。
まあ、彼にしてみれば突然ゼットの傍に現れた知らない女たちである。
警戒するのもわからなくはない。
――ゼットを観察する者を警戒しろ。
これも、ゼットが偽物か否かを見破ろうとしているかもしれない。
まあ……あるいは、単純に今は口を挟む余地がないだけかもしれないけど。
トリメの矢継ぎ早な言葉の合間を縫って会話に参加、なんて難しそうだからね。
つか彼女はすごいしゃべるね。
ゼットは一言も返さないのに。
そしてもう一人。
正真正銘の賞金首である、リッチ・クロスは。
「――俺と天国に行かねぇか?」
完全にハイドラを口説いてますね。
まあ、俺は男だから、気持ちはわからなんでもないけど。
ハイドラの美貌を考えれば、そりゃモテるだろう。口説きに掛かる男がいないわけがないとも思うけど。
……でもまあ、アレだね。
悪党だからなのか、度胸が据わっているのか。
俺にはよくわからないが。
ハイドラを口説こうなんて怖いもの知らずにも程がある、としか思わない。
だってどう見ても、ただの美人じゃないだろ。
こう、ほのかに危険な匂いがするというか、明らかに普通じゃないのはひしひしと感じられるから。
会った時からなんか妙な感じはしていた。
――絶対にトゲがある花だよね。俺は近寄りたくないけど。
ハイドラの危惧した通り、道中落ち着いて話せる時間は、まったくなかった。
目的地へ一直線に向かっているのだろう道なき道を行く旅は、森や崖、川沿いなどにある無人の拠点――ゼットたちが仕事の時に使っている隠れ家みたいなところを辿りつつ、休息を取りながら三日ほど走ることになった。
拠点に先行していた部下たちが、寝床や食事の準備をしていてゆっくり休めたおかげで、かなり楽ができた。
まあそうだよね。
俺たちは暗殺者見習いとして鍛えているけど、彼らはそこまで厳しく鍛えてはいないみたいだからね。
体力的な差が普通にあるわけだ。
そんな道中、常にゼットの傍には誰かがいたし、俺たちの傍にも誰かがいた。
今のところ、裏切り者である可能性がもっとも高いのは、やはりトリメ、ギラン、リッチの三人だが。
この三人も、常にゼットと俺たちの傍にいた。
特にリッチはハイドラを口説くために、ほぼほぼずっとハイドラをマークしていた。
そのおかげで、裏切り者云々の話は、まったくできなかった。
そして。
俺たちは切り立った高い崖の上にいて、眼下にある街道を見下ろしていた。
道の彼方には、多頭引きの立派な馬車が六台、ゆっくりとこちらにやってくるのが見え始めていた。
――話したいことは多々あるのだが、どうやらもう時間がないようだ。
…………
あれが、俺たちが襲う馬車か……いよいよか。




