192.メガネ君、サッシュとハイドラに相談する
「――うお……す、すまん!」
いやいや。
「サッシュ。待って」
部屋を覗いて絶句し、慌ててドアを閉めた青髪の男を、俺は呼び戻した。
「いや、……と、取り込み中だったんだろ……?」
ん?
まあ、取り込み中ではあったけど。
「ハイドラが化粧のしかたを教えてほしいっていうから」
だから彼女の顔に化粧をしていただけである。
というか、サッシュの目にはどういう風に見えたんだろう。
「お、おう……そうか。俺はてっきりキス……いや、なんでもねえ!」
…………
まあいい。
言いたいことはあるが、ちょっとつっこむと変な空気になりそうだ。……ハイドラが一切顔色を変えずニコニコしているのも、ちょっと怖いし。
――それよりだ。
「悪いね。呼び出して」
「いや、構わねえよ。今日から夜は孤児院にいることにしたからよ」
というわけで、サッシュにも座ってもらった。
「でもハイドラは? おまえが呼んだのか?」
もちろん。
サッシュとハイドラ。この二人は俺が呼んだ。
狩猟祭りが終わって丸二日が過ぎた。
あの日の熱気は完全に消え失せ、クロズハイトにはいつもの日常が戻っている。
さすがに二日酔いに苦しむ人もあまり見なくなった。……基本いつも酔っている、みたいな人も多いようだけど。
そして、俺が孤児院でお世話になり始めて、二日目の朝のことである。
「――ハイドラ、相談があるんだけど」
部屋だけはたくさんあるという孤児院の一室を貸してもらっている俺は、台所に立ち朝食の支度をしているハイドラに声を掛けた。
狩りに出るかどうか天候などを見て決めるので、狩人である俺も朝は早い方だけど、ハイドラは更に早い。
神に仕えるシスターだからかな、と思ったが、実は本物ではなく仮装の類としてこの格好をしているらしい。俺のメイド姿と同じ理屈で、また同じ理由だろう。
彼女もまた、暗殺者候補生だから。
「ありがとう。相談って?」
何も言わず包丁を取り、彼女と肩を並べて山盛りの芋の皮を剥く。今日の朝は芋か。何の料理になるんだろう。
「今は話せないから、夜になったら俺の部屋に来てほしい」
「今日の夜ね? わかったわ。――あ、そうそう。私もエイルに頼みたいことがあったの」
「頼み? 俺に?」
「お化粧を教えて。あの変装は見事だわ。ぜひ身に付けたいの」
ああ、化粧か。
あれはすごいよね。顔が変わるからね。
覚えるのは大変だったけど、自分でも覚えてよかったと思っている。
ただ。
「俺は取り立てて上手いわけじゃないよ。ちゃんと覚えたいなら上手い人に頼んだ方がいいと思うけど」
なんというか、俺は「エルの顔にする化粧」だけ知っているのだ。
アドリブとか応用とか、そういうのはまったくである。たぶん何度もやらないと自在にはできないと思う。
そして、そういうのが詳しいのは、やはり大人の女性になるのではないだろうか。
「充分よ。私はまだ基礎もないから」
そうか。
じゃあ、基礎くらいなら教えられるかな。
というか俺ももう少し化粧を学び……いや、やめておこう。
今はまだひょろひょろだし小柄だが、こう、俺もそのうち背がぐーんと伸びてもっさりヒゲも生えて、姉と似ているなんて断じて言われない苦みのきいた男らしい男になる予定である。
そうなったら化粧でも誤魔化しきれないだろう。
どんなに厚くほどこしたって、俺の男らしいワイルドが内面から溢れてしまうに違いない。
覚えたことが無駄になりそうだから、化粧の世界のもっと深い部分へ踏み込まなくてもいいと思う。
「じゃあ今夜教えるね」
「ええ。楽しみにしているわ」
「――サッシュ。ちょっといいかな」
朝食の芋の入ったシチューとパンを食べて、さっさと帰ろうとする青髪の青年を捕まえる。
まだ詳しくは聞いていないが、この孤児院のどこかに地下に行く扉みたいなのがあるらしい。その先にブラインの塔があるのだろう。
さっきブラインの塔からやってきたサッシュは、朝飯を食って、これからまたブラインの塔に戻るところなのだ。
「おう、なんだ。――あ、わかった。ベーコンだろ? 食卓にベーコンを用意してガキどもに食わせてやりたいんだろ? うまいよなぁ魔豚のベーコン。わかったよ。金やるからでけぇの買っとけよ」
……うん。
それに関しては同感でしかないから異論はないが、その話じゃない。確かにベーコンはすごくうまいけど。
あと、賞金を貰ったからってそんなにぽんぽん散財していいのかと言いたいが……子供じゃないし、さすがに口出しが過ぎるかな。サッシュは俺より年上だし。
セリエとフロランタンが子供たちを連れて外へ出たのを気配で察知し、ここに俺たち以外いないことを確認して口を開く。
「今夜空いてるかな? 俺の部屋に来てほしいんだけど」
これだけ簡単にブラインの塔と行き来できるなら、夜にちょっと孤児院に来てもらうこともできるんじゃないか。
そう思っての誘いである。
「呼び出しか。エイルからって珍しいな。わかった、今夜な?」
――俺もしばらく夜はこっちに泊まるかなぁ、などと言いながら、サッシュは孤児院の奥へ行ってしまった。
これでいい。
あとは、夜を待つばかりである。
というわけで。
夕食が終わってしばらく経った頃、ハイドラとサッシュに来てもらった。
俺の借りている部屋は石造りの建物にある一室、小さな部屋である。……が、小さいながらもベッドとテーブルとイスが全部部屋に置けるだけ、俺にとってはちょっと広めである。
王都の宿とか、暗殺者の村の寮とか、娼館街の使用人部屋も、結構狭かったからね。
ハイディーガで住んでいた部屋が一番大きかったと思う。
ついでに言うと、故郷の村では姉と二人部屋で、やっぱりかなり狭かった。
二人にはベッドに座ってもらい、俺は二人の正面に椅子を運んで座った。
「二人とも、来てくれてありがとう。ちょっと相談があって」
「ハイドラはわかるけど、俺もか?」
頭を使うことには自信なさげなサッシュだが、大丈夫。
「むしろハイドラより君の方が深い関係者だからね。外せないんだ」
「あ? 関係者?」
ここまで言えば、ハイドラはわかったようだ。サッシュは……ちょっとわかってないみたいだけど。
「もう率直に言うけど――セリエとフロランタンは、ここがブラインの塔の入り口だってわかってるのかな?」
――そう、俺の相談事とは、あの二人がブラインの塔のことを忘れているんじゃないかという危惧である。
昨日一日見ていたが、不安になってしまったのだ。
だって、あの二人すごく孤児院の生活に馴染んでいるから。
特にフロランタンが。