117.メガネ君、ハイディーガの街を後にする
「ねーエイルー。準備終わったー?」
「元々荷物は少ないからね。リッセは? 終わってないなら先に行くしかないと思ってるけど」
「は? 絶対行かせないけど? 全力で止めるけど?」
「迷惑って言葉知ってる?」
「相殺って言葉知ってる? 普段のエイルの暴言とお相子だと思う」
それは仕方ないだろう。だって俺が話したいわけじゃないんだから。俺から誰かに話しかける時は、できるだけ相手に敬意を払っていると思うけど。
……まあ、何にせよ、不毛な会話だなぁ。
「何がそんなに時間が掛かってるの? なくしたパンツでも探してるの?」
「パンツはある」
「ベッドと壁の間に挟まってるんじゃない?」
「パンツはある! そうじゃなくて、荷物が、入りきらなくて……」
「パンツくらいどうとでも入るでしょ」
「パンツは一番奥に入れた。……パンツじゃない! つーかパンツパンツ言わせるな!」
勝手に言ったんだろ……
やれやれとテーブルに肘を立て、頭を乗せる。
もうとっくに借家の掃除も終わったし、荷物もまとめた。
白亜鳥を狩った時に汚した服を数点買い替えたくらいで、俺の荷物はほぼ増えていない。
リッセの荷物はなんだかんだで増えているみたいだが。今も自室で、荷物袋に納まらず悪戦苦闘している。
というか、よく何か買う時間的な余裕と、体力的な余裕があったものだ。
毎日訓練して疲れ果てて、この家での過ごし方は、ほぼ夕食食べて寝るだけみたいな生活だったのに。
ここのところ天気もよく今日も晴天だ。
出発するには絶好の日和と言えるだろう。
――ハイディーガとも、これでお別れか。
訓練ばかりしていたので、思い入れができるほどこの街を知る機会はなかったけど。
でも、一ヵ月以上も滞在した街と離れるのは、やっぱりちょっと寂しいかな。
「――数日前にちょっと話しちまったが、一応規則だから言っておくぞ」
黒皇狼討伐から三日後の夜である。
騎士たちや「黒鳥」がハイディーガを発ち、俺たちもいつもの訓練の日々に戻ったわけだが。
それに慣れる前に、俺とリッセには決断が迫られていた。
その日の訓練は普通に終え、風呂に入って汗や汚れを流すと、再びあの店の奥にやってきていた。
一番最初にやってきたあの店だ。
俺がリッセに案内され、ガラクタばかり詰められた雑貨屋の奥にある、暗殺者の隠れ家のようなあの部屋である。
ここに来るのは二度目だ。
…………
店の方も一度ちゃんと見てみたいとは思っていたが、どうやらそれは叶わないようだ。
俺とリッセが部屋に踏み込むと――そこには、あの時と同じ場所に、あの時の三人がいた。
ハイディーガで暗殺者の顔役をしているロダ。
貧民街で情報収集を務めるザント。
光を……精霊を遊ばせてぼんやり輝く、幽霊のような姿のソリチカ。
あの時は他人だったが、今では師匠となった人たちだ。
この空気は、間違いないだろう。
改まった話をするために、俺たちをここへ呼んだんだ。
恐らくは、あの話をするために。
ロダが座るテーブルの向かいに並んで着くと、彼はあの時見た軽薄そうな笑みを浮かべて話し出した。
軽薄そうに見えたあの時はアレだけど、今ではやっぱりしっかりしている人だとわかっている。
「この誘いは誰にでもするものじゃない。
暗殺者候補生の中でも優秀な者、より伸びそうな者を選んで話をすることになっている。
その上で、俺たち三人が認め、判断した。
君たちがより大きく成長し躍進するため、更なる訓練の場である、ブラインの塔へ行く意思があるかどうかを問いたい」
やはりその話か。
「ブラインの塔には、君たちと同じように、才能や能力を認められた暗殺者候補生が集まる。
さっきも言った通り、候補生なら誰でも行けるわけじゃない。
簡単に言えば、君たちと同じくらいできる同年代の連中が集まる場所、ってことになる。
人ってのは環境で大きく変わる。
慣れた場所で慣れた訓練ばかりしていては伸ばせない能力、積めない経験があるんだ。
俺たちは、リッセとエイルはブラインの塔へ行くべきだと判断した。――まあ最終的な判断は、本人に委ねられるが」
と、ロダは俺を見た。
「リッセの返事はもう聞いているからな。あとは君だ。
――腹は決まったか?」
…………
「俺は――」
リッセの準備が終わるのを待ち、ハイディーガの街を出た。
「お? どっか行くのか?」
黒皇狼討伐の朝と帰った時や、白亜鳥を狩った時。
あと先日の鳥を五羽狩ったのもあるのかな。これは俺だけだけど。
すでに顔を憶えられている俺とリッセは、午前中はいつもそこにいる門番のおっさんにそう聞かれた。
二人して、大きな荷物を背負っているからだろう。
「しばらく旅に出るの。そのうち戻ってくるかも」
リッセがそう答えた。
よかった。
俺はパッと「故郷に帰る」としか言葉が思いつかなかったから。
理想を胸に都会に出てきた若者が、理想を砕かれ逃げ帰る的な、夢破れた感がすごい言葉しか思いつかなかったから。
「そうか。元気でな」
門番のおっさんは多くを聞かずにそれだけだった。
冒険者が多い街である。
いろんな事情を抱えて、来たり去ったりする者も多いのだろう。
街道沿いを行き、あの山の方へと向かう。
「で、あんたが来た暗殺者の村ってどの辺なの?」
「あの山の向こう側だね。今なら山を通過できると思う」
今は、黒皇狼騒動で山の魔物が少なくなっている。
今の俺なら……まあ、前線でがんばるリッセがいるなら、通れると思う。魔物に遭遇しても問題ないだろう。
あの山を越えるルートなら、丸一日くらいで着くらしいから。短い旅である。
それに――
「――待っていたよ」
いるなぁ、とは思っていた。
遠目に見ていて、いるなぁ、って。
リッセもあえて口に出さないほど、堂々といたからね。
街道脇にある岩に座り、ぼんやり光っている女性は、どう見てもソリチカであった。というか光っている時点でって感じである。
近くに行くと話しかけてきた。「待っていたよ」と。
「ソリチカも行くの?」
「うん。教官として来いって言われているから」
あ、情報系の教官として呼ばれているのか。
「それにあの像の作者にも会いたいから」
像?
…………
あっ。
……ああ、そうか。
ようやく離れ離れになれたと思っていたあの可愛い邪神像、きっと今ここにソリチカが持っていることだろう。
つまり、ここにあるのだろう。あの像は。
離れ離れに、なれたと、思っていたのに。
……まさかここから先も、あの像は俺から離れないんじゃ――いやいやっ。考えすぎだ。悪い方に考えるな。そういう悪い予感、悪い思考は当たるから。考えるな。
「じゃあ行こうか」
歩き出すソリチカを、微妙な顔で見ているリッセ。
たぶん、考えていることは、俺と同じだと思う。
「……ねえエイル。あの、アレって、本当に呪いの何かじゃないよね……?」
口に出すんじゃない。そういう悪い予想は当たるぞ。
――こうして、俺たちはハイディーガの街を後にするのだった。