第90話「西園寺のトレードオフ」
「大学を受けてみる気はないのんね、西園寺さん?」
「はい。大学に進学する気は、全然ありませんから」
「せっかく、ええ成績やのに、もったいない。記念受験でもええから、どこか受けてみたらどない?」
「合格しても通う気があらへんのんに、その大学を受けるのは、本気でその大学に受かりたいと真剣に思うてる人の迷惑になるのんと違いますか?」
「それは、御説ごもっともな正論なんやけどねぇ。まぁ、ひとまずは、専門学校専願ってことで、話は進めるけれど、気が変わったら、いつでも言うてね」
「はい、魚崎先生」
「わたしからは以上やねんけど、何か、質問は?」
「いいえ、ありません。失礼します」
「秋、この手紙、読みぃ」
「彪子伯母さん宛ての手紙と違うのん、これ?」
「そうやねんけど、二枚目は、秋にって」
「ふぅん。『秋へ。久しぶりの手紙になって、ごめんね。実は秋に、大切なお知らせがあります。九月から、東京のほうの芸術大学で、ピアノ科を受け持つことになりました。そこで、……』ええっ」
「驚くのも、無理はあらへんわ。『……秋が十月から自由登校になると、彪子さんから伺っています。ついては、その十月から、東京で親子三人で一緒に暮らしませんか? 身勝手なお願いなのは分かっているけれど、秋が来るのを心待ちにしています。忍』」
「お父さん、お母さんと、東京で、三人?」
「ええ話やないの。良かったやない、秋?」
「ええことないよ、伯母さん。うちが東京へ行ったら、伯母さんは一人になるんよ?」
「秋が中学へ上がって、ここへ来る前かって、一人でやってたんよ。何をやらしても、器用にこなすから、つい便利に使うてしもうたけど、居らんかったら、居らんかったなりに、何とかなるわ」
「でも、うちはこのお店が好きやし、そのために、服飾の専門学校に進もうと思うてるのんに」
「向こうに行ったら、ここよりも、もっとええ学校に通えるのんと違う?」
「そうかもしれへん。せやけど」
「秋。いっぺん、自分が生まれ育ってきた環境を離れてみな、その本質は分からへんものなんよ。今は、そんなことあらへんと思うてるかもしれへんけど、それは大きな間違いやねんで」
「うちが、東京へ行くなんて」
「この機会を逃したら、一生、離れられへんよ。今は、それでええと思うとっても、必ず、あとで困ることになるんやから」
「伯母さんの、意地っ張り。もう、しらへん」
「強情なのは、どっちやろうねぇ。あら、お客さんや。――いらっしゃいませ。何ぞ、お探しですか?」
「それで、ずっと小母さんと口をきいてないんだね、西園寺さん?」
「そうなんよ、北条くん」
「この際、小母さんのことは、横に置いておくとしてさ。西園寺さんは、ご両親と一緒に暮らしたくはないの?」
「それは、伯母さんのことが無うたら、一緒に居れたらと思うわ」
「それじゃあ、決まりだね。東京に行きなよ」
「いやいや。今のんは、伯母さんのことを考えへんかったらの話で」
「育ててくれた人に、恩を感じるのは美徳だけれど、いつまでも飛び立たない雛鳥は、親鳥の足枷でしかないよね?」
「それ、どういう意味なんよ?」
「さぁね。ただ、僕としては、墓に布団を着せるような結末だけは、避けて欲しいかな。それじゃあ、バスが来たから、この辺で」




