旗と鋏は使いよう
らのまが 2016年 5・6月号 掲載作品
「それじゃあ、行ってくるわ」
そう言って玄関を出た直後、俺は唐突に郵便受けが気になった。何故気になったのかは分からないが見なければならない。そんな気がした。
郵便受けの中を見ると一枚の黒いカードが入っていた。取り出してみるとやけに豪華な金色の装飾が施されており、そこには白い文字が彫られていた。
『仁部宗太様へ
おめでとうございます
あなたは見事、第一級フラグ建築士試験に合格致しました
今日から貴方は第一級フラグ建築士です』
それは悪戯にしか思えないような内容で。
「そもそも、第一級フラグ建築士って何だよ」
だが、それを捨て去ることが出来ずにかばんの中に詰めて自転車に跨る。後であいつらに見せて話のネタにでもしようと思いつつ家を出る。時計を見れば講義の開始に間に合うかどうかギリギリの時間だった。黒いカードに気を取られていたせいだ。
「大丈夫、大丈夫。この時間ならとばせばギリ間に合う!」
自転車を漕ぐ足に力を込める。いつもより力強く漕いだおかげか駐輪場には電車が来る時間のほんの少し前にたどり着いた。そこで遠くのほうのマンションから白い煙が上がっているのが見えた。思わず二度見して、角度を変えて見れば、後ろの工場の煙突から煙が上がっているだけだった。
「まあ、こんな朝っぱらから火事に遭遇するはずが無いか」
駅のホームに着いて、一息つく。ホームまで歩く間に多少マシになったが自転車の全力疾走のせいで身体が熱い。かばんから扇子を出してパタパタと扇ぐ。涼しい。
「あー」
電車が来て、乗り込む。ギリギリの時間なせいか、いつもより人は少なかった。電車の扉が閉まる寸前で椅子に座っていた人が飛び起きて、慌てて降りていく。それは俺が立っていたちょうど目の前で運良く俺は座ることが出来た。優先席だったが朝の時間に限っては優先などほとんど関係ない。本当に立っているのがつらそうな人が乗って来たりしないかぎりはだいたい無視される。これで降車駅まで楽が出来るな、と思って外を見ると先ほどのマンションが見えた。電車が動き出して、若干距離が近くなっている。
なんとなくそれを眺めているとマンションの屋上付近から黒い煙が上がっているのが見えた。また工場の煙かと思って見ていると周りが少し騒がしくなる。
「なぁ、あれ火事じゃね?」
「誰か通報しろよ」
「もう誰かしてるだろ」
「あの位置じゃ火事に見える場所少ないだろ」
もう一度見てみれば小さくだが確かに赤い火のようなものがチラチラと見えた。うわぁ、と思いながら見ていて、ふと今朝のカードが思い浮かぶ。『あなたは見事、第一級フラグ建築士試験に合格致しました』
まさか、いやそんなはずがない。あれはただの悪戯のはず。しかし、もし本当だったら。あれが悪戯じゃなく事実なのだとしたら。あの火事は俺のせい? 俺があんなことを一瞬でも考えたから。
違う。俺じゃない。俺のせいじゃない。ただの偶然だ。そんなことあるはずがない。
消防車のサイレンの音がどこか遠くに聞こえた。
電車が次の駅に着く。そして扉が開くと一人のおばあさんが乗ってきた。足取りは覚束なく、杖を突いているにも関わらず時折倒れそうになるくらいのご高齢の方だ。せっかく座って楽出来ると思ったのに。そう思いながらおばあさんに席を譲ってからまた思い出した。
あの時俺はよっぽどのことが無ければ席に座ったままでいられる。そう思ったはずだ。そう、よっぽどのことなど無いと思いながら。まさか、これも今朝のカードの。いや、偶然に違いない。朝だって電車にギリギリ間に合うと楽観的な思考でいながらキチンと間に合ったではないか。
偶然が重なることだってあるさ。
『お知らせします。二つ先の駅で病人が出たことにより一時停車をします。電車が遅れることをお詫び申し上げます』
電車が五分ほど遅れたことにより一限の講義には間に合わないことが確定した。あの教授はほんの少しの遅刻でも許さないと有名なので休むほかないだろう。
そんなことを考えつつ俺は必死に頭の中で物事を考えないようにしていた。何かを考えればフラグが立って何かの結果に結びついてしまう。その恐怖に怯え、心を無にしようとするも出来ない。当然だ。俺は修行僧じゃないんだから出来るはずがない。
電車を降りて、重い足取りで大学へ向かう。人がまばらな歩道を歩いていると目の前を何かがよぎった。
「あ、黒猫」
! 俺は今、何を考えた。黒猫から連想されるもの、すなわち不幸。ポケットに入れた携帯が震えだす。おそるおそる取り出して、耳に当てると電話口からは母の悲痛な声が聞こえた。
「宗太! おじいちゃんが倒れたって」
頭の中が真っ白になった。
おじいちゃん。子供のころから大好きで、隙を見つけては遊びに行っていた。家から徒歩数分のところにあるおじいちゃんの家に行くと、いつも暖かく迎えてくれてお菓子をくれたり一緒に映画を見たりした。高校生になってからは忙しくなって行くことは少なくなったがそれでも週に一回は必ず訪れていた。ずっと元気で病気の欠片も無かったおじいちゃん。そんなおじいちゃんが倒れたなど未だに信じられなかった。
俺のせいで。俺がフラグ建築士なんていうものになってしまったせいで。変なことを考えたせいでおじいちゃんが倒れた。母が病院へ向かうと言って電話を切ってからも俺は呆然としていた。頭の中が自分のせいという言葉で埋め尽くされそうになる。
俺はその場で泣き崩れた。涙が止まらない。朝、あんなカードさえ受け取っていなければ。こんなことにはならなかったのに。子供のようにうずくまって泣いているとポンと肩に手を置かれた。
「どうしたん、宗太」
そこにいたのは遅刻常習犯の友人、佐藤大地だった。俺は手に握り締めたカードを渡して、今日のことを話す。涙と嗚咽で何をしゃべっているのか、伝わっているのかすら分からなかったが気持ちを吐き出すことで少しでも楽になりたかった。
いつもおしゃべりなあいつだが、今日は黙って俺の話しを聞いてくれた。一通り話し終えて涙も少しだけ引っ込んできたころ、あいつは口を開いた。
「つらかったな。だけどな、まだ終わりじゃないで。フラグってのはな、確かに悪いものが立つこともあるかもしれん。だけどな、良いフラグだってあるんだよ。お前にはまだこれが必要だろ?」
カードを差し出してきたあいつの言葉にハッとする。今まで悪いことしか起こらなかったから見落としていた。悪いことが起きるなら、良いことが起きるフラグで帳消しにしてしまえばいいんだ。まだ、おじいちゃんは救える!
「ありがとう、大地。目が覚めたよ」
返事は聞かずに走り出す。あいつはこういう時にはしっかりと分かってくれるやつだ。悪いことを、おじいちゃんを救うために、ありったけの幸運のフラグを!
夕方、病院にたどり着いた俺は看護婦に言われた部屋へと向かう。扉を開けると中にはベッドに横たわった人影と椅子に座った母がいた。母はこちらに気が付いて寄ってくる。
「宗太! おじいちゃんが倒れたっていうのにこんな時間までどこでなにをッ」
母は俺の腕の中にあるものを見てその言葉を最後まで発するのは止めた。見ればそんなの明らかだったからだ。
「おじいちゃんが元気になるように取ってきたよ。四葉のクローバー、百枚」
腕一杯の四葉のクローバーを見せた。
「ありがとう」
ベッドから起き上がったおじいちゃんは朗らかな笑みを浮かべる。
同時に四葉のクローバーに埋もれていた黒いカードは金色の粒子となって消えていった。全てが終わった瞬間だった。