138.メガネ君、身代わりにされる
愕然としたね。
「――っ!?」
向こうも相当驚いたようだが、俺だって相当驚いた。
ああ、相当だよ。
「マスク型メガネ」だからいつも以上に表には出てないだろうが、マスクの下では思わず口をあんぐり開けるほど驚いているさ。
あっヘンタイだっ、って。
「ヘ、ヘンタイ……!?」
「君が言うな」
もう一度びっくりしたわ。まさか俺をヘンタイ呼ばわりとは。なんだこのヘンタイは。
…………俺も人のことは言え……いやっ!
俺はやむにやまれず変装としてのアレだからアレなんだし、好んであんな格好してるあいつの方が本物のヘンタイだ!
わずかな月明かりが降り注ぐ無法の街を、俺は走っていた。
建物の屋根に登り、少し高いところから全容を見つつ、目立つ建物だのなんだのを見て回る。
さすがにこの時間に外を歩く人は少ないが、いなくはない。
酒に酔い潰れている者。
誰かにボコボコにされて眠るように気を失っている者
気を失っている者の身ぐるみを剥ごうとしている者。
靴を脱がせたら、恐らくこもっていた臭いのせいで激しく咳き込み嘔吐する者。
深夜には深夜の犯罪が横行しているようなので、やはり順当に道を行くよりは、こっちの道なき道の方が動きやすい。
それに、この屋根伝いの移動は「素養・砂上歩行」と非常に相性がいいようだ。
この「素養」は、鑑定の結果「足音がない。足跡がない。」とだけしか情報がなかったので、それだけを目当てに試しにセットしてみたのだが。
これはなかなかすごい「素養」なんじゃないかと思う。
まず、情報通り「足音がない」し「足跡が残らない」のだ。
ぬかるみなんかも「足跡を残さず」歩けるようだ。
不思議なことに、俺自身は俺の体重を足の裏に感じているにも拘わらず、足の裏で踏んでいる地面などには体重が掛かっていないらしい。
これで正しいかどうかはわからないが、地面から肉眼では判別できないくらいほんの少しだけ浮いている、と解釈するのが近いと思う。
足場に接地していない。
魔力の膜のようなものを張り、下への重さが発生していない。
だから「足音がない」し「足跡が残らない」のだと思う。理屈では。
「素養」は魔法のようなものもたくさんあるので、猫から登録した「砂上歩行」も、それらの一種なんだとは思う。
持ち主に色々聞いてみたいところだが、それは叶わないからなぁ。自分で試して発見していくしかないだろう。
――ちなみにドラゴンから登録した「暴風竜」は、まだ試していないし今は試す気もない。
「砂上歩行」と違い、こっちは前情報一切なしである。
自爆がすごく怖いから。
だから色々と落ち着いてから、安全面に気を付けてから試してみるつもりだ。
ほら、もしかしたら、使用したら急に暴風が渦巻いて腕がパーンとはじけ飛んだり……みたいな取り返しのつかない事故も、なくはないかもしれないわけだし。
だって「ドラゴンの素養」なのだ。
人の身に余る「素養」であっても、なんらおかしくはないと思う。
そもそも「魔物の素養」は、やはりその魔物が持つポテンシャルや肉体じゃないと使用ができないのでは――まあその辺は今はいいか。今試す気はないわけだし。
そんなわけで、天井さえ脆く薄い板を張っただけのボロ小屋でも、突き抜けることなく軋む音一つ発てることもなく、足の下にいる家人に気取られず移動することができている。
屋根の高低差はかなりあるが、基本的に道が狭いので、屋根伝いでもどこまでも行けそうな感じである。
仮に、もし少々広めの道が下にあり、ジャンプしても向こう側に届きそうもない時は。
「――よっ」
サッシュの槍の師匠である“紙燕”から登録した「素養・浮遊」で飛べる。
「浮遊」は、自重を操作することができる「素養」だ。
タイミングが難しいが、踏み切る瞬間に発動させて体重を減らすことで、大きく飛ぶことができる。
これも、もう少し練習したい「素養」である。
今の俺にはこれくらいしかできないが、当人は本当に自在に操っていたから。
「浮遊」と「砂上歩行」を駆使して、無法の街を駆け回り、いろんなところを見て回る。
この国は、大まかに言うと、いびつでギザギザな円形になっているようだ。
見た感じでは、区画は六つに分けられるのかな。
まず、俺が入国して「メガネ」を巻き上げられたり「臭気袋」をスられたりした辺りは、商業区。
屋台も大店も含めて、お店関係が充実している区画だ。
そこから右回りに、娼館区、職人区、農業区、富裕区、貧民区、という感じみたいだ。まあ均等に分けられているわけではないようだが。
大きさだけ見れば、農業区が一番大きかった。
この国の食料事情を支えているであろう畑があったからね。
無法の国としては場違いなほどに、立派な畑だった。
今は暗いし、近くで見てはいないので何を育てているかはわからないが、ちゃんと何らかの植物は育っていたのを確認した。
ボロい外壁のように放置されているわけではない。
次に大きいのが、富裕区だ。
俺が世話になっている娼館街の屋敷みたいな大きな建物が並んでいて、これまた無法の国とは思えないような閑静で綺麗な場所だった。
何せ、各屋敷の前には門番が立っているくらいだ。
一番防犯設備が整っているのではなかろうか。
商業区、娼館区、職人区は、大きさはだいたい同じくらいだと思う。
しかし職人区は、金属を扱うのだろう鍛冶場だの窯だのの設備が幾つかあったが、そこで働く人自体は少ない気がする。というか職人が少ないんだと思う。
一番規模が小さかったのは、貧民区だ。
人が住めるとは思えないような廃墟が並んでいたが、でもそれでも誰かは住んでいるのだろう。
目につく建物は皆ボロボロだし、壁に穴が開いているのはあたりまえで、何度も補強した跡があった。
表で雑魚寝している人も少なくなかったし、着ている物もひどい粗末なものばかり……
小汚いなりでハイディーガの貧民街に溶け込むザントの方が、まだちゃんとしていると思えるくらいのひどさだった。
あそこに何人くらい住んでいるかはわからないが、多少の善意や施しでは、焼け石に水もいいところだろうと思う。
……まあ、気にはなるけど。
ハイディーガや王都では見なかったけど、ここでは外で眠る子供の姿も見えたからな……なんとかしたい気持ちもなくはないが、俺が動くのは筋違いなのかな……
――とまあ、大まかにはこんな感じである。
もう少し詳しく見ていきたいところだが、帰りが遅くなるのだけは避けなければならない。
ダイナウッドが言っていた通り、いらない疑惑の種で腹を探られたくない。
だから、今日のところはこれくらいでいいだろう。
細かく地の利を頭に突っ込むのは明日以降にして、そろそろ娼館街に戻ろう。
そして振り返ったそこに――ヘンタイがいた。
お互い、動きが止まった。
向こうも驚いているようだが、俺も驚いている。
ただ、俺は黒いマスクが、向こうは白かった。
頭部全体を覆う革製らしき白いマスクをかぶり、目と口はちゃんと開いている。
きっと俺のような「素養」で生み出したものではなく、ちゃんとそれ用に作ったものなのだろう。
ちゃんと、それ用の、ヘンタイ用のヘンタイ活動のために。作ったのだろう。
身体の凹凸でわかったが、相手は女である。
これまたぴっちりした黒い革のツナギを着込んで、ひょろりと細いシルエットに仕上がっている。
その上にまとう白いマントが、月明かりを受けて眩しく輝いて見える。
慎ましやかな胸だの細い腰だのそこそこな尻だの俺とそう変わらない体格だのからして、印象としては同年代くらいの女だと思う。
マスクの後ろから出た長い金髪とマントが、夜風を受けてなびいていた。
目の色は……青か?
いや、さすがに暗くてよくわからないな。
頭はちゃんと回っている。
しかし動けない。
まるで猫同士が不意に目を併せてしまったかのように、お互い動けない。
そして目も逸らせない。
――このヘンタイから目を離せば、何をするかわからない。
もしかしたら万が一というか意外というかあえてというか、向こうも俺を見て、同じことを考えていたりするかもしれない。
こんな時間に出歩く、あんな格好の見るからに普通じゃないヘンタイが、なんの理由もなくこんなところにいるわけがない、と。
…………
そうだ。
自分で考えていて、今ようやく気づいた。
――このヘンタイは、ここで何をやってるんだ?
ピーーーーーーーー!!
けたたましい笛の音が、眠る無法の国に響き渡った。
「泥棒だーーー! 泥棒だーーーーー!!」
誰かの叫びが耳に入った瞬間、俺の中の全てが繋がった。
泥棒……だと?
――だが俺の中の全てが繋がるより、一瞬早く。
「ごめん」
向こうのヘンタイが動いていた。
大して広い間合いでもなかったが、一足で俺との距離を詰めると、身長にしては長い足を振り回して上段蹴りを放ってきた。
そこそこ速い。
だが、見え見えで丸見えだ。
上体を逸らしてやりすごし、さてどうするか――と考えた瞬間、ヘンタイの指先から小さな何かが飛ばされた。
油断はしていなかった。
だが、ほぼ蹴りと同時に放たれたそれを、避けることができなかった。
まるで俺が普通に避けることを想定していた、としか思えない動きだった。
一瞬キラリと光る小さな何かを食らい――
ドン!
触れたそこから、まるで「最大衝撃」のような謎の重い衝撃が走り、身体が後方に吹き飛ばされた。
――おい。なんてことする。
――俺の後ろは、何もないんだぞ。
俺のすぐ後ろは、道である。
建物の屋根の上にいるので、落下するのである。
身体が浮いた以上、もう俺は動けない。
せめて「浮遊」をセットして、落下ダメージを最小限に抑える。
そしてすぐに行動を、あのヘンタイを追う――
「――見つけたぞ! このコソ泥がぁ!!」
追いたかったのだが。
落下した瞬間に、あっという間に大勢の男に囲まれていた。