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東京府短編集

非現実事件、あるいは夢幻の旅人

作者: 矢州宮 墨

~登場人物~


音無リカコ:高校教師。

音無サトコ:中学生。音無リカコの妹。

黒瀬ユリ:高校教師。音無リカコの同僚。

【1】


 朝の冷気が身体から熱を奪う。気温が氷点下になることも珍しくなくなった。今日からは十二月。もう冬なのだ。私はいつも通り二人分の朝食を作り、妹のサトコを起こし、二人で朝食をとった。普段通りの朝だ。私、音無リカコは妹のサトコと二人で暮らしている。両親はもういない。あれは今から十年前。軍の関係者だった両親は戦争で亡くなった。詳しいことは未だに分からないが、両親がこの世を去ったこという悲しい事実だけは確かなようだった。妹と私はだいぶ歳が離れていて、妹にとっては私が親の代わりのようなものだ。もちろん私にとっても妹は二人っきりの家族で、まさにかけがえのない存在なのだ。

「お姉ちゃん、はいこれ。コーヒー飲むでしょ?」

「そうね、ありがとう」

私はサトコが淹れてくれたインスタントコーヒーを飲みながら新聞に目を通す。特に気になる事件は無いようだ。ふと時計を見る。そろそろ行かなくては。

「そろそろ学校に行かないと。サトコ、もう準備はいい?」

「もちろん!」

私たちは家を出た。サトコは中学校へ(サトコは中学二年生なのだ)、そして私は職場である私立シイタケ高校に向かった。

 高校に着いた私は職員室の自分の机に座り、時間割を確認する。いつも通り、臨時の時間割変更などは無いようだ。

「音無先生~、おはようございます!」

隣から女性の声。この明るい声は同僚の黒瀬先生だ。

「おはようございます、黒瀬先生」

彼女は黒瀬ユリ。この高校に来たのは去年のことで、歳は私より一つ下だ。艶のある黒い髪は短く、活動的な印象を受ける。実際彼女は明るくて活動的であり、私とは対照的だ。

「最近だいぶ寒くなってきましたよね。私の家、ちょっと古いから冬は暖房代がかさんじゃいますよ」

「今年は特に寒さが厳しくなるらしいですよ」

「え、そうなんですかー。やだなぁ」

彼女が珍しくため息をつく。寒いのは苦手なのだろうか。

「ところで、音無先生」

彼女はそこで一旦言葉を切り、私の目を見つめた。

「先生は、夢って見ますか?」

確かにそう訊かれた。彼女の紫がかった瞳がこちらを見つめている。

「そうね………最近はあんまり見てない、かな」

そういえば最後に夢を見たのはいつのことだったか。

「そうですかー」

彼女はなぜそんなことを訊いてきたのだろうか。なんとなく気になるが、それを問うている時間はないようだ。

「あ、そろそろ教室に行かないと」

あと五分で朝のホームルームだ。私は教室へ向かった。

 朝のホームルームが終わり、その後も特に変わったことはなく、ただただ日常が過ぎていった。仕事を終えた私は家に帰り、いつも通りの夜を過ごした。明日も学校だ。私は早めに寝ることにしてベッドに入った。だんだんと眠気がやってきて、私を眠りに誘う。私は目を閉じ、眠気に身を委ねる。眠りに落ちる直前、今朝の黒瀬先生とのやりとりが頭に浮かんだ。彼女の言葉、彼女の瞳。あの時、彼女は笑っていただろうか。それとも………

 目が覚めた。あたりは薄暗い水辺。なぜだろうとは思わなかった。ここはきっと墨田川だろう。周囲を包む霧のせいだろう、見通しがとても悪い。静かな、水の流れる音だけが空間を支配している。なんだかぼんやりする。見上げた空は漆黒。星は見えない。空を覆う闇が地表まで降りてきて、全てを闇に包んでしまうというイメージが想起される。少し歩いてみると、背後に人の気配を感じた。振り向こうとするが、体は妙に重く、ゆっくりとした動きしかしてくれない。どうにかして、ようやく背後を見る。そこには髪の短い女性が居て、こちらを見ていた。暗くて顔がよく見えない。だがその立ち姿には見覚えがあった。彼女は黒瀬先生ではなかろうか。直感的にそう思った。声をかけようと思ったその瞬間、私の意識は現実に戻った。

「お姉ちゃん、大丈夫? なんかうなされてたけど」

サトコの声。ここはもうあの水辺ではない。私はベッドの上。そしてこちらを心配そうに見るサトコ。どうやら現実のようだ。ということはさっきのは夢だったのだろう。

「ちょっと、夢を見てたみたい。もう大丈夫よ」

「そう? じゃあもう一回寝るー」

時刻は深夜二時。これはあとから聞いた事だが、サトコが夜中に目を覚ましたところ、私がうなされていたので声をかけてくれたらしい。私もサトコ同様、また眠りにつくことにした。



【2】


 あの妙な夢以降は特別なことは何も起きず、週末が訪れた。そして私は黒瀬先生の家に向かった。それは彼女の相談を受けるためであった。特に予定のなかった私は、たまにはそういう誘いに乗るのも悪くないと思ったのだ。時刻は昼過ぎ。サトコはマサヒロ君のところに遊びに行っている(マサヒロというのは私の教え子であり、同じマンションの住人だ)。彼女の家は墨田川の近くで、私が住んでいるマンションからそう遠くない距離にあった。小さな一軒家の呼び鈴を鳴らす。彼女はすぐに出てきてくれた。

「来てくれたんですね、助かりますー。狭い家ですが、どうぞこちらに」

彼女のあとに続き家に入る。妙に薄暗いが、嫌な暗さではなく心が落ち着く気がした。私は居間らしき部屋へ案内され、ソファに腰掛けた。

「それで、相談というのは?」

「それなんですけどね、実は生徒への接し方というか、あ、そうだ」

彼女は何かを思い出した様子で奥の部屋へ消えた。手持ち無沙汰になった私は部屋を眺めてみることにした。家の外観のわりには広く感じる部屋だ。窓には白いレースのカーテン。ソファの正面には丸いテーブル。テーブルの向こうには私が座っているのと同じソファ。横を向けばテレビと小さな観葉植物が小型ラックの上に乗っかっている。なんの植物だろう。

「お待たせしました。相談料です、なんて。まあ私も食べるんですけど」

甘い匂い。ケーキだ。

「えっと、どうもありがとう」

彼女は持ってきたケーキ二つをテーブルに置くと再び奥へ消えた。皿の上に乗ったショートケーキ。イチゴではなくブルーベリーが乗っている。少しして、彼女が戻ってきた。今度は紅茶の香り。

「ティータイムですよ、ふふ」

彼女は微笑みつつ紅茶をテーブルに置いた。ティーカップに入った紅茶はほわほわと湯気をたて、優しい香りを部屋に満たした。なんの茶葉かは分からないが、この香りは心地よい。まるでこの部屋だけに春が訪れたかのような気がして、今が冬だということを忘れさせてくれそうだ。

「さ、どうぞどうぞ」

私は優雅なティータイムを過ごしつつ彼女の相談に乗った。時は緩やかに流れた。結局のところ彼女の相談とは、生徒とどのようにコミュニケーションを取るべきかという内容だった。

「私、どうにもそういうの苦手で………」

「そんなことないですよ。むしろよくコミュニケーション取れてると思います」

これはお世辞ではなく、本当のことだった。彼女の生徒への接し方は完璧と言ってもいいくらいだと思う。

「そうなんですかねー。なんか自信なくてー」

そんなふうに話しているうちに私たちはティータイムを終えていた。今回のケーキは彼女のお気に入りの店のもので、値段はそう高くないのだという。彼女は甘いものが好きで、週末はたいていケーキを買っていると言っていた。そういえばケーキを食べたのは久しぶりな気がする。

「ところで音無先生、この間の話なんですけどね………」

あれ、なんだか変だ。彼女の言うことがよく分からない。こんな時にどうしたというのだろう。視界が揺らめく。まぶたが重い。身体の力が抜けてきた。そして、強烈な眠気。抗おうにも身体はうまくコントロールできず、私の意識はそのまま落ちていった。



【3】


 気がつくと、そこはあの水辺だった。ああ、また夢か。早く起きないといけない。またあの時と同じ気配。後ろに誰かが居る。こちらに近づいてきているようだ。私はあの時と同じように、振り返った。

「ここで会うのは二度目ですね、音無先生」

黒く短い髪。人の良さそうな顔。紫がかった瞳。そしてあの微笑み。眼前に居るのは黒瀬ユリその人だった。だが本当に彼女なのだろうか。私は彼女が本物ではなく、夢魔かなにかが彼女に化けているのではないかという疑念を抱いた。

「あなたは本当に………」

私がその疑問を口にしようとした時、それをさえぎるように彼女は言った。

「ええ、私ですよ。黒瀬ユリ。あなたの同僚です」

なぜ彼女が二度も夢に出てきたのだろう。しかも同じような夢に。私がそのようなことを考えていると、彼女が話し始めた。

「その疑問にお答えしましょう。ここではあなたの考えていることは全部分かるんですよ。ここは夢、そう、夢の世界。あなたの夢です」

続けて彼女は語る。

「私は他人の夢に入ることができるんです。そしてそこでは相手の思考を読むだけじゃなくて、心が“見える”んですよ。音無先生、あなたの心は深海の色。どこまでも続く深い青。不思議な力でしょう。私がこの力に目覚めたのはつい二週間ほど前のことでした」

彼女が言うには奇妙な夢を見たことがきっかけで力に目覚めたという。他人の夢に入るなんて、そんな不思議なことができるのだろうか。常識で考えるならば、きっと不可能だと思う。だが私はそうした不思議な力を目のあたりにしたのは、これが初めてではなかった。

「先生、こういうことは信じるタイプみたいですね。ちょっと意外だなー」

彼女はまたあの瞳で私を見つめた。

「あなたの心には傷があります。そうでしょう、先生? 今も癒えない傷を抱えている」

それは事実だった。十年前、あの戦争がすべての発端だった。あの時のことに思いを巡らせようとしたとき、彼女の目が少し笑った気がした。

「十年前の戦争で何かあったようですね。聞きたいなぁ、その話」

「人のトラウマを知りたいだなんて趣味が悪いわ」

私ははっきりとそう言った。彼女が心を読めるのはこれまでのやり取りで明らかだった。だが私はあえて声に出した。

「拒むんですね」

彼女は一歩前に踏み出し、こちらに近づいた。いつの間にか周囲の風景は変化していて、私たち以外の全てが深い青に包まれていた。

「私はただ、綺麗なものが見たいだけなんですよ。あなたが抑圧している心の傷はきっと美しいものだと思うんです。この光景はあなたの心そのもの………こんなに綺麗な色をしている」

彼女は再び、一歩こちらに歩み寄った。私は反射的に後ずさろうとしたが、それは出来なかった。いつの間にか私は身体を動かせなくなっていたのだ。

「ふふ、怖いですか、動けないというのは。話してくれないというなら力ずくで“見る”しか無さそうですね。まあこの力にも限界はありますから、記憶の完全な閲覧はできませんが」

彼女はこちらの目を覗き込み、私の頬を撫でた。

「もしかすると、話せばその傷は癒えるかもしれませんよ。何事も一人で抱えるのは良くないと言いますし。話してみてはどうですか?」

彼女は囁くようにそう言った。確かにそれはその通りだ。この傷を完全に無くすことはできなくとも、少しは楽になるだろう。だがその後に私に残るものはあるだろうか。

「そうね、あなたの言うことはきっと正しい。だけど、やめておくわ。この傷は私という存在にとって必要なものなの。あの時の私と今の私を繋ぎとめる、ただひとつの楔。それがこの傷よ」

彼女の目が見開かれる。彼女は震える声でこう言った。

「そんな………それじゃあ、あなたはその傷をずっと、一生抱えて生きていくつもりなんですか」

「ええ、そうよ」

「そう…ですか………」

彼女はそう言って目を閉じた。そして私の意識はそこで途切れた。



【4】


 私が目を覚ますと、そこは黒瀬先生の部屋だった。

「おはようございます、先生」

いつもの黒瀬先生だ。夢の中の彼女とは別人のようだ。

「あ、すいません、寝ちゃってたみたいで」

「気にしないでください。お忙しい中相談を頼んだのは私ですし」

彼女は微笑んだ。まったく他意のない、純粋な微笑みだった。やはり先程の出来事は夢に過ぎないようだ。夢はあくまで夢。ただそれだけのこと。そうと分かっていても気になるものは気になる。

「あの、実はさっき夢を見まして、その夢にあなたが出てきたんです」

「私が? それはきっと、ここで寝たからですよー」

私は夢で見たことを簡潔に説明した。

「ふふ、変な夢。先生もそういう不思議な夢とか見るんですね。あ、そういえば時間は大丈夫ですか? もう夕方ですよ」

本当だ。サトコもそろそろ帰宅する頃だろう。すぐに帰らなければ。

「そうね、もう帰らなきゃ」

「今日はありがとうございました。本当はすぐ起こそうと思ったんですけど、気持ちよさそうに寝ていたので」

私はあの夢のことを考えながら帰路に着いた。夢は夢に過ぎないと頭では理解している。だがどうしても心に引っかかる何かがあった。それは過去との向き合い方だったのかもしれず、あるいは過去の出来事そのものなのかもしれない。結局その答えは出ないまま家に着いてしまった。鍵を開け、中に入る。玄関にはサトコの靴。どうやらサトコのほうが早かったらしい。

「ただいまー」

「あ、お姉ちゃんおかえりー」

過去のことはさておき、今の私には守るべきものがある。過ごすべき日常がある。過去は変えられないからこそ、せめて何があったか記憶しておこうと思うのだ。あらゆる出来事に因果を求めるわけではないが、現在を形作るのは間違いなく過去だ。だから可能な限り過去を記憶する。それが心に傷を残すことになろうとも。



【5】


 私は音無先生の夢から、一足先に抜け出した。意識が現実の身体へ戻る。目の前には、ソファで眠る音無先生。規則正しい呼吸の音。まだ熟睡しているようだ。音無先生の寝顔は安らかで、なんだかとても無防備な感じだ。普段の、どこか悲しげな雰囲気も今は無い。彼女には前から少し興味があった。彼女の事はごく普通の人だと思っていた。特に変な性格でもないし、奇妙なことを言うわけでもなかった。ただ何となく、悲しげな雰囲気があるというだけのことだった。その雰囲気の正体を知りたいと思っていたが、私には手段がなかった。私はカウンセラーでもなければ心理学者でもない。彼女の心を覗くなんて出来なかった………そう、二週間前までは。

 二週間前、奇妙な夢を見た。それは抽象的な風景だった。何を表しているのかも分からず、私にとってはひたすら無意味な光景が眼前に繰り広げられた。しかし夢から覚める直前、私は何かを思い出したときのような感覚を味わった。一瞬にして、にわかには信じがたい知識が記憶に刻まれた。それが人の夢に侵入する力、すなわち、【夢幻の旅人】だった。奇妙な夢で私が得たのは、この力とそれに関するあらゆる情報だった。不思議な事にこの力には初めから【夢幻の旅人】という名前があったのだ。この力は他人の夢に入ることを可能とする。夢の中では相手の心が分かり、まだ試したことはないが、夢の中で私か相手に起こったことは現実になるらしい。

 それにしても彼女がさっきの夢で放った言葉には驚いた。彼女の過去に何かがあったというのは予想の範囲内だった。だが彼女が、心の傷を抱えて生きると言ったときは衝撃を受けた。それは紛れもなく本心からの言葉だったのだ。彼女がそんなに強い人間だったなんて、思いもしなかった。私は再び彼女の顔に目を向ける。こうして眠っている間は、彼女は過去を忘れて幸せでいられるのかもしれない。彼女の安らかな寝顔はとても綺麗だと思う。だけど悲しい過去を忘れず、それをずっと抱えて生きようとする彼女の在り方は美しすぎて心が痛む。私にはとても無理な生き方だ。彼女はいつか救われるべきだと思う。そのために手を差し伸べたいとも思う。だけどそれは彼女の生き方そのものを否定してしまうかもしれない。私はそんなことを考えながら彼女の寝顔を見つめていた。その時、彼女の目から一滴の涙が溢れた。涙が、頬を伝う。

「泣いているんですね、先生」

私は小さく呟いた。本人しか見ることのない、本来の夢を見ているのかもしれない。私は視線を窓の外に移した。いつもと変わらない景色がそこにはあった。私は何をするでもなく、遠くの空をしばらく眺めていた。

おそらく、私が彼女の心の傷を”見る“ことはないだろう。私には、彼女に手を差し伸べる方法が分からないから。私に彼女は救えない。彼女を救えるのは他ならぬ彼女自身なのかもしれない。もうじき彼女が目覚めるだろう。夢の中での出来事は一旦胸の奥にしまって、普段通りに振る舞うようにしよう。だって彼女にとってあれは、ただの夢に過ぎないのだから。



―終―


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