144.メガネ君、ゼットと遭遇する
シュボッ
魔核を金属製の小さな何かに埋め込んだ、簡易着火機器……後に名前を知る「ライター」というもので、ベッケンバーグは咥えた葉巻に火を点けた。
「……ふう」
もうもうと立ち上る紫煙を高らかに噴き上げる。……不思議な匂いだな。若干臭い気もするし、かすかに甘い香りも混じっている気がする。
キセルに詰めるような葉タバコは、村で愛用している人もいたけど、葉巻ははじめて見る。
ああいうのはお金持ちが嗜むやつってイメージが強いけど、実際はどうなんだろう。
やっぱり高いのかな。
まあ、値段がどうであろうと、タバコや葉巻は嗜好品なので、貧乏な俺には縁がないけどね。
「……」
ベッケンバーグの後ろに控えるリッセが一歩引いた。
どうやら彼女には臭いらしい。
粗方の食事が終わった後も、アディーロばあさんとベッケンバーグは席を立たない。
恐らくは高級酒であろう聞き慣れない酒を頼み、まだ話をする姿勢である。
「――…………」
運ばれてきた、透明度の高いグラスに注がれた琥珀色の酒を傾けつつ、ベッケンバーグは煙をくゆらせる。
……不思議だなぁ。
頭は寂しいし首は脂肪で苦しそうだし腹は出てるし、決してカッコイイとは言いづらいおっさんだ。
なのに、なんか渋い。
背中を丸めて酒を舐め、時々ナッツを齧り、葉巻を楽しむ様は、まさに大人の男という感じである。
かっこよくはないが、すごい味がある。苦み走った中年と言うか。
「――…………」
アディーロばあさんは元々渋いので、まあ、いつも通りである。ベッケンバーグと同じ酒を飲んでいる。
何かまだ話すことがあるのかと思いきや、二人は黙ったまま酒の時間を過ごしている。
正直言って、俺はそういうのは各々の自宅で一人で楽しんでほしいのだが。
何もしないなら帰ろうよ。
いくら護衛だからって、意味がわからない無為な時間をただ待っているのはつらいよ。
だが、その意味を知るのは、この直後だった。
「…っ!?」
俺が動くのとリッセが動くのは、ほぼ同時だった。
二人が座るテーブルと出入り口の直線状に割り込み、身構える。
なお動く際に俺は、近くの空席のテーブルに並べてあったフォークを、思わず手に取っていた。
自前のナイフ一本では心もとないと思ったからだ。
今の俺なら、大抵の者なら素手でどうにかできる自信があるし、その場の状況でなんでも使えると思っていたが。
――だが、まさかこんなのが来るなんて、思いもよらなかった。
「ぐあっ!?」
誰かが背中から店に入ってきた。
外で見張りに立って冒険者みたいな男だ。
ものすごい勢いで出入り口のドアを乱暴に開き、床を転がり倒れた。
「――よう、老害どもぉ! 遊びに来たぜぇ!」
開いた出入り口から悠々と入ってきたのは、一人の青年である。
一目見てわかった。
こいつはまずい。
俺にとっては三重の意味でまずい。
まず、なんで裸なんだってことに触れたいが、それよりもこの気配と雰囲気だ。
そう、ヘンタイなのは今は置いておく。
それにしてもあの夜に会ったヘンタイ泥棒といい、逆ハーレムを築き上げて特殊なパンツを履かせて喜んでいるセヴィアローお嬢様といい、この裸男といい、本当にヘンタイが多い国だ。
それはともかく。
この男は強い。
かなり強い。
肌に感じる重圧感だけで言えば、黒皇狼を見た時と同じくらいの危険度である。
俺とリッセが警戒したのも、この雰囲気ゆえだ。
見るまでもないが一応確認した数字は「0」である。まともにやりあえば俺に勝ち目はない。
もう一つのまずいことは、裸だ。
下は黒い革パンを履いているが、上は丸裸である。
恐らくはまだ十代の青年だ。
俺やリッセより一歳か二歳上だろうか。
幼さはないが大人とも言い切れない、老いを感じない顔立ちである。
身体も大きくはないが、体格だけで言えば中肉中背と言えるのではなかろうか。
ただ、その裸が問題だ。
何をモチーフにしたのかわからないが、引き締まった筋肉質な上半身の至るところに、派手なタトゥーを入れている。
きっと自慢のタトゥーをみんなに見てほしいがために、上半身裸なのだろう。
白に近い金髪は無造作に短く刈られたかのようにボサボサで、灰色の瞳には知性を感じない……むしろ怒った動物や魔物が見せる、ある種の狂気を感じる。
そして、裸だけに武器類を一切持っていない。
つまり、素手で黒皇狼に匹敵するかもしれない、ということだ。
さすがにそれはないとは思うが……わからない。
強さが正確に読めないのは間違いないが。
「――おい太っちょ。この場をエサにしたな?」
「――ハッ。さっき協力するって約束しただろ?」
「――貸しだからね?」
「――わかってるよ。つってもアディーロにも損はないと思うがな」
この騒ぎに動じていない、テーブルの二人の会話が聞こえてくる。
そうか、やはり――
こいつがゼットか。
どうやら想像以上の危険人物のようだ。
それに、こいつは……
「――もしかして待たせたかぁ? あぁ?」
「ぐえっ」
裸のタトゥー男が、まっすぐこちらへやってくる。
途中にいた、奴が殴り飛ばしたか蹴り飛ばしたかした見張りの冒険者を踏みつけて、まっすぐに。
「――ハハッ? 出迎えかぁ? 悪ぃが俺はガキに興味はねぇぜぇ?」
一触即発だった。
ゼットが何かしたら、妙な動きを見せたら、俺とリッセは仕掛けるつもりだった。
なのに奴は、身構える俺たちに無警戒に歩み寄り軽口を叩くと、そのまま俺とリッセの間を通り、テーブルに着いてしまった。
――俺たちなんて眼中にない、と言わんばかりに。
「まあ、ちょいと待てよ」
もはやリッセも、こいつがゼットだと気づいている。
そしてベッケンバーグもだ。
「少し話をさせてくれや」
その上でベッケンバーグは、リッセに「まだ仕掛けるな」と釘を刺した。
……つまり、話のあとは仕掛けていいってことか。
はっきり言って勝てる気はまったくしないが、……護衛なんだよなぁ俺。無関係なら間違いなく逃げてるんだけどなぁ。
こうなってしまえば仕方ない、か。
俺と同じく護衛としてここにいるリッセは、渋面を隠そうともせずに、ベッケンバーグの後ろに戻った。
俺も今はアディーロばあさんの後ろに控えるか。
「――こんな無礼なガキが同席するなんて、聞いてないけどねぇ?」
まるでこの場を支配しているかのように、テーブルに足を投げ出して座っているゼットに対し、アディーロばあさんはいつも通り穏やかである。
「――でも俺のこと待っててくれたんだろぉ? 素直じゃねぇババアだなぁ?」
そんなアディーロばあさんに、ゼットはニヤニヤしている。
「――じゃなきゃ『今夜ここで会う』なんて情報を漏らして長居なんてしねぇだろぉ? あぁ? お望み通り来てやったんだぜぇ?」
……なるほど。
黙って酒を飲んでいたあの時間は、この男が来るのを待っていたからか。
「――待っていたのはそこの太っちょだ」
「――あ? なんだよつまんねぇなぁ。俺ぁよぉ、ハゲのデブよりはババアに会いたかったけどなぁ? 女には優しくしろって教わったからよぉ」
「――はは、なんだい? その歳になって子守歌が恋しいのかい? あんたの墓前で歌ってやるよ」
「――ハハッ。相変わらずおもしれぇババアだなぁ。あとでたっぷり相手してくれよなぁ」
そしてゼットは、ニヤニヤした顔をベッケンバーグの方に向ける。
「――で? 俺を呼んだのはてめぇってことでいいんだよなぁ?」
「――ああ」
黙って葉巻から昇る煙を見ていたベッケンバーグは、ぎゅっ、と葉巻の火を灰皿に押し付けた。
「――いい加減、目障りな蠅を潰してやりたくてな」
ベッケンバーグのギラギラした瞳が、ゼットを見据える。
「――おまえ、そろそろ死ねや?」
……すごいな。
ベッケンバーグは全然強くない、腕っぷしもまるっきり鍛えていない素人である。
なのに、なんだこの眼力は。
強者にしか思えない威圧感は。
これが、無法の国の支配者の風格というやつだろうか。
きっと命に関わるような修羅場を何度も潜り抜けてきたのだろう、いかなる駆け引きをも乗り越えてきた者が持つ格というやつか。
「――ハハッハハッ」
だが、ゼットは動じない。
「――このクソ溜めでそんな脅しにビビるクソぁいるのか? あぁ? つまんねぇことしてるヒマがあるなら掛かってこいよ? 退屈だぜぇジジイ」
「――ふん」
ベッケンバーグは、テーブルにある瓶を放り投げた。
派手な音を立てて瓶が割れる。
きっと、それが合図だったのだろう。
「――ああ、言い忘れてた。店の周りにいたザコどもならよぉ、邪魔だったから片づけといたぜぇ? まあそれが遅れた理由なんだがよぉ」
この店に入る時も、入ってからも、周辺に人の気配は感じてなかった。
つまり、俺に気配を悟らせない程度にはできる人を、ベッケンバーグは何人も雇っていたのだろう。
そしてこの外食の意味は、ゼットを誘い出し殺すために設けられていた。
だが、伏兵はすでに倒れていて、助けは来ない……と。
…………
あれ? これもまた、まずい感じじゃない?
「――……おう、まあ、一杯飲めよ」
おっさん。ベッケンバーグ。冷や汗すごいぞ。しくじった、ってのが顔に出てるぞ。汗になって出てるぞ。
「――くせぇ老害の酒なんていらねぇよ」
ゼットがゆっくりとテーブルから足を降ろした。
その直後には、ベッケンバーグの胸倉を掴んでいた。
動きが速い。
だがそれ以上に、気配や感情の揺れが少ない。
一切反応ができなかった。
まさか今この時に仕掛けるなんて、思いもよらなかった。
「――てめぇは俺を殺る気だった。じゃあよぉ、今度は俺がてめぇを殺していいんだよなぁ?」
爆発のようなゼットの殺気が弾ける。
まずい。
本当にまずい。
間に合わない。
俺は一瞬遅れたが、しかし。
その瞬間を待ち望んでいたのであろうリッセは、速かった。
「――っとぉ!」
ベッケンバーグを掴んでいたゼットの腕を、容赦なく切り落としに掛かったリッセの剣撃を、ゼットは距離を取りながら回避した。
あのタイミングで、あの速度を避けるとか、ありえるのか。本当に人間か。……あ、教官にできそうな人がたくさんいたな。
それにしても、驚くばかりだ。
こいつ、まさか、本当にそうなのか?
「今のはヤバかったぜぇ。やるなぁてめぇ。面白じゃねぇかぁ」
ニヤニヤ笑いながら、ゼットはようやくリッセを敵と認識したようだ。
「多くは言わない」
リッセが口を開いた。
「おまえなんかと口を利く気もないから、理由も理屈も知らなくていい」
剣を構える。
暗殺者の村で、魔物狩りの時でさえ見せたことがなかった、明確な殺意を抱いて。
「今、ここで、必ず殺す」
剣のように鋭い殺気を、迷いなくゼットに向けて。
「――エイルの仇だ」
…………
ん?
…………
…………え?
……え? 俺? なんで今俺の名前が出た?
…………
えっ!?
まさか、さっき言ってた「死んだ仲間」って、俺のこと!?
「それに、サッシュとセリエ、フロランタンの仇……絶対に殺してやる」
…………
えっ? それに!? まだいた!?
いや、えっ!? 全員!? 全員なの!?
……いや、ちょっと……
あの……急に信憑性が低く、っていうか……
……リッセ、もしや勘違いしてないか? 騙されてないか?