139.メガネ君、無事帰宅
――無理か。
低いとはいえ、建物の屋根から俺を落として身代わりにして逃げたヘンタイ泥棒は、もう気配が消えている。
追跡は、無理か。
「おい、囲め! だが手は出すなよ!」
仮に、ずらりと俺を取り囲む男たちがいなくても、今から追いかけるのは不可能っぽい。
となると、ここから取れる選択は二つ。
一、逃げる。
二、情報を収集してから逃げる。
逃げるのは変わらないが、どのタイミングで逃げるかは慎重に選びたい。
この状況を突破したところで、そうすれば確実に、俺が犯人として認識されるだろう。
別に正体はバレていないのでそれでも構わないが――
――ただ、癪だよね。あのヘンタイにしてやられたままでは。
今後も夜間の調査は続けたい。
まだ全然この国を把握できていないのだから。
後日、また、あのヘンタイと遭遇しないとは限らないのだ。
というか、あれだけ入念にヘンタイ然とした服を用意したなら、たった一度の仕事用ではなく何度も使用するはず。あるいはしてきたはず。
俺と同じ時間帯に動いているなら、また見かけることもきっとあるだろう。
それに、あのヘンタイには大事なことを教わった。
そのお礼はしてやりたい。
木の棒だの包丁だの。
靴だのベルトだのズボンだの。
本だの木のジョッキだの酒ビンだの。
とにかく取る物もとりあえずといった体で、武器に使えそうな何かを持ってきて構えている男たち。
見た感じは面白くもあるが、敵視する感情と剣呑な空気は本物だ。
今にも俺を袋叩きにしてやろうという、危うい雰囲気に満ちていた。
俺は――両手を上げた。
「おれ……私は犯人じゃないですけど。なんなら連れて行って調べてくれて構わないけど」
今後のことを考えたら、やはりこれがベストだろう。
しばらく従い、情報収集だ。
ヘンタイが何を盗んだのか確認し。
――次に会ったらお礼くらいはしてやらないと。
「――いてっ」
ベルトで腕と足を縛られ、頭に袋を被せられてどこかに運ばれ――袋を取るなり、今落とされたところだ。
ガチャン、とやや重厚な金属音が聞こえた。
「そこにいろ!」
俺を担いできた男が吐き捨てるように言うと、そのまま去っていった。
…………うーん。
思った以上に問答無用だったな。
まだ後ろ手に縛られ、足も縛られているだけに、行動が取れないのだが。
なんとか身をよじって辺りの様子を見てみる。
ここは、恐らくは地下牢だ。
何も見えなかったものの、階段を降りている感覚があったので、本当にたぶんだが。
石積の頑丈そうな檻で、片隅の天井付近にある小さな窓から、月明かりが差し込んでいる。
明かりとなるのはそれくらいである。
まあ俺は「メガネ」があるからまだ見えるが。
それにしても、あんな位置に窓か。
中に入れた者が逃亡できないようかなり小さい作りだ。俺でも通れない大きさだな。
八割くらい地面に埋まっている的な感じなのだろうか。雨とか溜まったしたりしないんだろうか。
さっき金属音がした方を見れば、案の定の鉄格子である。
これが噂の檻か。
思ったより綺麗だな。
意外と埃っぽくないし、なんだかよくわからない物が落ちてるわけでもないし、臭いも特にない。
夏が過ぎた昨今にはやや寒いというだけで、意外とちゃんと掃除してあるようだ。
…………
しっかし本当に問答無用だったな。
無抵抗で主張すれば少しは聞いてくれるかと思えば、全然だったね。
思った以上に情報をくれなかったな。
ただ、まず袋叩きにすることもなく、俺の身体を探って何かを探す素振りもなく、縛って地下牢に押し込んだだけ。「マスク型メガネ」を外そうともしなかった。
これは恐らく――
「……来たか」
早足で迫る足音が、複数。
俺は壁際までずりずり這って移動し、月明かりの下――の、ちょっと横にスタンバイする。微妙に照らされない位置だ。
さて、誰が来るか。
「――貴様かぁ! 俺の店に忍び込んだクズは!」
なかなか上等な服を着た、格好は貴族っぽい男が、俺を見るなり怒鳴り散らしてくれた。
貴族っぽい男の後ろに控える武装した二人は、護衛だろうな。……ああ、強いなあれは。片方だけならまだしも、両方が相手となると俺には勝てないか。
はっきりはわからないが、やはり予想通りか。
俺を捕まえた男たちが、俺の調査をしなかったのは、「被害者の意向」だと思った。
そしてそんな命令ができるってことは、この国でそれなりの権力を持っている者であろう、と。
……で、やってきたこの男である。
格好は貴族っぽい上等な服を着ているけど、庶民感はすごいんだよなぁ。どう判断すればいいのか迷うなぁ。
「何を盗まれたのか知らないけど、私じゃない。現に何も持ってないけど」
「そのアホみたいな覆面にバカみたいな格好! 目撃情報通りだ!」
覆面。
頭部全体を覆う「マスク型メガネ」と、目と口が開いた白いマスク。
格好。
フリルたっぷりの漆黒のドレスと、ピッタリした革のツナギに白マント。
……うん、いや……確かにそういう風な特徴だけ言えば、あのヘンタイと共通しちゃうけどさ。
「色が違うでしょ。色が」
決定的に違う点を指摘したら、鋭い返し刃が飛んできた。
「夜だぞ! ちゃんと色まで判別できるか!」
あ、意外と正論。
俺が言い訳している風にしか聞こえない。
「だいたい、そんなバカ丸出しの格好で深夜フラつくような危ない奴が何人もいるか! まともじゃないだろ! まともじゃないアホがさもまともに聞こえる言い訳をするな! クズめ!」
…………
お、おい……ぐうの音も出ないんだけど……
「こっちにも事情が」
「黙れ! 早く盗んだ物を出せ! 今なら半殺しのあと娼館に売り飛ばすだけで許してやるから出せ!」
ああ、もうすでに半分は殺す気なんですね。
さすが無法の国、話が早いというかなんというか。
「いいか。貴様が何者かなんて聞く気はないし、背後に誰がいるかを確認する気もない。
だが、あれがないと俺たちは非常に困る。
こっちも命懸けなんだ。絶対に取り返すまでは殺さんし、死のうとしても許さんぞ。延々と生き地獄を味わわせてやるからな」
うわ、怖い。拷問もするつもりなのか。
「そんなに大事なものを盗られたの?」
「重要なのがわかってて盗んだんだろうが! じゃなければアレだけを盗むか!」
あれ、だけ、か。
「アレって何?」
「黙れ! おい、奴の服をひん剥いて調べろ!」
貴族っぽい男が、護衛にそんな指示を出した。
――どうやら情報収集できるのはここまでのようだ。
「――もう一度言うけど」
俺は、縛っているベルトから手と足を抜いて、普通に立ち上がる。
「な、なんだと……おい! カギ! 急げ!」
拘束しているはずなのに、拘束しているベルトはすでに石畳に力なく転がっているだけである。
逃げられる、と思ったのだろう。
理屈で言えば、逃げ場所はない。
むしろ檻を開ける方が、出口を開くことになるのだが。
しかし、その判断は正しい。
更に言うと、すでに手遅れ。
貴族っぽい男は、カギを持つ護衛を急かし、鉄格子を開けようとする。
「私は犯人じゃない。何も盗ってない。だから帰るね」
ガチャン
カギが開く音がして護衛が鉄格子を開けた瞬間、俺は「マスク型メガネ」を強く発光させた。
「俺のメガネ」は光るのだ。
任意で光らせることも可能だし、それなりに強い光が出るのも確認済みだ。
暗がりに目が慣れていた貴族っぽい男と護衛二人は、もろに光を直視して眼が眩んだようだ。
この一瞬が必要だった。
誰も見ていないこの隙に、俺は「霧化」をセットし、月明かりの差し込む窓に飛びつき――身体を「霧」に変えて外へ脱出した。
「――ただいま、っと」
そして何事もなかったように、娼館街の屋敷に戻ってきた。
「遅かったな」
あ、ダイナウッドが待ち伏せしてた。
「そう? まだ暗いけど」
まだ朝は来ていない。相当早い時間だと思うが。
「フン……早く部屋に戻――待て。服が異様に汚れている。何があった」
ああ、地面に落ちたり檻に放り込まれたりしたからね。
「屋根から落ちた」
正確には落とされたんだけど。
「おまえ……まあいい。脱げ。洗っておく」
はあ、すみませんね。お世話になります。
――あのヘンタイのことを考えるのは、明日だな。