133.メガネ君、娼館街の元締めと話す
さっきの男じゃないが、俺も動けなくなった。
おばあさんの灰色の瞳が、ひたと俺を見据えている。
ヘビに睨まれたカエルのように、俺は身じろぎさえ忘れて見入られている。
だが、動けないのは選択に迷っているからだ。
この場を切り抜けるための思考が巡り、そして――辿り着いてしまった。
……そうか。
ソリチカはこういうことを予想して、俺たちにあの言葉を残したのか。
――殺しは自由にやっていい、か。
俺の場合は「口封じ」のためだが、ほかにもいろんな流れで「殺し」に辿り着くケースがあるのだろう。
もちろん、やるつもりはないが。
あくまでも思いついただけだ。
それならいけるかも、と。
もし彼女を殺してしまったら、おねえさんや大男を含めて、たくさんの敵が生まれるだろう。
そうなれば泥沼にハマりこんでいくことになる。そしてきっと死ぬまで抜け出せない。いや、死んでも抜け出せないかもしれない。俺の村や姉にも影響が出るかもしれない。
たとえるなら、今はまだ沼に片足を突っ込んだだけ。
この沼から安全に脱出する術は、必ずあるはずだ。
「……ほう? これはなかなか……ふむ」
おばあさんの灰色の瞳が、おねえさんに向いた。
「セヴィ、今度のペットは少しばかり毛色が違うじゃあないか」
「だろう?」
「面白い小僧だ。――あんたら、少し外しな。二人きりで話したい」
というわけで、二人きりになった。
おねえさんと大男、声が渋い青年が去り、執務室には俺とおばあさんだけ残された。
「小僧」
おばあさんは机から立ち上がり、こちらにやってくる。……小柄だな。俺より小さい。
「あんた、さっき私を殺そうと思っただろ?」
…………
「それも『視えた』の? それとも殺気でも感じた? 殺気は出してないつもりだけど」
「ふふふ。ははは。面白い小僧だこと」
さも愉快そうに笑うおばあさんに、横にある接客用であろうテーブルを勧められ、差し向かいに座る。
「何百、何千、もしかしたら何万と殺気を向けられてきたからねえ。その手の感情には特に敏感なんだ。
――安心しな、何も感じなかったよ。幾度も命を救ってきた、ただの私の直感だ」
直感……理屈じゃない才覚か。いいな。俺もそういうの欲しいな。
「大したもんだ。あの状況で動揺一つ見せなかった。あんたは生粋の暗殺者だね」
いや、表に出てないだけで、充分動揺してましたけど。
あと俺は狩人であって暗殺者じゃないけど。
「二人きりでいいの? 俺が暗殺者なら、あなたを殺すかもしれない」
「殺す気なら真正面から入り込む必要がないだろ。顔を晒す必要もない。もっと言えば、あんたが暗殺目当てで来たなら、私はもう死んでいる。
私は今生きている。
それが、あんたが私の命を取りにきたわけじゃない証拠だ」
まあ、そうだね。
殺す気ならもうやってるよね。
おあつらえ向きに二人きりなんだし。
「でも仕掛けたら何か起こるんでしょ? 俺が襲わないと信じて人払いしたとは思えないんだけど」
「もちろんあるよ。色々ね」
……でもそれを教える気はない、と。
「なんだったら命懸けで試してごらん」
「遠慮しとく」
やる理由がないから。
仕掛けたら何が起こるのか、知りたいとは思うけど。
「それで? あんたは何をしにここに?」
「予想はついてるでしょ? ブラインの塔を探すまでの衣食住の確保。ここに来たのはたまたま勧められただけ」
そして軽い気持ちでここまで来て、「素養」を「視抜かれる」なんて大失態を犯したわけだ。
まったく。
何がいつでも逃げられるだ。
油断した覚えはないが、正直舐めていた。
これまでの洗礼なんて、洗礼じゃなかった。
俺にとっての無法の国の洗礼は、今ここで行われたおばあさんの「視抜き」だ。
「そういうことなら話は早い」
だろうね。
だが断ろうかな。一回は。
おばあさんの勝ち誇った顔が癪に障るから。
「ブラインの塔のことを教えるから、自分の頼みを聞け。……なんて言うんでしょ?」
勝ち誇った顔に、一瞬の動揺が走る。
今度は俺が笑わせてもらおう。
「別に教えてくれなくていいよ。
もしかしたらあなた以外の親切な支配者が手を差し伸べてくれるかもしれないし。
そうじゃなくても、自力で探せそうだし」
「ハッタリだね」
「そうかな? ブラインの塔のこと、ヒント自体はすでにあなたに教えてもらってるんだけどな」
そしてここでもソリチカの言葉を思い出している。
なぜ彼女が俺に課題を追加したのか。
すぐにブラインの塔を見つけると思ったのか。
そもそもを言えば、この「ブラインの塔を探す」という課題の意味を、この時点で知ることができた。
「メガネ」のことは「視抜かれた」が、俺だってちゃんと情報を拾っている。
この対話は無駄ではなかったし、一方的でもない。
…………
まあ、その、情報の質というか、そういうのの重さを比べたら俺の完敗なんだけどね……大惨敗なんだけどね。
ブラインの塔云々の情報より、「俺のメガネ」の情報の方がはるかに重いから。
「……なるほど」
おばあさんは溜息混じりに苦笑し、椅子の背もたれに寄り掛かった。
「今度のガキは厄介だ。大抵の輩は『素養』を『視抜いた』らすぐに折れるんだがねぇ」
だろうね。
「素養」は奥の手もいいところだからね。
普通は「視抜かれた」時点で、負けが確定する。
隠し玉がわかっていれば、いくらでも対応できるから。
俺だってその例に漏れることはない。
たとえ「メガネの性質」までは知られていないとしても、根本にある「物理召喚」を封じられたら、「メガネ」関係のあらゆることができなくなるだろうから。
「あなたはバカじゃないからね」
「あ?」
さっき「視抜いた」時、彼女は「素養」の名前そのものではなく、系統である「物理召喚」と言ったから。
あの言葉は、俺に確実に「視抜いた」ことを知らせるものであると同時に、恐らくは交渉の武器とするための布石だろう。
「約束すれば自分は漏らさない。その証拠に、さっきも『素養』そのものの名前は言わなかっただろ」と。
「言うことを聞かないと『素養』をバラす、なんて最悪な交渉は絶対にしないし、たとえここで交渉が決裂しても漏らすことはない。でしょ?
それがわかっているから、俺も本音で話しているよ。一応俺も誠意を示してるつもりだけどね」
この手の「視抜きで得た情報」を交渉材料に持ち出すのはいいが、「視抜いた情報を漏らす・漏らさない」で交渉するのはいただけない。
おばあさんはよくこれで交渉し、有利に話を持っていくのだろう。
つまり「交渉次第では情報を漏らさない」という、大前提の確約があるから、交渉の余地ができるのだ。
もし一回でも例外的に「素養をバラした」ら、これまでに積み重ねてきた信頼がすべて揺らぐことになる。
まあ、すごくわかりやすく言うと、これまでにおばあさんが「視抜いた人たち」全員が一斉に敵に回るかも、ということだ。
「自分の素養」がバラされる前に口封じしてしまえ、ってね。なりふり構わず押し寄せると思う。
――師匠が言ってたもんな。簡単に人の痛いところを突いたり足下を見て交渉してくる奴は、バカな上に簡単に裏切ると。
おばあさんはそうじゃないってだけの話だ。
「……小僧」
おばあさんは、さっきと同じように、鋭い眼光で俺を見据える。
「しばらく私に飼われな。悪いようにはしない。待遇も考える。女でもなんでも手に入るものはくれてやるよ」
「そんなによそに行かせたくない?」
「――そうだよ。ほかの誰かに飼われたら確実に脅威になるからね。嫌ならここで始末する」
…………
「わかった。しばらくいることにするよ」
「……え?」
え? なんで呆気に取られるの?
「不服のある返事だった?」
「いや……あんな脅しで頷くとは思わなくて……」
あ、身構えてたのにあっさり頷いたから拍子抜けしたのね。いや別に脅しなんて全然効いてないけどさ。
「さっき言った通り、衣食住が欲しかっただけだからね。世話してくれるならそれ以上はいらないかな」
それに、このおばあさんに着くことは、俺にとっても好都合な気がするから。
まあ、でも、アレだ。
――今度こそ、何かあったらきちんと逃げ切るつもりだからね。絶対に逃げてやる。




