99.メガネ君、悪魔祓いの聖女の実力を垣間見る
「――狼狽えるな!!」
なんとも気まずいボインの雰囲気が支配した戦場に、傷顔のおっさんの檄が飛ぶ。
「まだ標的は生きている! 気を抜くな!」
まさにその通りである。
一時は完璧に緊張感が消し飛びはしたものの、おっさんのおかげで再び場が動き出した。
もちろん言葉の意味やらなんやらがわかっていない黒皇狼にとっては、普通に戦闘は継続されている。
たとえ襲ってくる人間たちのやる気がなぜだか激減したとしても、黒皇狼側が遠慮や躊躇をする理由はない。
やらかした俺からしたら、気まずい時間は非常に長く感じられたが、実際は数秒程度の停止である。
何事もなかったように、戦闘は継続される。ほっとする自分がここにいます。
「――援護射撃!」
あ。
おっさん、俺のこと呼んだな。
「間違った判断ではない、そのまま続けろ! だが発言は変えろ!」
あ、よかった。
あの「大声」のことは、ちゃんと援護射撃と認識してくれているようだ。決して悪ふざけの横槍なんかじゃないとわかってくれているようだ。ちゃんと通じているようだ。これはアレだ。きっと謝ったら許してくれるやつだ。……許してくれるよね?
黒皇狼に感づかれるので俺から返事はできないが、今後はおっさんの意向に沿って行動することにしよう。
俺が潜んでいることは認識されたので、何かあったら指示が飛んでくるだろう。
迅速に応えられるよう心構えはしておく。
まだ黒皇狼は、森に潜む俺に気づいていない。
矢を撃った直後に場所も移動した。
今はまた違う木の枝の上で待機し、いつでも撃てるように様子を見ている。
――問題は「慣れ」だ。
「爆ぜる爆音の罠」の援護射撃は、ただ大きな音がするだけだ。
黒皇狼からすれば、いきなり顔の近くで爆音がする、という現象になる。
もしかしたら、いないはずなのに耳元で人間が何か言った、くらいの認識をしているかもしれない。
だから驚いたり警戒したりするのだ。
しかし、すぐに気づくだろう。
ただ音がするだけで何もない、と。
もし人間辺りなら、耳が痛いくらいには大きな音になっているかもしれないが、黒皇狼にはその辺の効果はなさそうだし。
――援護ができるのは、あと二、三回と考えた方がいいかもしれない。
つまり、誰かのピンチを俺がどうにかできるのは、あと二、三回。
使い切る前に決着がつかないと、人死にが出るかもしれない。
長く長く戦っているようで、戦闘に要している時間は結構短い。
黒皇狼の動きの速さと攻撃の頻度と、それに合わせて素早く動く人間たちとが入り乱れ、短い時間にたくさんの事が起こっているだけだ。
俺が二回の援護射撃をしたのも、割と短いスパンだった。
おっさんはなぁ!! 悲しい生き物なんかじゃねぇぇっ!!
爆音で空に広がる悲しい訴えは、しかし応える者はいない。
これも、王都で聞いた、どこかの中年男性の心の叫びである。
おっさんが悲しい存在だなんて思ったことはないが、この発言をするに至った経緯と状況が悲しいことだとは思う。ちなみに詳細はわからない。悲しい気持ちになりそうなので知りたくもない。
金目当てでは君!! 顔と身体はあいつ!! 俺は君たち二人と付き合っていきたい!!
爆音で空に広がる最低最悪な二股宣言には、しかし応えるものはいな――いや、いた。
色白と日焼けの女性騎士二人が、口の動きだけで「サイテー」「サイテー」言っている。そして若い男の騎士とロダが若干気まずそうな顔をしている。彼らはもしかしたら賛同者なのかもしれない。うん、サイテーだね。
ちなみにこれも王都で仕入れた発言だ。
この直後には悲鳴も聞こえたので、発言者はちゃんと制裁を受けていることだろう。
……冷静に考えると、都会って怖いね。なんでこんなこと大声で言う状況が来るんだろうね。田舎者には理解できないよ。
まあ、それはともかく。
「ボイン超でっけえ」から、続いて二回ほど援護射撃を決行してみたが、黒皇狼の反応が鈍くなってきている。
たぶん、効果があるのもあと一回くらいだろう。
それ以降は無視されそうだ。
だが、間に合った。
「――誰かなんかふざけたこと言ってねえか!?」
ようやく「黒鳥」が合流した。入ってくるなり無精ヒゲのグロックが抗議したけど。
「てめえかルハインツ! ふざけて殺れる相手じゃねえぞ!」
短い槍を構え躊躇なく黒皇狼に立ち向かうグロックの怒鳴り声に、ルハインツこと傷顔のおっさんは「私じゃない!」と大剣を振るいながら答える。
「てめえ以外のどこに中年がいるんだよ! 悲しい生き物がどうとかわけのわかんねえこと言いやがって!」
「森で援護している者の『爆ぜる爆音の罠』だ! 誰も何も言っとらん!」
あ、はい。俺です。……ごめんね。濡れ衣着せちゃって。
「チッ……よし、まあまあ弱らせてるじゃねえか! ふざけてるくせにやるこたやってるな!」
「誰もふざけとらんわ! ふざけているのは森の奴だけだ!」
お、おいおいおっさん。俺もふざけてないよ。全然ふざけてないよ。俺がやれることを全力でやってるだけだよ。むしろ瞬殺される程度の実力なのに、身の丈に合わない援護射撃しているのを褒めてほしいくらいなのに。
俺のやってることわかっててくれてたんじゃないのか。……ダメだ。もう直接会うのはやめとこう。絶対怒られる。絶対許してくれそうにない。
「一気に仕留めるぞ! 全員引け! ――ホルン、『叩き込め』!」
「あいよー」
あ、姉だ。
左手にショートソード、右手にやや長めのダガーという速度を重視した得物を持つホルンが前に出る。
と同時に、騎士たちやロダ、グロックたちが少しだけ身を引いた。
結果、ホルンは黒皇狼の目の前に、単独で立つことになる。
「グルルルル……!!」
すでに地面の至るところが血に染まるほどの手負いとなっている黒皇狼は、新たにやってきた人間を警戒し、睨みつけながら唸り声を上げる。
ここまでの戦闘で、充分学習したのだろう。
ここにいる人間は弱くない、と。
黒皇狼がホルンを見る目は、獲物を見る目ではない。
強い敵を見る目だ。
だから警戒し、すぐには飛び掛からないのだ。
そんな黒皇狼に、ホルンは――
「ヘイヘイヘーイ! 来いよおらー!」
と、すごく露骨な挑発をした。
「ヘイ! ヘイ!! ヘイヘイヘーイ! ヘイヘーイヘイ! ヘイ! ヘイ! ヘイ! オウ! ヘイヘイヘイヘイヘイヘイ! ヘーイ! ヘーイヘーヘイヘヘイヘイヘイヘーイ! ……ヘイ? ヘイ? …………………………………………ヘーーーーーイ!!!! ヘイヘイヘーイ!! イェー!! ヘーイ! ヘイヘイヘッ……げほげほっ、ヘーイ! ……ヘイヘイヘーイ!!」
…………
…………
……あ、姉ぇ……
人間相手に挑発してるんじゃないんだけど……
「うるせーぞホルン!! バカかてめえ!! いやバカだてめえ!!」
「なんだよ! おっさんがやれっつったんだろうが!」
あ、バカ! よそ見――!
それは、まばたきさえ許されない一瞬の出来事だった。
目の前でよそ見した敵に対し、顎を開いた黒皇狼はそのまま、ホルンを口の中に飲み込んだ。
一瞬だった。
ホルンが消えた。
と思ったら、しかし、そこにいた。
黒皇狼が顎を閉じたと同時に、弾かれたように顔を背けたのだ。
鮮血が舞う。
「――遅いっつーの!」
そして、鮮血にまみれ血に濡れた剣を持つホルンがいた。
カウンターだ。
ホルンは、黒皇狼に食われた瞬間、口の中を斬ったのだ。恐らく狙い通りに。
「――逃がさない! 『叩き込む』!」
そしてホルンは、近づいたものの怯んだ黒皇狼に素早く飛び掛かる。
いつ納めたのかわからないほどの早業でショートソードを鞘にしまい、左手で毛を掴んで張り付いた。
首の下、まだダメージが入っていない、喉元。
多くの生物の急所である。
そこに、右手にある光るダガーを深々と突き刺した。
――悪魔祓いの聖女と呼ばれている、王都で噂になるほどの冒険者。
――確かに、俺の姉はバカだけど、でも確実に強い。