148.メガネ君、なんとか今夜をやり過ごす
豪雨のような後悔が降りそそいでいる。
今後のことを考えると、頭を抱えたい気分だ。
だが、今は置いておこう。
このままだと溜息で埋まってしまいそうなので、俺は振り返った。
まだ目を潰されたままのベッケンバーグは、戦闘が始まった音を聞いた瞬間に退避したようだ。
片隅のテーブルまで移動し、その下に丸い身体を更に丸くして避難していた。
うーん、目が見えなくてもやはり抜け目ないな。
見た目は情けなくとも、正しい判断をしていると思う。流れや巻き添えで怪我なんてしたくないからね。
しかし、アディーロばあさんは違う。
彼女はテーブルに座ったままで、今目の前で繰り広げられた戦闘など興味がないとばかりに、平然とグラスを傾けていた。
俺としては、興味津々で見られるより、こっちの反応の方が引っかかりを覚えるが……
「……あんた何者?」
リッセは、うん、わかりやすい。
興味もあるだろうけど、それより先に怪訝、不可解って顔に書いて俺を見ている。
なお、やはり俺の正体はバレていないようだ。
まあまだ疑ってはいるかもしれないが。
彼女だってバカではないから。
むしろ真面目すぎるせいで失敗が多いみたいな、そんなちょっと残念なタイプだから。
「――支配人。帰りましょう」
当然リッセは無視するとして。
俺は護衛として、もうここにはいられないと判断している。
この状態で、更にこれから何か予定がある、なんてこともないだろう。もう帰っていいはずだ。
「そうだね。あんたが最後の仕事をしてくれたらそうしようか」
最後の、仕事……?
「――やるじゃねぇかてめぇ! あぁ!?」
…………
そうですね。
勝負には勝たせてもらったけど、まだゼットを追い払ったわけじゃなかったですね。
俺が持ちかけた勝負の方法は、ゼットは俺を叩きのめすこと。
そして俺は、ゼットをレストランから追い出すこと。
勝敗は別として、勝負としては決着は着いたわけだが。
「…………」
視線を向ければ、今しがた外までぶっ飛ばされたゼットが堂々と歩いて戻ってくる。
ニヤニヤしながら。
俺を見る双眸に強い狂気を帯びながら。
「気に入ったぜぇ! 何がどうなったかさっぱりわかんねぇが、久しぶりに死ぬかもしれねえって思っちまった!」
あ、そうですか。楽しそうでいいですね。
「約束しましたよね? 今日のところはお引き取り願えませんか?」
「延長だぁ! なんなら追加料金だって払ってやるよぉ!」
……ああ、そう。
まあ、ゼットにはなんの得もない勝負事だった。
約束を守ってくれるかどうかは最初から怪しかったから、この出方も一応想定はしていた。
一番の希望は、やっぱり約束を守って帰ってほしかったけどね。
「やろうぜ! どっちかがイッちまうまで! トコトンよぉ!!」
…………
「今日はもう解散しません?」
「ハァ!? 俺をその気にさせといてそりゃねえだろうがぁ! あぁ!?」
勝負で勝っただけですけど。その気にさせた覚えなんてないけど。
「どっちにしろ、この状況では私は全力を出せませんよ。アディーロ様を守りながらあなたの相手なんてできるわけがない。あっけなく私が負けておしまいですよ」
「そんなババア先に帰しちまえよぉ! 遊ぼうぜぇ! 死ぬまでよぉ!」
うん。絶対嫌ですね。
今にも襲い掛かってきそうなゼットは、すでに殺気が漏れ出している。
まるで可燃性のガスのように。
さっきベッケンバーグを恫喝した時のように、一瞬で爆発しそうだ。
正直、かなりまずい状況だった。
果たして俺とリッセで、本気になったゼットを止められるだろうか?
勝算は、かなり低い。
だが、やらないわけにはいかない。
先制を取られて一気にやられるくらいなら、先手を取った方がまだ勝ち目はあるか――そんな風に腹を括ろうとした時だった。
「――ゼット! いつまで遊んでるの!?」
狂気に染まる彼を止めたのは、俺より一つ二つは年下だろう、帽子をかぶり身軽な格好をした女の子だった。
突然やってきた彼女は、レストランに入ってくるなり、まっすぐにゼットに近づき――
「……ハァ!? なんだそりゃ!?」
何かを耳打ちして、ゼットの殺気を霧散させた。
「いいから早く来て!」
「おい待てまだっ……くそ! おいメイド! てめぇとは絶対に遊ぶからなぁ!」
あ、はーい。絶対嫌でーす。
女の子はゼットの腕を取ると、強引に引きずって行ってしまった。
突然の回収劇だったが……正直、ものすごく助かった
手加減しているゼットに、対する俺は全力で、それでようやく一瞬上回れたのだ。
もしゼットが本気を出したら、俺に勝ち目なんてあるはずがない。
そもそも勝負にもならないだろう。
きっと逃げ切るくらいしかできないと思う。
というか、俺が一人だったら、絶対に相手しないで逃げてるよね。あんな危険人物と好き好んで関わりたいとは思わないし。
それにしても、どうしてゼットは引き上げたんだろう。
あの女の子は彼に何を吹き込んだんだろう。
何かを告げられたゼットが、かなり動揺していたのはわかったが――あれ?
「ベッケンバーグ様!」
ほぼゼットと入れ替わりで、また誰か来た。彼は……金属鎧を着込んだ、兵士のようだった。
きょろきょろと店内を見回しベッケンバーグを探す彼に、俺は手で示した。
あちらですよ、と。
ベッケンバーグがテーブルの下に隠れている方に向けて。
「――ベッケンバーグ様! 今すぐ屋敷にお戻りください!」
兵士はベッケンバーグのもとに駆け寄るなり、そんなことを言った。
「誰だてめぇうるせぇな! 目がいてぇんだよ!」
そうなんだ。ごめんね。でもおっさんがリッセを嫌な目で見るから悪いんだよ。……まあ、塩で目を潰した理由の九割は、俺の戦う姿を見せないためだけども。
「ゼ、ゼットの仲間たちが屋敷に詰め掛けて! か、金目の物をかっぱらって!」
「んだとぉぉぉ!!!!」
驚愕すべき兵士の言葉を聞き、ベッケンバーグはテーブルを持ち上げるようにして勢いよく立ち上がった。
…………
ああ、そういうことか。
ベッケンバーグは、ゼットを殺すつもりでここに誘い込んだ。
正確には、自分とアディーロばあさんが今夜このレストランに来ることを漏らし、ゼットをおびき寄せた。
それに対し、その意図がわかっていたゼットは、ベッケンバーグ不在を狙って彼の屋敷を強襲、財産をかっぱらった、と。
「おい! おまえちょっと俺を先導しろ!」
「は、はい!」
おじいちゃんよろしく、ベッケンバーグは兵士に腕を引かれて、痛い目をこすりながらレストランを出ていった。
「――くそっ! 『素養封じ』が盗まれなけりゃ、ここであの蠅を潰せていたのに!」
気になるぼやきを残して。
人が減り、静まり返るレストランの中、俺の溜息の音だけが漏れた。
……なんとか助かった、かな。やれやれ……




