太極拳で理想の貴方に
らのまが 2015年 11・12月号 掲載作品
デブ、汗かき、不細工、眼鏡……言いだしたらきりが無いほどのコンプレックスを抱える俺はモテなかった。いや、モテないとかそういうレベルですら無かった。街を歩けばすれ違う人に嫌そうな目で見られ、学校に行けばいじめとまではいかないものの明らかに距離を取られる。
自分に原因があるのも分かっていた。それなのに変わろうとしない自分が大嫌いだった。
どうにかして変わりたい。けれど実行に移すことが出来ないでいた。
そんな時だった。あのおじいさんを見かけたのは。何も無いただの空き地に、そのおじいさんはいた。相当な歳に見えるというのに、その肉体は引き締まっており若々しささえも感じることが出来た。そのおじいさんは激しく、そしてゆっくりと、全身を使って美しい舞をしていたのをよく覚えている。
──気がつけば俺の足は自然とおじいさんの元へと向かっていた。
何故、近づいたのかと聞かれれば俺は今でも分からない。ただただ、その美しい舞に惹かれたのだろう。
「興味があるのかね、わたしの『たいきょくけん』に」
近づいた俺におじいさんはこちらを振り向くことなく言った。そして、俺の心を見透かしたかのようにこう続けた。
「わたしの『たいきょくけん』を学べば、君も理想の自分になれるだろう」
否定することは簡単だった。一言、「そんなことあるはずがない」と言ってやればよいのだ。しかし、俺はその一言を声に出すことが出来なかった。おじいさんの身体を纏うオーラとも呼べるほどの気迫が、その一言を躊躇わせていた。
「なぁに、難しく考えることはない。駄目ならすぐにやめればいい。一度やってみないかね?」
「はぁ…はぁ……」
その数時間後、俺は息を切らしながら地面に寝そべっていた。おじいさんは何事も無いように俺の隣に立っている。
「始めてにしてはもったほうじゃな」
「……ぜってぇ、もうやらねぇ」
自分を変えたいと思うのに、少しでも辛いとすぐに止めたくなってしまう。そんな自分も嫌いだった。しかし、どうしてもこんな苦痛が続けられるとは思えなかった俺は、思わずそう呟いていた。
背中に着いた砂を払いながら立ち上がる。もうここに来ることは無いだろう。無言で立ち去ろうとすると、後ろからじいさんの声が聞こえてくる。
「ほっほっほ、それでも良い。もし、また学びたくなればここを訪れるといい。わたしは何時でもここにいるからの」
何と言われようと来るはずがない。俺はそう思っていた。
家に帰るといつもの様に母親が出迎えてくれた。しかし、その後の言葉は俺に大きな衝撃を与えた。
「今日は遅かったわね。あら、少し痩せた?」
やせ、た? たったあれだけのことで? 目に見えて痩せた? いや、そんなことあるはずがない。たかが数時間の運動で目に見えて痩せることなど有り得ない。
「気のせいだろ?」
俺は素っ気なく返事をした。母は特に疑問に思わなかったらしく「夕食の準備、出来ているわよ」と言い残して台所に戻っていった。俺は汗を流すために風呂場へと向かった。
シャワーを浴びながらも先ほどの言葉が頭を離れない。もしかしたら、ひょっとしたら、そんな思考が頭の中をぐるぐると回る。もう確かめられずにはいられなかった。
「嘘、だろ?」
体重計の上で俺は、無意識の内に言葉を発していた。体重計の針は今までの値よりも五つも下を指していた。たった数時間の運動で五キロの減量。それは本来なら有り得ないような現象だった。しかし、そんな奇妙な現象にも、痩せたという事実の前には嬉しさしか浮かび上がらなかった。
「ご飯、並べるわよ」
母親の言葉に返事をしつつ、リビングに向かう。その日の夕食はいつもより美味しく感じた。
翌日、学校が終わると俺は再びあの空き地に出向いていた。そこにはやはりというか、あのおじいさんがいて、したり顔をしてこちらを見ていた。
「やはり来たか」
「うっせぇ」
精一杯の虚勢を張るも、恥ずかしさで顔に血が上って行くのを感じる。傍から見れば俺の顔は真っ赤になっているのかもしれない。おじいさんは何も言わずに微笑んでいるだけだ。
「…………俺に、貴方の太極拳を教えてください」
声を振り絞って、なんとか出すことが出来た言葉におじいさんは満面の笑みを浮かべる。
「よろしい!」
それから俺には一つの日課が出来た。学校帰り、休日の夕方、必ずおじいさんの元に出向き、太極拳を教わること。流石に初日ほどの大きな変化は無かったが、それでも数日もすれば効果が目に見えるというのは、俺の数少ないやる気を引き出すには十分だった。
毎日が楽しい。そう感じたのはいつ以来だっただろうか。
「じいさん! また体重減ったんだ! すげぇな、太極拳って」
「ほっほっほ、継続は力なり。君が努力を続けたから実った成果じゃ。『たいきょくけん』ではなく、己を存分に誇るといい」
とうとう十キロの減量をした俺は浮かれ気分だった。だから気が付けなかったのだ。既に取り返しのつかない変化が始まっていたことに。
太極拳を始めてから数週間。俺の周囲の環境は目に見えて変わっていた。十キロ以上減量したからといってまだデブの範囲を抜け出してはいないものの、近づくだけで嫌がられるなどということは少なくなっていた。未だにクラスで浮いた存在ではあるが以前のようにそこにいるだけで邪魔な存在ではなくなったのだ。
俺は次々と起こる変化に歓喜をした。だからおじいさんにあるお願いをしに行った。
「ダメじゃ」
しかし、その願いは叶わなかった。
「なんでだよ」
「お主は大きな勘違いをしておる。単純に『たいきょくけん』を行う時間を増やせば効果も大きくなると思っているのじゃろう。これはそんな単純なものではないのだ。適切な時間と適切な量。それらを両立せねば効果は著しく落ちてしまう」
「……なんか納得いかねぇ」
「心配せんでも一年もすれば理想の自分になれる。焦らず少しずつ進むのじゃ。焦りの先には失敗しか待っておらん」
そう言うとおじいさんは俺に背を向けた。
「今日の『たいきょくけん』は無しじゃ。今言った言葉の意味をゆっくりと考えてくるがよい」
俺はおじいさんが去っていくのを見ていることしか出来なかった。
それからさらに時は流れ、おじいさんに太極拳を習い始めて半年が経った。今では完全にデブ体型を抜けて、少し痩せているくらいの体型になってきた。
健康になったせいか、ごわごわの天然パーマ気味だった髪はさらさらのストレートになり、太極拳自体も以前より楽にこなせるようになっていた。クラスの中でも嫌われるどころか、中心人物の一員と言ってよいほどとなり、友達もたくさん増えていた。
どれもこれも、全てあのおじいさんと太極拳のおかげであった。俺の人生はあの日を境に全く変わったのだ。
時はまた流れ、太極拳を習い始めてから半年と三ヶ月。この三ヶ月間の変化には目を見張るものがあった。まず、体重の減少が止まった。体重は以前の半分ほどにまでなり、急激に痩せることによって出来る肉のたるみなども一切無く、まさに理想の体型を手に入れたと言っても過言では無い。視力も良くなってきて、今では眼鏡もしていない。周りからは眼鏡を取ったせいかイケメンと言われるようになった。
毎日学校に行くのが楽しくなり、それに比例するようにずっと低迷していた成績もどんどん上がる。数ヶ月前の、全てが嫌になっていた自分が嘘のようだった。
そして今、おじいさんと会ってから一年の時が経とうとしている。あの空き地で俺はおじいさんに最後の太極拳を教わっていた。
「今日でお主と出会って一年になる。わたしが今から教えるのはこの一年の集大成。これを成せばお主は晴れて卒業じゃ。わたしがいなくともやっていけるじゃろう」
「……はい」
いつかこんな日が来ることは分かっていた。だからこそ、おじいさんの一挙一動ですら見逃さないようにする。
「わたしに習って舞うのじゃ。お主ならきっと出来る」
やがて、舞は終わる。全てが終わって、その場に訪れたのは静寂だった。
「……終わったんですよね」
「ああ、これで終わりじゃ。これで理想の自分に成るはずじゃ」
「理想の自分に成る? 理想に成ったでは」
「まだ、最後の変化が訪れる」
おじいさんが言い切ると同時に全身に鋭い痛みが走る。それと同時に感じる膨大な熱気。自分の身体の内側から溢れ出る熱に、立っていられず地面に倒れる。声にならない悲鳴を上げ、地面をのたうち回る。
「わたしがお主を最初に見たとき、お主は全てが嫌になったという瞳をしておった。だからわたしはお主に自分の全てを捨て、新しく成る術を与えた。お主はこれから生まれ変わるのじゃ。名前も家族も戸籍も立場も友人も容姿も体型も嗜好も性別もありとあらゆる物を捨て、新たな自分になる。自分の全てが嫌なら、全てを反転させれば良い。『対極』の位置に存在する人物こそがお主の理想であろう?」
痛みが、熱が消え去る。そこに残されたのは美しい少女、ただ一人だった。しかし少女は思い出すことが出来ない。名前も家族も友人も、己の生きてきた道筋に在る全ての出会いを思い出せない。手に入れたはずの理想の姿の代償は、あまりにも大きかった。
少女は悲痛の叫びを上げる。私の記憶を、思い出を返してと。全てを捨ててまで、こんな姿になりたかったわけじゃない。人生はつらいことばかりでは無かった。楽しいことだってたくさんあったはずだ。しかし、それを思い出すことはもう出来ない。
己の全てを失った少女は、一人泣き続けた。
とある町外れの廃工場。そこで一人の男が自殺を図ろうとしていた。
生まれてこの方一度だってその容姿を褒められず、やっとのことで入社した会社では何もしていないというのに女性陣だけでなく男達からも蔑みの目で見られる。電車に乗れば二回に一回は痴漢と間違われ、とうとう会社からも追い出された。こんな人生に一体何の価値があるのだろうか。
自殺をしようとしているのは偏に、他人には迷惑をかけまいと思ってのことだった。他人に迷惑までかけたら本当の意味で自分には救いようがなくなってしまう。そう考えたのだ。
「……さようなら、クソったれな人生」
縄に自身の首をかけようとした瞬間、『カツ』という靴が地面を叩く音が聞こえる。男はその音にビクリと反応してしまい、バランスを崩して足場にしていた小さな台から落ちてしまった。
尻餅を付きながら入口を見れば、そこに姿を表したのは絶世の美女であった。白く(・・)長い髪を揺らしながらこちらに歩いてくる姿はさながら天使のようだった。美女はゆっくりと口を開く。
「貴方は昔の私に似ている。自分の全てが嫌になった、そんな顔をしているわ。どう? 私に付いて来て理想の貴方になってみない?」
男はその問いに、静かに頷いた。