238.メガネ君、怖い怖いというが信じてもらえない
「うわマジか」
教官たちを追って洞窟を出たところ――俺たちの誰よりも先んじていたサッシュが、思わずという感じで立ち止まった。
俺含む面々が、どうしたのかと思い彼の横から進行方向を見れば……あ、なるほど。
目の前に、道がなかった。
ここは、どこかの崖だ。
絶壁の中腹ほどに穿たれた洞穴で、かなり高い場所である。
眼下には森が広がっていて、上も結構高い。
強く冷たい風にさらされ数秒ほど呆然とし、早くも見失った教官を探せば――いた。
教官たちは、洞窟を出てすぐに脇へ進んだようだ。
そして今、崖沿いの道なき道を走っている。
人が通れる道はない。
絶壁の崖に、横向きに突き立っている木の杭やロープが点在するだけ。
これは、あれだ。
ハイディーガで走った「道」そのものだ。
ただ、場所と形が若干違うだけ。
そんな連想をしている間に、教官たちはその足場を踏みしめ、地上を走るのと変わらない速度でどんどん進んでいる。
いや、さすがに地面を走るよりは遅いかな。
たぶん俺たちに少しだけ合わせてくれているのだ。
こんな場所であっても、あの人たちはもっと速く動けるだろう。
「こ、ここ行くんか!?」
フロランタンがそんな声を上げた。
落ちたら死ぬ高さである。
フロランタンが躊躇する気持ちも、よくわかる。
でもそんな彼女に、態度で返事をすると言わんばかりにサッシュとハリアタン、ベルジュとリオダインは、すでに教官たちの後を追い崖の足場に身を躍らせていた。
「――エイル、後ろよろしく。僕は前に行くから」
今回のリーダーであるリオダインだけは、副リーダーの俺に流れるように殿を努めるよう言い渡していったけど。
でもあいつ、あんまり足早くないはずだけど。
きっとあとで追いつくぞ。
あ、そうか。
追いついたら前後の役割を変わってもいいし、今だけか。
――なんというか、彼は俺がぐずぐずすることを、予想したのだろう。
「にゃははー。これくらいへーきへーきー」
と、トラゥウルルが後ろ向きに飛び、ひょいと杭に飛び乗った。お、さすがにその動きは怖いな。俺は無理。
「だいじょうぶだよ、イケるイケるー」
へらへら笑ってフロランタンを鼓舞すると、そのまま行ってしまった。
……で、なんとなく俺とリッセは行きそびれて、ぐずぐず残ってしまった、と。
「…………」
リッセが「どうするの?」と、視線で俺に訊いている。
こうなってしまっては仕方ないだろう。
「フロランタン」
俺はロープを取り出すと、自分の胴体に巻、きつく縛った。
「俺も怖いし、君が落ちたら俺が引っ張る。俺が落ちたら君が引っ張って」
彼女の「怪鬼」なら俺の体重くらい支えられるだろうし、俺も「メガネ」を使えば同じようにフロランタンを支えられる。まあ俺は落ちる予定はないけど。
というか、場合が場合なら、俺がフロランタンを背負って行った方が早いと思うけどね。
でもさすがにそこまでは差し出がましいだろう。
「荷物預かるね」
と、リッセは俺とフロランタンの荷物を奪うと、それを持って杭の道に飛び出していった。
なんだかんだ言って、やはり本質がリーダータイプなだけに、リッセは面倒見がいいな。
ああいうところが皆に認められる部分なんだろう。
俺が解決法を提示しなければ、彼女が何か言い出していただろう。
そして自分の出る幕がないとわかれば、自分にできることをやると。
俺にはできないなぁ。
立ち止まったのがフロランタンじゃなければ、俺もほっといて行ったと思うし。
「い、いや……ええんか? こういうの、ええんか?」
その質問は今更だろう。
「ダメならダメって教官に言われてるよ。俺も怖いし」
これまでの課題でも、候補生たちでちょくちょく助け合っている。
後続が教官を見失ったら、わざと目印を残したりして進行方向を教え合ったりして、協力して付いていったのだ。
俺も最初は、目印としてうっかり落とした体で矢を残したりしてみたが、何も言われないから今や堂々と置くようにしている。これ見よがしに。
むしろそれが禁止されているならば、誰も課題に挑戦さえできていないと思う。
サッシュなんてもっと露骨に、後続の様子を見るために行ったり来たりしていたし。
まさに速すぎる奴のやり方である。
まあ、というかだ。
「討伐の作戦、全員に役割があるから。君に抜けられたら困るんだよ。あと俺も怖いからロープを結んでほしい」
「……われはほんとにうちに甘いのう」
「そんなことないけど。俺も怖いんだけど。すごく怖いんだけど。恐怖で足が出ないんだけど。怖い怖い。……これだけ言ってるんだから信じてほしいんだけど」
「無理じゃろ」
なぜだ。
これだけしつこく言ってるのに。
……まあ、確かに別に全然怖くはないけどさ。
――都合二回ほど落ちかけたフロランタンだが、なんとか走り切ることができた。
やはり道中放った俺のあの言葉が効いたのだろう。
――「『君の素養』なら、落ちても死なないと思うよ」と。
「怪鬼」は、冗談みたいに筋力が上がるが、その筋力を維持・使用するに足るよう一緒に肉体も強化される。
簡単に言うと、身体が頑丈になるのだ。
だから、たぶん落ちても大丈夫。
かすり傷くらいで済むだろう。
そう言ったあと「あ、そうか」と返事をしたフロランタンの動きの良さといえば、見違えたからね。
危険な場所で行動するのって、気持ちの問題が大きいから。
上手いこと切り替えられたんならそれでいい。
――ちなみに俺は、中途半端に高いのが結構怖い。
師匠の悪意を食らって崖から落ちた、あの時の記憶が蘇るから。
これで克服もした方だと思うんだけど、なかなか忘れられないんだよね……高すぎる、低すぎるなら、逆に大丈夫なんだけどね。
絶壁に添って、少しずつ下りながら移動し、最後は設置されていた縄梯子で地面に降り立った。
「全然平気じゃったわ」
うん、後半は本当にね。
落ちても平気なら、恐れる理由がないもんね。
「すまんかったな、エイル」
「全然。俺も怖かったから。ほんと怖かったから。高いところ怖い」
「……それもすまんの。嘘臭いことこの上ないんじゃ」
…………
まあ、確かに嘘ですけども。
俺とフロランタンに結んだロープを解き回収し、
「おうエイル、こっちじゃ」
その間に、フロランタンは先行している面々が残していったメッセージを見つけていた。
ちょっとぐずぐずしたので、教官たちも候補生たちも、とっくに姿は見えない。
気配を探っても……ちょっとわからないな。結構離されているかも。
他に行く場所もないので、恐らく森に突っ込んだのだろうとは思うが……
その予想は当たっていて、その辺の木にぼんやり光る矢印が書いてあるのを、フロランタンが見つけた。――リオダインが魔法で残していった書置きである。
「行こう」
課題は始まったばかりである。