235.メガネ君、ハイドラに誘われるが断る
本当に慣れたな。
夕陽に染まる空の下、山のように大きな牛が歩いているこの光景。
ふいに感じる地響きも、ふと視界に入る巨大生物の強烈な存在感も、今ではすっかり慣れた。
聖巡牛。
最初こそ身も凍るほどの恐怖を覚えたが、今ではむしろ、あれがいない光景の方が不自然に感じてしまうかもしれない。
何せ本当に毎日見ているから。
なんなんだろう。
あんな大きな生き物がいるのにも驚いたけど、なんの理由があって歩き続けているのか。
教官の話によると、残っている資料を見る限りでは、少なくとも数百年はああして歩いているそうだ。
あの牛が歩いているコースは一定で、地面はすっかり踏み慣らされているとか。
コース上には林や川を跨いでいるらしいが、もはや牛が通ることが前提となっているらしい。
その内近くで観察を――いややめておこう。危ないものにあえて近づく趣味はない。
……「ただの大きな生物」と言うには、もう桁が違うもんなぁ。あれは人が関わっていい生き物とは思えない。
「――牛がどうかしたの?」
ぼんやり聖巡牛を眺めていると、後ろから声が掛かった。この声はハイドラだな。
「そっちも買い出し?」
後ろから来たということは、クロズハイトへ行く転送魔法陣側から来たということだ。
ここは塔の目の前で、転送魔法陣の出入り口近くだから。
俺たち魔物狩りチームは午前中に狩りをし、午後はリオダインたちに合流した。
昼食を食べて、予定通り買い出しに繰り出す。
ベルジュが今日の料理当番であることを加味し、時間短縮を狙って手分けして買い物をし、俺も今戻ってきたところである。
「ええ。課題の準備」
同じように荷物を背負ったシスター姿のハイドラが、俺の隣に並ぶ。
彼女と牛を見るのは、ブラインの塔に来た時以来か。
あの時はリッセもいたけど、今は二人きりだ。
いや、というか、お互い帰りが一緒になっただけだけど。
「神秘的よね。ただの生き物とは思えないわ」
同感だ。
「あれはなんなんだろうね」
「さあ。あえて言うなら魔物の類な気がするわ。何にしろ、ただの動物ではないでしょう」
魔物か。
確かに、ただの生き物と言うよりは、魔物の可能性の方が高いかも。
――あの巨体が攻撃意志を持って人間を襲い出したら、人は滅ぶだろうなぁ。魔物かどうかはともかく、生き物を襲わないことは救いだと思う。
「作戦は決まった?」
おっと。話が変わったな。課題の話か。
ハイドラはもう、牛はいいらしい。
俺はもう少し見ていたかったけど……まあ、俺も暇なわけではないから、もう切り上げるか。
「だいたいは。あとはゾンビ兵団を見てから多少の変更があるかも」
「こっちもそんな感じね」
そうか。楽しみだな、暗殺者チームの作戦。
詳しい内容を聞けるのは課題が終わってからだから、今は期待を膨らませるだけだ。
――塔での生活が始まり、いくつかの訓練をこなしてきたが、ハイドラとの関係はあまり変わってないと思う。
強いて言うなら、必要な時に意見を求められたり、俺もたまに質問したりする程度だ。同じチームならもう少し仲良くなっていたかもしれないけど。
「――おかえり」
あ、シュレンだ。
ハイドラの後ろにある魔法陣側から、もう一人戻ってきた。珍しい黒髪に黒目のシュレンである。荷物があるので彼も買い出し組だったようだ。
「……」
シュレンはハイドラに対し、挨拶代わりに一礼すると、スタスタ行ってしまった。
…………
「彼と話したことある?」
そんなことを聞かれたけど、今同じことを考えてました。
「いや。実は一度もないんだよね」
シュレンとは話したことがないんだよなぁ、と思っていましたよ。
というか、俺は声さえ聞いたことがない。
話すどころか、接点らしい接点もないんだよね。
あるとすれば、対抗戦の最後の辺りくらいなものである。
「何? 険悪なの? そんなことないわよね?」
「うん。それはないと思う」
ただ、やっぱり似ているからだと思う。
お互い「あまり人と関わりたくない」と思っているから、俺と彼では摩擦がないんだろう。
特に話す用事もないし。
仮に用事があるなら、ハイドラ辺りから通してもらうし。彼も誰かを通してきそうだし。
まあ、別に全員が仲良くしなければいけないわけじゃないからね。
これはこれでいいと思う。
主題はやっぱり修行と訓練と課題だから。
「――ああ、そういえばいいところで会えたわ」
そろそろ塔に戻ろうか、と言い出そうとした矢先に、ハイドラが言った。
「今度の課題が終わったら、エイルの時間を何日か私にくれないかしら?」
……ん? え?
「何日か? 数日って意味?」
なんだその区切り。
半日、あるいは一日くらいならわかるけど、何日か?
「そう。数日って意味」
…………
「悪いけど無理」
何をするかも聞いていないけど、何があろうと数日は無理だ。
訓練がある。
ここに居られる時間は、残り半年を切っているのだ。一日たりとも無駄にはできない。
正直、今日の午前中を拘束されたのさえ、ちょっと嫌だったくらいだ。
イライラしたせいで「金を出せ」だなんて暴言を吐いてしまった。
ちょっと後悔している。
反省はしてないけど。
あいつらにはどうしても一度言ってやりたかったから。
「そう。そうよね」
と、ハイドラは二度三度頷く。もっともだわ、と。
「何人か声を掛けたけれど、一人も承諾しなかったわね」
……というか、だ。
「君も訓練したいんじゃないの?」
一日たりとも無駄にできない気持ちは、ハイドラが一番大きいと俺は思っていたけど。
だから彼女は、規則や決め事にはすごく厳しい。
料理当番をサボッていたり、いい加減な仕事をしたら、相手が誰であっても注意していた。
そして手が足りないと思えば率先して動いていた。
だから、やはりここで過ごす時間を一番大切にしているのは、彼女だと思う。
そんな彼女だから、暗殺者チームからも魔物狩りチームからも、信が厚いんだと思う。
俺もハイドラのことは信用しているし、彼女が声を掛けてくる用件なら、何も言わずに手伝ってもいいとさえ思う。きっと必要なことだと疑う気もないから。
でも、さすがに数日も掛かる用事なんて、ないだろう。
さすがに付き合いきれない。
「ちょっと厄介事があってね。どうやら私が出た方が良さそうな案件があるの。実は――」
「待って。内容を聞いたら逃げられないやつじゃない?」
「…………」
…………
「ん? なんのこと?」
うわ、いい笑顔。……図星か。
「そろそろ塔に戻ろうか」
「あら。もう少しゆっくりしてもいいんじゃない?」
絶対イヤです。