152.交差する夜 3
およそ数秒もなかっただろう。
「…っ!」
不穏を嗅ぎ取ったコードの選択は早く、選んでしまえば行動も早かった。
コートのポケットにいつも仕込んでいる目くらましを投げつつ、コードは金髪の少女から逃走を図った。
――読みを誤った。
「新しくやってきた孤児院の少女」は、穏やかで人当たりもよく、新参者らしく生温い。
そう聞いていたコードは、ゼットの危急を打開する切り札として考えていたが、読みを誤った。
あれは、攻め込んできた忌子より厄介だ。
実力はまだまだわからないが、自分と同じように「決めたら速い」タイプだろう。
決めるまでに迷いはしても、決めてからは絶対に迷わないタイプだ。
そんな彼女は、すでに「ゼットを殺す」ことを決めていたようだった。
「……うーん。どうしたものやら」
まるで追手を撒くために作られたような。
歪で規則性のない、しかし偶然なのに必然を感じる、貧民街の複雑な狭い路地を走り闇に紛れたコードは、一人ずつしか通れないだろう隙間のような道に潜り込んで零した。
足音はない。
追って来てはいない。
耳を澄ましてそれだけ把握し、さて次の手を――と考えたところで、思考が止まった。
「――落とし物ですよ?」
それは頭上からだった。
声と共に、白い左手が下りてきた。
その手には見覚えのある小袋――さっきコードが地面に放り投げた目くらましの粉が入った革袋が三つあった。
「……広がる前に拾ったのかい?」
上を見れば、淡い月明かりを背景に、低い屋根の上にしゃがんでこちらを見下ろしている金髪の少女がいる。
「目の前でポケットに手を入れましたから。暗器を握ったことくらいは誰でも予想できます」
白い手からポロッとこぼれた小袋を、慌ててコードは受け止める。こんなところで爆発されては自分が困る。
「安心してください。ゼットさんを殺す気はありませんよ――少なくとも、まだ」
それが信用できないから逃げたわけだが――いや。
「そうか……それもそうだね」
小袋をポケットに戻しつつ、自分の過ちにようやく気づいた。
――少女が本気で殺す気ならわざわざ言わない、と。
「本気だったら、黙って近づいて黙って殺す方が合理的だね」
「そういうことです。言わなくていいことを言ったところで、相手に警戒されるだけですから。なんの得もありません」
と、少女は屋根から飛び降りた。
「行きましょう。あなたの言う通り、あの子が殺されるのは本意ではありません」
現場は、コードが予想した通り、悪化していた。
「――おまえなんで怒ってんの……?」
口からも頭からも鼻からも血を流し、裸のまま地面を転がされたせいで至るところを擦り剥きまくって満身創痍のゼットと。
「――自分の胸に聞いてみぃや!」
ここに来た時より怒りの感情が増幅している……見るからにこっちは無傷の忌子が、がーっと吠え立てていた。
「うわあ……派手にやられたねぇ」
「あぁ? ……てめぇか。おせぇよ」
ゼットは、この場にコードがいないことに気づいていた。
部下たちの顔なんていちいち覚えていないが、自分の頭脳や手足と認めている者のことは常に気に掛けている。
コードがここにいないということは、この状況を打破するために走り回っているに違いない。
そう確信していたから、少しの間だけ時間稼ぎをしていたのだ。
――ゼットは自分がバカだという自覚はあるが、さすがにほぼ一方的にボッコボコにされ続けていれば、嫌でも理解する。
何度も仕掛けて返り討ちにあっているのだ。
このままではどうしようもないということくらい、バカでもわかる。
「フロちゃん、気は済んだ?」
連れてきた少女は――顔見知りであることを証明するように、忌子の名を呼びながら近づいていく。
「おう、セリエか。われも参加してくか? ちぃとはすっきりするぞ?」
「いえ、それより、ゼットさんに会ってみた感想を聞きたいんだけど」
「感想か」
と、忌子は腕を組む。
「……少し殴っただけじゃけぇなんとも……ただ、戦い方が、ケチなことをするタイプには思えんかったのう。倒れとる人に気を遣って場所取りもしとったわ。
冷静に考えると、無関係である可能性は否定できんかもわからん」
なんてセリフだ。
散々ボッコボコにしておいて、彼女の怒りとゼットが無関係である可能性があるとかないとか。
「そんな言い方なくない!? 怪我をしてる人もいるんですよ!? ――ひえっ」
基本離れて隠れて様子見の体勢を崩さないキーピックが口を出し、見られて引っ込んだ。
彼女の言い分もわからなくはない。
が、友人がボッコボコにされているのを離れた場所から静観している奴も、あんまりな気はする。
「ならば事実関係を確認してから、続きを行うというのは?」
「そうじゃのう。そうするか」
ここにきて知り合いに会って怒りがやや沈静化した忌子に対し、
「てめぇらさっきから勝手な――」
逆にようやく怒りが込み上げてきたゼットがいきり立つ。
が。
「まあまあ、まあまあ」
コードに宥められ、彼はゼットの前に立つ。
「確かに彼は粗野で粗暴で口も悪いし手癖も悪い。
悪いことの半分……いわゆる軽犯罪の類は、別に悪いこととは思ってない節もある。
けど、貧民街の住人を怒らせるようなことはあんまりしないんだ。
何せ彼も僕も、ついでにこの辺で倒れている連中も、ここの出身者ばかりだからね。
さすがにいろんな人の世話になって生きてきた場所で、派手に悪いことはしない。
だから僕も不思議だった。
なんで彼女はこんなに激しく怒っているのか、ね。
その理由がわからないと、やりようがなかったしね」
――ゼットも、その辺がわかっていれば、ほかのやり方を考えただろう。
なんなら殺し合いにまで発展していたかもしれないが。
でも、それでも一方的にボッコボコにされるよりは、話が進展していただろう。良し悪しは別として。
「聞きましょう? ゼットを恨む理由を。何があったんだい?」
「――とまあ、簡単に言えばこんな感じです」
「うちは口下手じゃけぇ」と説明役を任された金髪の少女は、本当に簡単に概要だけ説明した。
曰く、「ゼットの配下を名乗る者たちに嫌がらせをされた」と。
「子供に手ぇ上げたけぇのう」
「ええ。ほかのことはこの街のルールとして黙認しなくもないですが、あれは許せません」
それはゼットやコードも同じである。
この街で幼少期から過ごした者なら、だからこそその行為に対する嫌悪感は強い。
「一度二度と撃退はしましたが、あれはいただけなかった」
「いただけない、とは?」
「――『素養封じ』を持って攻めてきました。わたしや彼女、子供たち、孤児院の責任者や職員と、明確に全員の命を狙って来ましたので」
気になるワードはあったが、そもそもの話がようやく理解できた。
「それは怒るねぇ」
命を狙われた。
自分のことだけならまだしも、周辺の人も狙われた。
子供という弱者まで見境なく狙いに来た。
――怒らない理由がない。
――そして忌子の方が甘いとさえ思える。
お仕置きなんて生温い。コードならその時点で関係者全員を殺す対象と考える。
「殺せそんな奴」
ちゃんと話を聞いていたゼットでさえ、半分キレている。本気でキレていたらもう理性はなくなっている。
「こっちはわれの仕業じゃいうとんのじゃ。自殺すんのかい」
「しねぇよ! つーか俺じゃねぇ!」
「自殺はアレじゃろ。いかんじゃろ。もっと命大切にせぇ」
「だから俺じゃねぇんだよ! 何が『素養封じ』だぁ、誰かをブッ殺すのにそんなもん使うかよぉ!」
「じゃろうな」
忌子は穏やかな笑みを浮かべる。
「われの拳からは邪気を感じんかったけぇ。自分の身体、自分の腕一本で生き抜いてきた、小細工を使わない奴の拳じゃ。良くも悪くもまっすぐな奴じゃてすぐわかったわ」
「――すぐわかったならなんでボッコボコにしたんだよぉ! あぁ!? 全身いてぇんだけど!? 全身いてぇんだわ!」
まあそれはそれとして、話は進む。